後編
少しホラー要素といじめの描写があります。
苦手な方はご注意下さい。
「誰?」
不安そうに聞いてくる彼女は、多分依頼主の娘の香織さんだ。紺のブレザーにえんじ色のリボン。黒髪を肩口で切り揃えている。
「僕は谷口守。こっちのお姉さんは桜田さん。お母さんに言われて、君を迎えに来たんだ」
香織さんの顔が強張った。
「やだ」
短い一言と共に、目つきが鋭くなる。ガタガタと教室の窓が鳴り始めた。
『駄目』
「私はここから動かないんだから!」
彼女の髪と制服がふわりと浮いた。目が赤黒く光る。
『駄目よ、香織っ』
ガシャアアン。
教室の窓という窓が砕けた。そこからなだれ込んできた、冬の冷たい風とガラスの破片が私と谷口君を襲った。
「きゃああっ」
私は目を瞑ってその場にしゃがみ込んだ。
「私はここから動いちゃ駄目なの! 放っておいて!!」
金切り声と一緒に、ガシャガシャとガラスが何かにぶつかって砕ける音が大音量で響く。
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。どこが危険の危の字もないというのか。
「桜田さん、桜田さん」
「きゃーっ、嫌、馬鹿馬鹿馬鹿。谷口君の嘘つきぃ」
目を瞑ったまま、適当に谷口君を叩く。
怖い、怖い、怖い。お化けなんて苦手だ。怪談だって好きじゃないのに。
「桜田さん! 大丈夫、大丈夫ですから」
近くにしゃがんだ気配がして、ぽんぽんとあやすように背中を叩かれた。恐る恐る、目を開く。滲んだ視界に、情けなく眉を垂らした谷口君がいた。
私と谷口君の周りには、ぐるりと円を描いてガラスの破片が落ちている。空中にはお札が一つ、張り付いていた。お札からは光が発せられていて、ドームのように私たちを覆っている。
「私はここにいないと……だって、萌を死なせたのは私なんだから!」
『違う、違うよ』
教室の真ん中では、香織さんがヒステリックに叫んでいた。その周りにうろうろと足跡がどんどん増えていく。
「困ったな……泣かないで下さい。桜田さんは視える人だから、てっきり慣れていると思ってました。そんなに怖がるなんて思わなかった。すみません」
谷口君が、どうしたらいいか分からない、といった風に私の背中を撫でる。
「力を貸してください。僕だと彼女を消すことしか出来ない」
その弱り切った態度に、私の気持ちは逆に立ち直った。
後輩が困っているのだから、私がちゃんとしないといけない。
「か、彼女を? どっちの彼女?」
でもやっぱり少し怖い。私は背中を撫でてくれる谷口君の腕をぎゅっと掴んで、香織さんの方を見た。
「何で出て行ってくれないの! 私はこのままここで、萌に殺されてあげなきゃいけないのに!」
目をギラギラと光らせて、こっちを睨んでいる。うわぁ、やっぱり怖い。
『香織、落ち着いて』
香織さんの後ろには、もう一人。同じ制服の少女がいた。彼女はオロオロと香織さんの周りを歩いては、香織さんに声をかけたり肩を叩いたりしている。その度に、床に足跡を増やしていた。
ずっと続いていた足跡は、彼女のものだったんだ。
「どっちの彼女、ということは。やっぱり、視えているんですね」
谷口君が溜め息を吐いた。
「僕には一人しか視えていません。一人はとても弱くて、ぼんやりと気配を感じる程度です。彼女の声、聞こえますか?」
「うん。香織さんに違うって言ってる」
彼女は香織さんの方に手を置き、必死に何かしゃべりかけていた。
『私の声が聞こえるの?』
驚いたように目を開いた彼女が、こっちを向く。香織さんと同じく、真面目で大人しそうな子だ。
「今回の依頼内容は、娘の香織さんに自殺した同級生の山本萌の霊が憑りついたから除霊してくれ、というものでした。だから最初に自殺現場に行ったんです。でも、そこには全く何の怨念も感じられなかった」
人に憑りつくほどの霊なら、死んだ場所に何かしらの念を残す。何もないということは、恨みや憎しみがないということらしい。
「依頼主の話では同級生の自殺後、香織さんは急に攻撃的な態度を取り始め、体調不良を訴えて家に引きこもり。心配して精神科に連れて行こうとしたら、急に依頼主の体調が悪くなり連れて行くのをやめると治る。その内香織さんが眠っている間に家の中や香織さんの体に引っかき傷のようなものが出来始めた」
これは精神的なものではなく、何か悪いものが憑いているに違いない。自殺した同級生は香織さんの親友で、二人の間に何かあったのではないか。
それで香織さんに憑りつき、苦しめているのでは、というのが両親の見解だったそうだ。
「萌が死んだのは私のせいなの。だから呪い殺されたって仕方ない」
『違う、香織。私は恨んでないの』
髪と制服を揺らめかせ、叫ぶ香織さんに、必死に訴えかける少女。この子が山本萌さんだ。
「それはおかしいわ」
萌さんは香織さんを恨んでない。それどころか、心配している。だから足跡を残してたんだ。
「僕もそう思いました。自殺現場には怨念の類はなかった。でも、何かの思念だけ残っていてぼんやりと香織さんの家まで続いていた。何かを伝えたいということだけは分かりました。だから桜田さんを連れてきたんです」
クリスマスイブの夜、自分で『領域』を破った私なら見えると思ったのだと、谷口君は言う。
「私のせいだって言いたいのよ! お前のせいで死んだんだって」
『違う、香織。私、香織だけが味方だった』
赤黒く光る眼から、涙が落ちた。香織さんの肩に手を置いた萌さんの瞳からも、滴が落ちる。どちらも透明で、綺麗に光っていた。
私は辺りを見渡した。学校の教室。これが彼女たちの『領域』。
私は自分の『領域』を思い出す。雪の降る屋上。あの日、飛び降りたあの場所。冷たくて寒くて、誰もいなかったあそこ。あの世界が壊れたのは、どうしてだっただろう。
ふいに、教室の中にざわめきが発生した。いつの間にか生徒たちがいる。彼らは萌さんを囲んでニヤニヤと笑っていた。
萌さんが二人だけど、こっちの萌さんは多分、領域が作り出したもの。過去の幻影だ。
『ブス。根暗女。あんたがいると空気が悪いのよ』
『あんたなんかいなかったらいいのに』
『ねえ、空気読んで消えてよ』
『生きてて恥ずかしくない?』
うつむく萌さんの髪は濡れていた。髪や制服からぽたぽたと、滴が落ちる。
『ねえ、香織もそう思うでしょー?』
『香織はこいつとは違うもんねー?』
『言ってやりなよ、あんたなんてウザいって』
教室の隅に立っていた香織さんがびくっと体を震わせる。
この香織さんも幻影の方。
幻影の香織さんは、口元だけを引きつらせて笑うと、言った。
『も、萌なんて友達じゃない。ウザいから……死んでよ』
ガタン。
うつむいたまま萌さんが立ち上がった。そのまま黙って教室から走り去った。
『ぎゃははははっ』
『受けるーっ』
『死ねだってぇ、ひどぉい』
びしょ濡れの彼女のあしあとを残した教室に、生徒たちの耳障りな声が木霊した。彼らの体と声がぐにゃぐにゃと歪み、教室中に伸びていく。
『あいつが死んだらさぁ、あんたのせいだからね』
『あんたのせい』
『せい、せい、せい、せいせいせいせい…………死ね』
耳を塞ぎたくなるような、不快な声。不気味に伸びて責め立てる生徒たち。これが香織さんの『領域』。
「あの時、味方してあげられなかったから」
『違うよ、香織』
「……違うよ、香織」
私は萌さんの言葉を繰り返した。谷口君が立てた二本の指から札を出して、足跡へ投げる。
一枚、札が足跡に当たる。
ぱしゃん。
小さな音を立てて、足跡の一つが壊れた。壊れた足跡は光る滴になって、生徒たちに向かう。
幻影ではない方の香織さんが、瞳を泳がせた。
「私が死ねって言ったから」
『あいつらに逆らえないの、分かってる。私も出来なかったもん』
「あいつらに逆らえないの、分かってる。私も出来なかったもん」
谷口君の指から手品みたいにまた札が現れる。それを軽い動作で投げた。
ぱしゃん、ぱしゃん。
また一つ、一つと足跡が壊れる。
香織さんの目から、涙がこぼれた。
「ごめんなさい、萌。本当にごめん」
『ごめんね香織。一人にして。私がいなくなったら香織が次の私だけど。どうしても耐えられなくなっちゃった』
「ごめんね香織。一人にして。私がいなくなったら香織が次の私だけど。どうしても耐えられなくなっちゃった」
谷口君が次々と札を出し、投げていく。
ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。
足跡が消えて、光る滴がどんどん生徒たちを飲み込んでいく。
「一緒にいじめられたら良かった。私なんか死ねば」
『駄目。駄目だよ』
「駄目。駄目だよ」
光る滴が、世界を塗り替えていく。
『私、香織を許してあげない。だから生きて』
「私、香織を許してあげない。だから生きて」
眩しくて、段々と見えなくなってくる。萌さんの表情も光に融けてよく見えない。
『生きるって、一番残酷でしょう?』
「生きるって、一番残酷でしょう?」
ぱしゃん。
最後の一つが壊れて、世界は光る滴で満たされた。
****
目を開けたら、ピンクと白の部屋だった。白い家具、薄いピンクのラグやカーテン。やはり白とピンクのベッドに、少女が寝ている。
さっきの香織さんより、痩せて頬のこけた香織さんだ。規則正しく上下する布団に、力が抜けた。
「良かったぁ」
次いでに腰も抜けて、私はその場にへたりこんだ。着いた両手にふわふわのラグが優しく絡む。ああ、見た目通りの感触が心底嬉しい。
日常に帰った現状にほっとすれば、麻痺していた感情も戻ってくる。
「た・に・ぐ・ち・くぅーん」
地の底からの声を出せば、谷口君の背筋が伸びた。
「危険はなかったでしょう?」
口元をヒクヒクとひきつらせながら、営業スマイルを浮かべた。
「怖かった! 危険を感じた!」
「すみません。本当にすみません」
両手を合わせて平謝りする谷口君に、ぷいっと横を向いて私は叫んだ。
「もう絶対、谷口君の助手なんてしないから!」
この捨て台詞は残念ながら破られることにはなるけれど。それはまた、未来のこと。
次の金曜日。私は谷口君と飲みに行った。勿論、全部谷口君の驕りだ。
「もっと高級な料理をねだられるかと思ったんですが」
「堅苦しいのは嫌なの。それにここの焼き鳥美味しいし」
私はぷりぷりの焼き鳥を頬張り、飲み下してからビールのジョッキを手に取った。ぐいっと上に傾け、ごくごくと泡立つ苦味を喉に流し込む。
「ぷはーっ」
どん、とジョッキをテーブルに置いて息を吐いた。隣で親父臭いなぁ、と苦笑いの谷口君はレモンサワー。女子か。
「香織さん、大丈夫だと思う?」
「さあ?」
谷口君は軽く肩を竦め、焼き鳥を串から引き抜く。
「冷たいなあ」
「後は彼女の問題ですから。僕の仕事は除霊。それ以上はお門違いです」
「ふーん」
じゃあ、どうしてわざわざ私を助手として連れて行ったのか、なんて聞かないことにする。谷口君の仕事は除霊だけ。そういうことにしておこう。
代わりに私は手に持った新聞に目を落とした。新聞の見出しには『都立〇〇高校の女子生徒自殺。原因はいじめか』とある。
「今更、動いたのね」
同級生五人の関与、事実確認と真相究明中であること、学校側の謝罪などが書かれている。女生徒の自殺は三か月も前で、学校側の隠蔽などが取りざたされ、いじめそのものが教員によって黙殺されていた事実も糾弾されている。
「遅すぎますけど、膿を出しておかないとまた似たようなことが起きますから。それに」
谷口君がレモンサワーをちびりと飲んだ。私は二杯目のビールを注文する。
レモンサワーを持つ手と反対の手は、名刺をくるくると弄んでいる。
マスコミ。教育委員会トップ。政治家。
『除霊師 谷口 守』と書かれたシンプルすぎるあの名刺が、見た目以上の効力を発揮するというのが今回で分かった。
「何よりも香織さんが望んでいましたからね」
目を覚ました香織さんの、透明な眼差しを思い出す。その奥にしっかりと宿った、あの足跡のような光も。
私は大きくジョッキを傾けた。はじめて飲んだ時、この苦味が嫌いだったなあって、そんな脈絡のないことを思う。
シュワシュワと泡が喉を刺激して、通り抜ける。爽快だ。これだから、ビールは好き。
『生きるって、一番残酷でしょう?』
萌さんの言葉が、私の頭の中でリフレインした。
この短編は、アンリさまの活動報告のお題から生まれた続編でもあります。
興味がありましたら、下記のURLからどうぞ。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/613731/blogkey/2470554/