幼馴染のネクタイを締める
それは、ある日の昼下がりの教室で、とても、とても、突然のことだったのです。
「シンジー!教科書貸してくれよー!」
このバカな幼馴染の能天気なツラを思い切り殴りたい。
もっとも、殴る前に無駄に運動神経のいい幼馴染がわたしの拳を受け止めたのでそれは願望で終わることになるのだけれど。
「いや、ほら、俺なりの理由があるから、なっ怒るなよ~」
「いやだな佑真、わたしのどこが怒ってるように見える?」
「さしあたって力の緩まないこの拳だと思うんだけどなんていうかほんとすいませんでした」
はじめ能天気なツラをしていた佑真は次第に顔色を悪くしていったので、わたしが怒っているということをだんだんとわかってきたのだろう。とりあえず、教室内でこのやりとりは目立つ。廊下でも目立つことには変わらないけれど、ここにいるよりはマシだろう。
わたしは拳を下ろして、佑真のネクタイを掴んで廊下に引きずり出すことにした。
「時間もないから手短に」
「理由聞いてくれるのか、いや~シンジは昔っからそういうところやさしい」
「手短に」
「ッス」
グイとネクタイを締めてやると佑真の目から光が消える。そんな瞳のまま、佑真は言い訳をはじめた。
「いや、お前が俺に近づくなって言ったのはさ、女子にモテる前に嫉妬されたくないからだったろ?で、ほら、お前もうモテモテじゃん、メガネとかあの真利とかとも仲良く話してるしさ、だから俺もいいかなーって」
思って、と佑真は目をそらしながらそんな言い訳をした。
わたしはといえば、佑真のそんな言い訳に、目を丸くして、佑真のネクタイを掴む手は、緩んでいた。
「わたし、モテモテに見える?」
「少なくとも俺は、そう見えたから話しかけた」
「そ、そ、そっか」
いやまあ、そんなことを言われては、悪い気はしない。特に、人を見る目のある、佑真の言うことならなおさらだ。
「お、嬉しいか?嬉しいんだろ~」
「う、う、うるさい」
「ぐえ」
ニタニタと笑うな。お前のネクタイはまだわたしの手中なんだからな。
「で、何の教科書が無いって?」
「あ、貸してくれるんだ、やっぱシンジはそういうとこ優しいよな~」
「いいから、言え」
「ぐえ、す、数学、数学です」
もう一度ネクタイを締めてやれば、苦しそうな顔をしてそう吐いた。必要な情報を佑真から聞き出すと、わたしはネクタイから手をはなす。
「わかった、ちょっと待ってて」
後ろから「やっさし~サンキュー」なんて懲りない声が聞こえるが、もう、無視しよう。数学、数学ね。
「アレが、例の幼馴染か?」
教科書を取りに自分の席へ戻ると、同情といった目をした平胤が慎重に声をかけてきた。幼馴染の暴挙に機嫌を損ねているわたしを気遣っているのだろうか、平胤にしては珍しい。でも今はそれが、とてもありがたく感じる。きっと平胤も幼馴染に苦労させられるということを知っているからだろう。平胤の気遣いに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
「うん、まあ、実はそうなんだよね」
「そうか…」
「同情の視線をありがとう、でも、ま、いいんだ」
平胤が驚いたような顔になった。
幼馴染に苦労をさせられているというのは、たしかにそうなんだけども。
「わたし自身あいつのこと嫌いじゃないし、むしろ大事な家族みたいなもんだから、少しほっとしてる、これでもう学校であいつのこと無視しなくていいんだからさ」
だからといって嫌いになるわけじゃ、ないから。
「まあ、たしかに」
平胤は、笑っていた。
「そういうところが、また厄介だな、幼馴染というやつは」
呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに笑っていた。たぶんわたしも、同じように笑っているのだと思う。
「ねえところで、あんた置き勉でしょ?なんで教科書無いの」
「いや~他の奴に貸したらそいつが家に置いてきたっていうからさ、テキトーに誰かに借りても良かったんだけどこれはチャンスだと思って、シンジに借りに来たんだよ」
「計画的犯行」
わたしは笑う幼馴染のネクタイをもう一度締めた。




