ぼくとあの子
悲しい話です。幸せとはなんなのか、何を持って幸せと言うのか、自分の幸せはなんの上に成り立っているのか。自分が幸せなら、自分の子供を消し去る事も、出来てしまうのでしょうか。
ねえ母さん。これは何処へ行くの?
「きっと幸せな所だよ」
ぼくはもう幸せだよ?
「今よりもっと幸せになれるのさ」
そうなの?いいのかなそんなの。
「いいとも。お前はいい子だからね」
えへへ。あ、あの子は?
「どの子だい?」
あの子だよ。ぼくといつも遊んでくれる。同じくらいの背の女の子。
「ああ。あの子。あの子は、きっともうすぐさ。お前のあとにちゃんと来るよ」
本当!?ぼくもあの子もいい子なんだね!
「ああ。そうだね」
それにしても母さん。なんだか暗いね。
「森の中だからね」
こんな森の中に、今より幸せなところがあるの?
「ああ、あるとも。今はまだその前だから、暗くて、怖いかもしれないけれど、直に明るくなるよ」
そっか!楽しみだなぁ。
「でもね坊や。母さんは大人だから行けないんだ。もう少ししたらとても大きな木が見えてくる。そうしたらそれを右に進んでいくんだよ。分かったかい」
大きな木を右だね!分かったよ母さん。
「やっぱりお前は賢くていい子だね」
そう言って母さんは、ぼくの頭を優しく撫でてくれた。ほんの少しだけ、笑ってくれた。嬉しかった。
母さんは「じゃあね」とだけ言って、来た道を帰っていってしまった。「じゃあねー!」と大きな声で、思いっきり手を振って、直ぐに前に向き戻り、知らない道を進んだ。
三分もしないうちに小さい自分なんかじゃ、見上げたまま後ろに倒れそうになるくらい大きな木があった。これを右。小さく呟いて、不思議と楽しみになってきながら、その前までと変わらないスピードで歩き続けた。
けれどそれは直ぐに終わった。木々が詰め込められているように重なり合って生えていたため、気が付く事ができなかったけれど、二十メートルもすればそこは崖だった。何も知らずに歩いていたぼくは、急に視界が開けた。と思った次には、下へ真っ逆さまだった。
岩をあとから接着したように形作られている壁のおかげで、落下している最中に体をぶつけまくった。
骨が砕ける音がする。皮膚が裂かれるのが見える。肉が抉れるのを感じる。
痛いと感じる前に次の痛みが流れ込んでくる。と思えば次の痛み。十五メートル程であったはずの崖は、体感的には三十メートル程に感じられた。それほど落ちている時間が長かった。痛みと共に様々な思いや記憶も流れて写されていく。
こっちを睨んでいる母の顔。怒鳴り散らしている母の声。泣き喚いてい蹲る母の背中。存在を否定してくる大人たち。面白可笑しく話す大人たち。笑いかけてくれるあの子。手を差し出してくれるあの子。抱きしめてくれるあの子。泣いてくれるあの子。可愛いあの子。
こんな痛い事の先に幸せなんてあるの?母さん、痛いよ。辛いよ。助けて。あの子に会いたい。あの子もこんな思いをしてるの?ダメだよそんなの。あの子を守らなきゃ。でも痛いんだ。無理だよ。ごめんね。ごめんなさ―。
そこまで無意識に考え込んでいる内に、ぼくは地面に叩き付けられ、骨は砕けて、血管は千切れて、血は噴き出し、肉は飛び散り、ぼくはただの肉塊になった。
そうか、ぼくは騙されたんだ。これまで必死に必要とされるために生きてきたのに、結局意味はなかったんだ。要らない存在だったんだ。邪魔だったんだ。多分母さんは幸せになるんだろうなぁ。父さんが居なくなる原因になったあの男の人と一緒に暮らして、そこでぼくなんかより出来のいい、何より父さんの子供じゃない子も生まれて、それで幸せになるんだ。ぼくは、これで幸せになれるのかなぁ。あの子と、一緒に生きられるかなぁ。あの子は今何してるんだろうなぁ。どこにいるんだろうなぁ。…なんか眠くなってきた。このまま寝られたら幸せになれる気がする。母さん、疑ってごめんなさい。あぁ、明るくなってきた。ぼくは今幸せになれそうです。ありがとう。さようなら。
生まれてからずっと、ひとりぼっちだった少年は、彼らしく、ひとりぼっちで死んで行きました。
それは、出会いと別れを繰り返す、心地いい春の日でした。
彼の想い人である"あの子"は、少年の姿を探して、今日も泣いています。
幸せのためにしていい事と、わるい事の境目とは、どこなんでしょうね。