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悪役。
そう、エイリンビィ=ファベットはこの不思議な本に描かれた物語において悪役であった。
それはもう見事なほどに当て馬的存在。
恋に燃える二人に貴族的な常識という名の水を注す、非常に煩わしくも邪魔な存在。
『そのような娘を相手にするなど、王となる身と自覚はおありになるのですか?』
そう扇子で口元をかくし、嫌そうに告げる物語中のエイリンビィ=ファベットは王子にとっては煙たい嫌われ役。
たとえその発言が常識的であったとしても。
最愛の恋人を妾にしろと言う物語の中のエイリンビィ=ファベットに王子は酷く嫌悪感を抱き、そして反発していた。
残念ながら、現実のエイリンビィ=ファベットと物語の中の人物像が全く異なる。といいきれないものがそこにはあった。
「まあ、私ならば確かに側室の一人や二人抱えてもそう怒らないわね」
貴族ならば、恋だの愛だのに現を抜かす暇があれば新たな政策のひとつでも考えればいいと思うのも事実だ。
たとえ相思相愛の相手がいたとしても王族の婚姻ひとつでうまくいく交渉があるなら賛成もしよう。
甘い夢に浸れるほど、公爵という地位は甘くない。
それは王族とて同じ。
「あながち間違ってはいないのかしら?」
そうひとりごちる。
物語のエイリンビィ=ファベットが王子に伝える言葉は正に公爵家としてのエイリンビィ=ファベットの意見そのもの。
実際、公爵家に産まれたからには愛や恋こそ、夢物語だとエイリンビィ=ファベットは理解している。
一族にとって、国にとって意味のある結婚以外の選択肢などエイリンビィ=ファベットにはない。
なにより、そのために宝石のごとく細部まで磨かれてきたのだから。
物語の中で唾棄すべき前時代的な凝り固まった思想の代表のような描かれ方をしたエイリンビィ=ファベットという人物は、壊されていく旧時代的貴族の象徴のような役割なのだろう。
そして、物語に描かれているエイリンビィ=ファベットと同じように、貴族とはこうあるべき。と、常にそう考えて行動するエイリンビィ=ファベットにとってこの不思議な物語は多少なりとも身につままされる内容でもあった。
ガラン ガランと鐘が鳴った。
エイリンビィ=ファベットは手にしていた本をもとあった場所へ収め、図書室を後にした。
夕焼けが眩しい空中庭園を歩く。
眼下では家路につく生徒の姿。
エイリンビィ=ファベットの瞳が、赤い夕日に照らされた髪が赤く燃えるような輝きを放つ1人の生徒の姿を捉えた。
それは彼女の婚約者。
足を止め目で追う。
その姿をみつめていると、ふと、先ほどの物語を思い出した。
『君には失望したよ、エイリンビィ=ファベット』
そう、そして、彼は私ではない人の手を取って…
いいや、考えるのは無為なことだ。
エイリンビィ=ファベットは首をゆるくふった。
そうだ、あれはただの絵空事。
起きていない架空の話。
描かれた物語の中だけの出来事。
けれど
なぜかそれがエイリンビィ=ファベットの胸を酷くざわつかせた。
視線の先でその人は学友に囲まれて歩いている。
その中にエイリンビィ=ファベットのはいない。
エイリンビィ=ファベットがいるのはいつも彼から離れた場所。
城の彼の隣に置かれた椅子は用意されているというのに、学園の彼の隣に自分の居場所はない。
それは酷く滑稽なことだと自嘲し、沈みつつある茜色の太陽に背を向けた。
すぐそばまで来ていた夜空がエイリンビィ=ファベットを呑み込んだ。