大人になるということ
山口拓也は背徳的な人間が嫌いである。
学校にいる社会の底辺たちが声を発する度に、不快に感じる程。
今日も良い事は一つもなかった。
それは、昼休みの時のこと。
授業が終わり、周りの生徒たちは自分の友達と共に弁当を食べ始める。
一方、友達のいない拓也は決まって自宅から持ってきた小説を手に教室を出て保健室へと移動する。
足を踏み入れた途端、様々な薬品の香りが脳を刺激し落ち着かせた気分にさせる。 そしてそれは次第に幸福感へと変わり、彼は保健室にある椅子にゆっくりと腰を掛け、自分が持参してきた小説を読み始める。
拓也は読書が大好きだ。
休日はご飯も食べずに部屋に籠って読み耽ってしまう程に。
嗚呼、静かで清潔な空間で行う読書、なんて最高なのだろう……。
しかし、その幸せも束の間。
荒く扉が開かれる。
何事かとそちらに目をやるとそこには制服を砂で汚した同じクラスの社会の底辺たちだった。
ズカズカと耳障りな足音を鳴らしながら許可もなく拓也の聖域へと入り込んできた。
「先生ぇ~、いないのぉ~?」
無駄に語尾を伸ばした、無駄に大きな声に、卓也は眉間に皺を寄せる。
「お? 山口じゃん」
内一人が拓也の存在に気づく。
「なんだいたのかよ。 お前影薄すぎっ!」
ゲラゲラと品の無い笑いをあげる社会の底辺たち。
一言余計だと思いつつ再び小説へと目を通すとリーダー格の男にそれを取り上げられた。
「何読んでんだ?」
「エロ本だったりして!」
「”吾輩は猫である”だってよ?」
「教科書に載っているヤツじゃん!」
無駄なもの読んでんなと下品な笑いをする社会の底辺たち。
黙れ、貴様らみたいな愚鈍な奴らに夏目漱石の良さが解ってたまるか。
「何、ガンつけてんだ?」
リーダー格の男が拓也の胸座を掴み、そのまま力任せに立たせて顔を引き寄せた。
その横暴な振る舞いに、拓也は怒りと不安が入り混じった変な感覚に襲われ鼓動が早くなるのを感じた。
「気に入らねぇんだよ。 その目。 自分が正しいって俺たちを見下す様な目がよ!」
じゃあ、そんな目で見られない様な努力をしろよ。 この社会の吹き溜まりが。
だが、それを口にはしなかった。 いや、出来なかったと言った方が正しいのだろう。
拓也は自分の胸座を掴んでいる相手をただ睨みつけることしか出来なかった。
その状態を保ったまま、辺りは静寂に包まれる。
何か発すれば何かが起こる。 そんな気がしてお互いに声を発さない。 ただ保健室特有の様々な薬品の香りが鼻をくすぐるだけだった。
対して暑くもないのに汗が頬を伝う。
「何をしている?」
扉の方から大人の声が飛び込んできた。
社会の底辺たちが一斉にそちらに振り返るとそこにはこの保健室を管理している先生が弁当の入ったコンビ袋を片手にこちらを睨みつけていた。
「ここで何をしている?」
威圧感のある声色でもう一度言った。
リーダー格の男は舌を鳴らして拓也の胸座から手を離し、奪い取った本を返した後、黙って仲間を連れて保健室から出て行った。
強張った肩の力が抜け、虚脱感に見舞われたのか、勢いよく椅子に腰掛け顔を俯かせる。
「大丈夫か?」
先生の言葉に「なんとか」と適当に虚勢を張った。
そんな拓也の様子に「そうか」と先生は自分の席に座り、コンビニ袋から弁当を取り出し、それを机の上に置いた。
引き出しの中から買い置きしていたのだろう大量の割り箸の中から一善を手に取り、割って弁当の蓋を開けて昼食を摂り始めた。
その場で呆然としていると、微かに先生の咀嚼している音が耳に入る。 それをBGMに小説を手に取って読書を再開しようとしたのだが、ふと先程の事を思い出した。
あいつ等はいったい何に対して納得いっていいないのだろう? 何故、人の嫌がる事を平気でやるのだろうか? どこで道を踏み違えたんだ? そもそもあいつ等は自分と同じ人間なのだろうか?
考え出すと止まらなくなり、次第にふつふつと沸騰しているお湯の様に憤りが沸き上がる。
「何故、あんな奴らがいるのでしょうね?」
先生は特に反応することなく食事を続けた。
「ああいう場の空気を乱す奴ら嫌いなんですよね」
消えてしまえばいいんですよ、あんな奴らと口にすると、ピタッと先生の箸の手が止まった。
ゆっくりと箸を弁当の上に置いて先生は顎に手を添え何かを思い出すかの様に考え始めた。
そして、机の引き出しの中から一冊の本を取り出し「これを読め」と言って拓也に差し出した。
それを受け取った拓也は表紙を見た。
「大人になるということ」というタイトルだった。
その安直な題名に拓也は鼻で笑いながら背表紙にあるあらすじに目を通した。
ある日、不思議なカウンセラーから人を消す力を授かった少年の日常の話らしい。
拓也はあらすじにあった「人を消す力」という一文に目が入った。
「お前の気持ちは解らんでもない。 だが、世界にはああいった奴らも必要なんだ」
それってどう言う事ですか? と先生に問うが、「その本を読めば解る」と何か含んだ笑みで返された。
本当にこんなどこにでも出展されてそうな本一冊を読んで解るのだろうかと疑問を感じつつも拓也は小説の目次を開いた時、「すまないが」と先生は財布から三二〇円を取り出し渡してきた。
「お前の分まで買ってきて良いからペットボトルのお茶を買ってきてくれないか?」
拓也はただ苦い笑いを浮かべるのであった。
×××
翌日、深い眠りから覚めた拓也は気怠そうに重い身体に鞭を打つ様にベッドから降りた。
デジタル時計に表示されている曜日を見た。
今日は土曜日。 学校は休みで自分と同じ年頃の子なら友達と一緒に街に出かけてショッピングやゲームセンターなどで大いに満喫していることだろう。
しかし、外に出る事よりも読書をすることが大事な拓也は勉強机にかけてある通学鞄の中から昨日先生から渡された小説を取り出しベッドに寝転がりながら開いた。
目次を開いて気づいたことは「大人になるということ」はどうやら二五ページの短編小説らしい。 他は表紙とは全く関係のない話が記載されている。
色々思うことはあったが、取り敢えず拓也はページを開いて読書することにした。
一ノ瀬佳は冷めていた。
この下らない世界の現状に。 これ以上、生きている価値はあるのだろうかと。
キッチンの隙間から出てきたゴキブリの様に場の空気を乱す社会の吹き溜まりたちが多いこの世の中で、日々生きている事が億劫になっていた。
嗚呼、見ていて胸糞悪い人間なんて消えてしまえばいいのに。
その事を自分が通い詰めている精神科のカウンセラーに話すと微笑み「君に一つ面白い力を与えよう」と言ってきた。
「念じる事で人を世界から消すことが出来る能力だ」
人を消すことができる能力だって? バカバカしい。 アニメや漫画の話でもあるまいし。 きっとこのカウンセラーは悩んでいる自分を悩ませてそれを楽しんでいるのだ。
憤りを感じた佳は「失礼します」と席から立ち上がると「まあ、待ち給えよ」と笑ってそれを止める。
「嫌な奴がいるのだろう? だったらそいつを思って念じるんだ。 『消えろ』って」
簡単なことだろ? と微笑した。
その態度が自分を小馬鹿にしている様にしか見えなかった佳は騙されたと思って気に食わないカウンセラーに『消えろ』念じて試してみた。
刹那、胸糞悪いカウンセラーはボールペンを残して消えた。 いや、何かの手品を使って姿を消しているのかもしれない。
佳は心理の部屋を出て、受付嬢に尋ねてみた。 すると、その様なカウンセラーは内では最初からいなかったと面白い答えが返ってきた。
診察の時間で係りの先生にも聞いてみるが、それでも同じ答えしか返ってこなかった。
どうやら本当に存在が、抹消されているらしい。
何て恐ろしい力を手にしてしまったのだという不安に駆られる反面、嬉々とした表情を浮かべる佳。
これで気に食わない人間を全て消す事が出来る。
リズミカルな足踏みをしている事すら気付かずに自宅へと戻る佳であった。
ここからこの小説の主人公、一ノ瀬佳の生活が一変する。
佳は手始めにいつも胸糞悪く感じていた社会の吹き溜まりたちを全て抹消した。
それにより、佳は凄く気が晴れたらしい。 それもそうだろう。 いつも不快な思いをさせる人間がいなくなれば害虫を駆除した安心感の様なものが自然と生まれる。
すっかり気分が良くなった佳はまるで入学式を待ち望んだ小学生の様に浮ついた心で学校へと向かった。
教室に入った瞬間、いつもと違う空気を感じた。
明るい雰囲気を想像していたのだが、教室から出ている空気は何とも重々しく、冷たいものを感じた。
これには読んでいる拓也も仰天させた。
何故この教室の空気はこんなにも陰気な感じに変わっているのか気になった拓也は次のページをめくって続きを読む。
佳の力によって、社会の底辺たちは全員消えた。 それは確かなことだった。 しかし、教室の隅で、女子生徒が何人か集まって談笑していた。
語尾の伸びた喋り方に意味不明な単語が飛び交うその様は、まるでどっかの社会の吹き溜まりたちを連想させた。
周りの生徒たちは鬱陶しそうに顔を俯かせている。
何より佳が驚いたのは、その騒がしく会話をしている女子生徒が普段は大人しく真面目に授業を受けていた娘たちだったということ。
そんな娘たちが何故こんな不良じみた風貌に様変わりしているのか皆目見当のつかなかった佳が思ったことは、ただ不愉快だということ。
だが今すぐにその娘たちの存在を抹消することはしなかった。 元は真面目な生徒だったのだ。 授業を受ける頃はきっと普段の真面目ぶりを発揮してくれることだろうと信じて佳は自分の席に座った。
しかし、自分の予想は大いに外れた。 授業中でもペラペラと口を動かす女子生徒たち。 先生が注意すると買い始めたばかりの犬の様に反抗し、四六時中、見ていて居た堪れない会話を続けていた。
その様子にまるで親友から裏切られたかの様な気持ちになった佳は、その女子生徒たちの存在を消した。
翌日、教室は明るい雰囲気を出ていた。
クラスメイトたちは楽しく自分の友達と会話をしている。 佳が平和というものを初めて感じた瞬間であった。
チャイムが鳴り、教師が入室した時、それは起こった。 あんなに賑やかだった教室が急に静かになり、緊迫した空気が流れ始めたのだ。
その理由は教師にあった。 その教師はクラスの担任である。 普段は仏の様に優しく、芸人にも負けない一発芸やトーl九などして場の雰囲気を盛り上げてくれるクラスの人気者であった。 しかし、今はどうだ。 鬼の様な形相を浮かべて、片手には竹刀を握っている。 教室にいるというのに口に火のついた煙草を加えていた。 その姿はまるで時代遅れの暴走族の様だ。
きっと何かのパフォーマンスなのだろう。 そうに違いない。 そうに決まっている。
そう考え、佳は黙って席に座った。
その後の担任のHRを受けたのだが、実に酷いものであった。
生徒にちょっかいをかけたり、煙草の煙を吹きかけたり、終いには握っている竹刀で床を叩いて威圧する。
先生の様子がおかしいとクラスメイトに問いかけるが「先生は自分たちの担任を務めている時からあんな感じだった」と意外な答えが返ってきたことで驚きを隠せない佳。
これは拓也も同じ心情であった。
気に入らない人間を消す度に、次の気に入らない人間が生まれる。
そんな日々が続いた結果、佳は学校を行かなくなり、部屋に籠り始めた。
この後どう展開していくのかと拓也は次へとページを捲る。
「佳、学校へ行かないの?」
扉の向こうから母の声が飛び込んできた。
佳は布団の中に丸まって「行かない!」と叫んだ。
「学校に行かないと将来大変よ?」
まるでそれが当たり前かの様に言ってきた母親のその言葉に強い苛立ちを覚え、お歯軋りを鳴らした。
本当に学校へ行かないと将来大変なことになってしまうのだろうか? 学校へ行かなくても自立している人間は星の数だけ存在する。 そもそも何故、学校へ通わなくてはいけないのだろうか? 勉強してきたものが社会に役立つことなんて余りないだろうに。 母さんは俺を苦しめたいのか? 俺の苦しむ姿を見て腹を抱えて笑いたいのだろう。 そうだろう。 そうに違いない。
湧き水の様に溢れ出る負の感情が止まらなくなり、全てが煩わしく思えてきた佳はついに願った。
皆消えてしまえ。
すると辺りは急に静まった。
それに気づいた佳は、ゆっくりとベッドの中から降りた。
リビング、両親の寝室、トイレ、洗面所、お風呂と家の中を探るが誰もいなかった。
靴を履いて家を出た。
住み慣れた町。 だが誰も外を歩いている者はいなかった。
車も走っていない。 電話を片手に歩くサラリーマンも、子どもを乗せたベビーカーを押している婦人も、楽しそうに友達と会話しながら登校している学生も、五月蠅い犬の鳴き声も、空飛ぶ鳥も、皆、皆消えていた。
佳は一人になった。
でも、これで良いのだ。 人間なんて本当は生まれてはいけない存在だったのだと開き直って町の中を歩き始めた。
誰もいないから、店の商品をは取り放題だと浮ついた心で足を踏み入れようとしたが、どこも扉が開かない。
小さく舌打ちをして町の散策を再開した。
どこにも誰もいなかった。
通い慣れた嫌いな学校も、よくお参りに行く神社も、人の多い駅のホームも、誰も、誰もいなかった。
誰とも会う事もなくそのまま帰宅した佳はどこか浮かない顔をしていたそこ。
くぅ、とお腹が鳴る。 お腹が空いた。
佳は冷蔵庫を開くとその中は暗かった。 その原因は冷蔵庫が稼働していないことだと気づくのに時間はかからなかった。
僅かな冷気を感じるその中から昨日の晩の残りを取り出しレンジにかける。
しかし、レンジも稼働しない。
困った佳はどうしようかと思考を巡らせるがすぐにそのまま食べる決断をした。
皿を包んだラップを取って、一口頬張るが何とも冷たくてそれでいて味気なく、とてもじゃないが全部食べられる気がしなかった。
佳は深い溜息を零し、箸を机の上に置き、残したおかずにラップをかけ、冷蔵庫に収めた。
何だか遣る瀬無い気分に襲われた佳は自分の部屋のベッドの中に潜った。
嗚呼、ベッドは良い。 何の文句も言わずに自分を包み込んでくれる。 将来、妻を持つのならこの包容力のあるベッドの様な女性が良いな、等と馬鹿な事を考えつつ瞼を閉じた。
目が覚めた時は、辺りは暗い闇に包まれていた。 真っ暗で何も見えない。 喉が渇いた佳は家具などにぶつからない様にと慎重に歩き、リビングへと移動する。
食器棚からグラスを一つ取り出し、蛇口を捻った。
だが、そこから水が出てくることはなかった。
少し焦る気持ちを抑えて佳は考えた。 どうすれば良い? ジュースを飲むか? いや、それだと逆に喉が乾いてしまう。 そうだ、お茶だ。 お茶を作って置いていた筈だ。
思い出した佳はすぐに冷蔵庫を開いた。 稼働していない為、中は真っ暗で冷気など感じない。 そんな事を気にせず佳は壁を沿って歩くかの様に右手で冷蔵庫の端から端を沿って遂に触った覚えのある感触が伝わったのでそれを掴んで取り出した。
中からたぷたぷと水の音が聞こえたので間違いないと感じ、蓋の口を開き、慎重にグラスに注いでそれを口に含んだ。
麦の香りが口いっぱいに広がる。 全て飲み終えると満足したのかふうっと息を吐いた。
グラスをキッチンに置いて、外に出た。
空を見上げると沢山の星と丸い満月が浮かんでいた。
今まで見た事がないくらい沢山の星が輝いていて、今までにないくらいに満月が輝いていた。
その余りにも現像的な美しさに心を奪われながらも、佳は夜の町を歩き始めた。
異常な満月の輝きのお蔭で夜町の道を歩くのに困らなかった。
辺りを見渡すがやはり誰もいない。
自分が消したのだから当然かと乾いた笑い声を上げて佳は夜の道を当てもなくただ歩いた。
歩きながら佳は自分がした行いについて考えた。
俺の行いは間違ってなかったよな? 人間なんて面倒臭いだけだ。 社会の底辺たちもいない。 しつこく自分を正そうとする親もいない。 何て素晴らしいのだ! なのに……、なのにどうして俺の心は満たされない? どうしてこんなに寂しく感じるんだ!? どうして……、どうして!?
気がつけば佳は地に伏せていた。
俺はこれからどうすれば良いのだ……?
「お困りの様だね?」
ふと後方から聞き覚えのある声が耳に入った。
首が捥げるのではと思う様な勢いでそちらに振り返るとそこには自分に能力を与えて最初に消されたカウンセラーが「やっ!」とこちらに手を振っていた。
これは面白い展開になってきたと拓也はそのページに栞を挟み、リビングへと移動し、水分補給をして再び部屋に戻って読書を再開した。
目の前で存在を消した筈のカウンセラーの再登場により驚きを隠せない佳は「何故、こここにいるんだ?」と声を震わせる。
その問いに口端を上げるカウンセラーに、佳は全ての謎が解けた探偵の様な表情を浮かべた。
「さては、これはドッキリだな? カメラマンや意地の悪いスタッフたちはどこに隠れている? 皆して俺を馬鹿にしていたのだろ? そうなんだろ! 全く手の込んだ質の悪い悪戯だ! ふざけやがって! もういい! 皆出て来い! 全員ブッ飛ばしてやる!」
彼の酷く荒れ狂う様に、カウンセラーはクスリとほくそ笑んだ。
何が可笑しいと怒気の帯びた声音で問うと、カウンセラーは首を横に振って小さな溜息を零し、彼の瞳を捉えた。
全てを見抜くようなその眼差しに佳は肩を竦めた。
「私は確かに君に消されたよ」
「嘘だ! じゃあ何でお前はここにいるんだ!? お前の与えた力で確かにお前を消した。 その筈なのに何故お前が今ここで、俺の目の前に存在していんだ!?」
おかしいだろと声を張り上げた。
しかし、カウンセラーは「その質問の答えは機密に関わることだから口には出来な」と不気味な程に落ち着いた口調で言った。
何とも言い難いその気色の悪い雰囲気に固唾を呑み込んだ。
「どうだった? 気に入らない存在を消した気分は? 最初はさぞ気持ち良かったことだろう」
その言葉に何も言い返さなかった。 言い返せなかった。
顔を俯かせ黙り込んでしまった佳に、カウンセラーは鼻で溜息を零し、夜空を見上げた。
「『二、六、二の法則』を知っているか?」
『二、六、二の法則』という聞き慣れないワードに拓也は意識が向いた。
「二、六、二の法則……?」
何の事だか解らない佳は静かに首を横に振った。
そんな彼を嘲笑する訳でもなくカウンセラーは解りやすい様に指を使って説明を始める。
「十人、人間がいるとしよう。 その中から二、六、二の種類に別れる。 二人は頑張り屋さん。 六人は普通の人。 そして最後の二人がふざけている人。 たとえばこの頑張り屋さんとふざけている人が何かの理由があって抜けたとしよう。 すると、今度はその残った六人から二人が頑張りやさん、二人が普通な人、二人がふざけている人に別れるらしい。 これは生物学上の研究で解った結果らしい。 人間だけじゃない、ペットとして買っている犬や猫も、醜いゴキブリも、働きアリも全て二、六、二に分けられる」
佳はガクリと膝を落とした。
身に覚えがあったのだ。 気に入らない人間の存在を消して、真面目だった人間が駄目な人に変わっていたことに。 それにより自分がどれだけ都合の良い人間だったのかという事を知り、拳を深く握り締め、大粒の涙を流した。
クズは自分だった。 存在しなくて良いのは自分だった。
佳は酷く後悔した。
彼の佇む姿にカウンセラーは愛しい者を見るかの様な表情を浮かべた。
「解ってくれたのだね? 自分の過ちを。 なら、もう大丈夫だ。 君は最後まで人生を真っ当することができる」
目が覚めると、自分はベッドの中にいた。
窓から射しかかる日射しが眩しい。
外から小鳥の囀りが耳に入ると佳はベッドから飛び起きて窓を開けた。
道路に車が走っている。 電話を片手に歩くサラリーマン。 子どもを乗せたベビーカーを押している婦人。 楽しそうに友達と会話しながら登校している学生。 五月蠅い犬の鳴き声。 空飛ぶ鳥。 全て元に戻っていた。
リビングに移動すると母が朝食を用意していた。
今まで夢を見ていたのだろうか? そう思いつつ、朝食を口に運びながら佳はカレンダーを見た。
今日はカウンセリングの日。 先生に聞いてみようとコーヒーを飲みほして家を出た。
病院に辿り着き、先生を待っていると別のカウンセラーがやってきた。
先生はどうしたのですかと問いかけるとその先生は最初から存在していないと返され度肝を抜かれた。
もしかすると、あの先生は自分を更生させる為に舞い降りた神様だったのかもしれない。 なんて鼻で笑ってしまうことを考えていた。
帰り道を歩いていると不意に先生から教えて貰った『二、六、二の法則』を思い出した。
人間という生き物は本当に不思議なものだ。 誰かがそれを正しいと言えば、誰かがそれを間違いだと言う。 まさに十人十色という言葉が相応しい程に。
もう、佳に迷いは無い。 二度と同じ過ちを繰り返さぬ様、今日という下らない一日を過ごすのであった。
そこで話は終わった。
頬に熱い何かが伝っていた。 自分が涙を流していることに時間はかからなかった。
拓也はふうっと深く息を吐き、本を閉じた。
頬に流れた涙を拭ってこの小説の内容を思い返した。
『二、六、二の法則』か。 この小説を貸してくれた先生も自分と同じ心境だったのだろうか。
今なら先生が言った「世界にはああいった奴らも必要なんだ」という言葉の意味が。
拓也はベッドから降りて、窓の外の世界を見た。
小説を読んだ影響か、少しだけ、そう少しだけ世界が美しく見えた。
世界に必要のない人間なんていない。
月曜日、昼休みになり、拓也は借りた小説を持って保健室へと向かった。
珍しく、先生はそこにいた。
「先生、小説ありがとうございました」
「お、そうか。 どうだ、何か解ったか?」
先生の問いに拓也は今までにない最高の顔で返事をした。
その様子に先生は「そうか」とだけ言って財布から三二〇円を取り出して拓也に渡した。
「お前の分まで買ってきて良いからペットボトルのお茶を買ってきてくれないか?」
拓也は膝から崩れ落ちた。