前編
この作品は、自身の「冬のあしあと」企画参加作品です。
また、アンリさまの活動報告のお題から生まれた続編でもあります。
設定はふわっとです。
なんでこんなことになったんだろう。
後悔、疑問、不安、疑い。
私は、そんなものをぐるぐるとかき混ぜたような気分を抱え、谷口君の上着の裾を掴んでいた。
谷口君が一歩進めば、私も後ろをくっついて進む。
金魚の糞。迷子の子供。
頭の中にはそんな言葉が浮かぶ。
谷口君と私が居るのは、直線の廊下、リノリウムの床の上。廊下の壁は大きな窓だらけで、外が丸見え。反対の壁にも窓があるが、引き戸もあった。引き戸の上には、小さな板が張りだし、2-Aと書いてあった。
要するに学校。学校の廊下に私達はいる。ように、見えている。
「あの、そちらの方は」
小柄でふっくらとした、中年の女性の、戸惑いに怪しみを混ぜた瞳が私に向く。彼女は落ち着かなさげに膝の上で組んだ両手を、小刻みに擦り合わせていた。
そりゃあ、怪しいだろう。そもそも谷口君だって世間一般では怪しまれる職業。その谷口君と一緒に来た女が、べったりとくっついているのだ。怪しくない筈がない。
私だって好きでこんな風にしているわけじゃない。だけど、この人に説明したって意味不明だと思うし、私自身も今の状況が理解不能だ。
そのせいで違うんだという抗議も、実はこうなのだという説明も出来ず、代わりに私はただ口をへの字に曲げた。
「助手です。彼女がいると、仕事がやりやすいんですよ」
「助手っ!?」
谷口君の一言に、私はすっとんきょうな声を出してしまい、慌てて口元に手を当てた。
「はあ」
怪訝そうな女性と焦る私とは違い、谷口君は笑顔だった。その笑顔が憎らしい。
私は掴んでいる谷口君の上着を引っ張り、小声で囁いた。
『ちょっと、谷口君。助手って何?』
『助手は助手ですよ。手伝ってほしいことがあるからついて来てくださいって言ったじゃないですか』
『そうだけど』
拒否権なんてなかったじゃない。
私は喉元まで出かかった文句を奥に押し込めた。
昨日の夕方。仕事帰りに取っ掴まり、クリスマスイブの借りを持ち出されてなし崩しだったのだ。あれは断れない。
今の私の彼への感情は、後悔・疑問、不安、疑いに加え、感謝・信頼もあるのだから。
「まあ、任せて下さい。必ず除霊を成功させてあなたの娘さんはお助けしますから」
「お願いします」
女性が深々と頭を下げた。
「娘の部屋は……」
「案内には及びません。分かっていますから。危険が及ぶといけませんので、これを持って終わるまであなたは居間で待っていて下さい」
そう言って谷口君が女性に渡したのは、お札らしき白い紙。お札だなんて、どうにも不吉な予感しかない。危険が及ぶといけないって何? 及ぶ可能性があるってこと?
「じゃ、行きましょうか。桜田さん」
「ちょ、急に動かないで」
谷口君の服の裾を掴んでいた私は、一歩踏み出した谷口君につられ、たたらを踏む。足裏にはフローリングのつるんと冷たい感触が靴下越しに伝わってくる。当然それは上靴やスリッパがリノリウムの床を踏みしめるものとは違う。
見えているものと体が感じるものとの違いが不安で仕方ない。今現実の私はどこにいるんだろう。
「もしかして、もう『領域』に入ってます?」
私の不安に気付いたのか、谷口君が足を止めて私を振り返った。
「『領域』?『領域』って何?」
谷口君の言った言葉の意味が分からず、私は首を傾げる。
「ああ、ええと。今見えてる景色は何ですか」
「学校の廊下」
「わお」
正直に答えると、谷口君が目を丸くした。もともとくりっとした目だから、そういう表情をすると子供っぽい。
「あのぅ、学校の廊下って……?」
おずおずと聞いてくる女性の目は、この女、頭がおかしいんじゃないだろうかというものだ。うん、それもよく分かる。だってここは、学校の廊下なんかじゃない……筈。筈なのだけど。
私の目に写っているのは、どう見ても学校の廊下だった。
「ああ、すみません。こっちのことですから気にしないでください。それよりも居間に戻って、そこから一歩も出ないでくださいね」
女性に向かって、谷口君がにこにこと手を振る。女性はまた頭を下げてから引き戸を開け、教室の中に入っていった。
「ねぇ、谷口君。私、帰っていい? 何の役にも立たないどころか足手まといだと思うの」
教室の扉がぴしゃんと閉まったのを見届けてから、私は谷口君に囁いた。
「桜田さんの霊能力なら、大丈夫。十分役に立ちます。危険なことからは僕が責任をもって守りますので、危険の危の字もありませんよ」
私の不安なんてどこ吹く風の谷口君。いやいやいや。何、その謎の自信。
「待って待って。私に霊能力なんてないんだけど」
谷口君の裾を持つのとは反対の手を、ブンブンと横に振る。
「自覚ないだけです。いやぁ、クリスマスイブの生霊騒ぎで思っていましたが、足手まといどころか、予想以上だったみたいで僕も嬉しいです」
「私は嬉しくない」
クリスマスイブの生霊騒ぎというのは、私が引き起こした事件だ。谷口君が私の会社に派遣されてきた理由の一つでもある。
クリスマスの約一ケ月前。私は屋上から投身自殺を図った。けれど運よく羽毛布団満載のトラックの荷台に転落。一命を取り留めたんだけど、生霊の私はなんと会社にいついてしまった。谷口君は普通の派遣社員を装いやってきて、私を体に戻してくれたのだ。
その時のことはどうも夢でも見ているみたいにあやふやなだった。いつも通り自分の席でパソコンに向かっていても何の違和感もなかったのだ。多分、霊体だったから思考も少しおかしかったんだと思う。なんというか、夢の中でのよく分からない思考回路。あんな感じだった。
新しくきた派遣社員の谷口君を紹介された時も、普通に歓迎した。先輩を気取って色々と教えてあげたんだけど、なんか反応薄いなくらいに思っていた。二人きりの時はそんなことないのに、誰かがいると受け応えがごにょごにょしていて、てっきり彼は人見知りだと勘違いしていたのだ。
今思うと当たり前だ。
なにせその時の私は霊。そんな私と普通に話していたら、谷口君は頭のおかしい人である。
そうして過ごしているうちに、私も違和感に気付いた。会社の同僚に話しかけても、無視される。お茶くみを手伝ったら気味悪がられた。いつも通り書類を片付けて提出していたら、上司が青ざめていた。
途切れがちな記憶を辿って、自分が屋上から飛び降りたことを思い出した途端、私にはある景色が見えた。
屋上の縁へと向かう、薄っすらと積もった雪に残る足跡を。
私はてっきり自分が死んだのだと思い込んだ。成仏の仕方など分からないけれど、私はなんとなく気持ちに折り合いをつけたらいいのだろうと見当をつけ、最後に、と思って谷口君をからかったのだ。神様とサンタクロースを信じる? と。
仕事をし過ぎる新人の谷口君への警告のつもりだった。あんまり頑張りすぎちゃ駄目だって。私みたいになってはいけないって。
まさかその谷口君が除霊師で、彼に助けられるとは思わなかった。
どや顔でクリスマスと神様の信仰についてなんて、語るんじゃなかったと後悔している。
とまあ、それがクリスマスイブの夜の生霊騒ぎなのである。
「桜田さん、そのまま僕に掴まってついてくれば大丈夫です。段差とか障害物がある時は知らせますから」
谷口君は、今度はゆっくりと足を踏み出した。私は言われた通りに谷口君の動きに合わせてそろりそろりと進む。
「桜田さん、ここから階段です。見えてますか?」
「見えてない。廊下が続いているようにしか見えないわ。ほんとに階段?」
目を凝らしても、私には学校の廊下が真っ直ぐに伸びているように見える。谷口君が片足を持ち上げた。
「ほら、僕、一段上がったでしょ。二階が荒木香織さんの部屋みたいですね」
空中に足を置いた谷口君が、斜め上に視線をやった。彼の目線を辿ってみれば、なるほど、階段は見えないけれど代わりに浮かび上がってきたものがある。
私は頷いて同意した。
「ほんとだ。足跡があるわ」
床に濡れたように光る足跡があった。大きさは私と変わらないように思える。女性か少年だろうか。
「足跡? 桜田さんには足跡として見えてるんですか。随分はっきりしたものに見えるんですね」
何故か驚かれた。見えることもだけど、はっきりしている、ということがどうも珍しいらしい。
「谷口君にも見えているの?」
「まだ僕は『領域』に入ってないんではっきりとはしてないですが、一応、視えてますね。黒い染みみたいなのがぼんやりと」
谷口君がゆっくりと私には見えない階段を上り始める。私も谷口君にくっついて足で探りながら上った。
すると、前方に真っ直ぐ伸びているリノリウムの床も私の視線にくっついて移動したのか、一歩分、景色が後方に流れ、前に進んだ。
「さっきから『領域』『領域』って言ってるけど、その『領域』って何? いい加減説明して」
どうにも置いてきぼりなことが多すぎる。苛立った私は谷口君のコーデュロイシャツの襟首をつかんだ。
「すみません!」
危ないのであまり強くは引っ張らなかったけれど、谷口君は私の圧にやられたみたいだ。
降参とばかりに手を上げて小さくのけ反った。
谷口君の衣服や髪の後ろが何かに当たってぺたんと潰れる。多分、壁だろう。私の見ている学校の壁はもう少し後ろにあるので、なんだか変な感じだ。
襟を掴んだ時にのけ反ったものだから、引っ張られた私は谷口君にもたれかかるようになった。間近にばんざいをした谷口君の顔。ほんのりと顔を赤らめている彼にはっとなり、私は襟から手を離した。
「コホン。じゃあ、説明して」
軽く握った拳を口元に持っていき、咳ばらいをしてごまかした。だけどもう片方の手は上着を掴んだままだから、どうもしまらない。
「『領域』というのは強い霊が展開する空間というか、テリトリーのようなものです。その霊が縛られている景色になることが多いです。普通の人間には見えませんし、霊感のある人でもぼんやりと感じたり、断片が見える程度。ほら、幽霊船が見えたとか、合戦のあった場所でその時の光景が浮かんだとかそういうの、怪談であるでしょう? そういうのですよ」
谷口君がまた階段を上り始めた。私に合わせてゆっくりと慎重に上ってくれる。
「ふうん。じゃあ私は霊感があるってことね」
「あるどころか、世界が変わって見えるくらいにはっきりと視えるレベルって、僕より凄いです」
「えっ? だって谷口君、プロなんじゃないの?」
私は辺りを見渡した。相変わらず学校の廊下だ。
廊下の窓からは日差しが降り注いでいるし、中庭も見える。反対側の教室に人はいないが、空いた窓から机や壁に貼ってある書道とか、目標とかまで見えるし、何なら時々吹いてくる風が肌を撫でる。
「除霊師としては一応プロですよ。でもそんなにはっきりとは視えません。現実の世界にぼんやりと重なって視える程度です。よくある、あやしい心霊写真、あんな感じですね」
「そうなんだ……」
心霊特番などで紹介される、あのぼんやりと写る白い光だったり、よく見ると顔っぽいものが写っていたりするような、そんな感じなのだそうだ。思ったよりも曖昧だ。いや、時々はっきりとした心霊写真とかもあるから、そんな風にはっきりと見える霊もいるのだろうか。
なんて雑談をしている内に着いたらしい。私たちは2-Eの教室の扉の前に来ていた。足跡も教室の前にある。谷口君が教室の扉を開けると、足跡の続きが中へ続いている。
教室には少女が席についていた。