2.王子の道 2
王立施設で風呂を使い、挫いた足首の手当てをし、セスは休憩室で足を伸ばして座っていた。髪は半渇きでまだしっとりとしているが、体中の泥を洗い流し、暖かな部屋で楽な体勢を取っていると、眠くなる。だが、眠りたくはなかった。先ほどの恐怖が消えることなく残っている。無意識にセスは目でアーヴィングを探した。
遠巻きに守護隊の隊士たちがセスを見ている。なんだか妙に盛り上がっているようだが、ひそめられた声を聞き取ることはできない。
セスの足の手当ては同行の医師夫婦ではなく、王立施設に常駐する医師がしてくれた。軍部所属の医師薬師すべての顔を見知ってはいないが、ここにいたのは旧知
の男だった。
医師夫婦にはけがはなかった。手当てが済んだ後、医師夫婦は謝罪を繰り返した。もうやめてください、大丈夫ですから。何度かそう言っているうちに、食事の用意ができた、と案内があった。医師夫婦は導かれるまま食事に立っていったが、セスには食欲はない。そのままぼんやりとしていた。
「おまえたち、食事だ。いつまでここで、何をしてるんだ」
いきなり声がして、セスははっとした。遠巻きにしていた隊士たちが口々に何か言いながら、去っていく。一人残った男が、振り向いた。彼も風呂上りなのか、清潔な衣類を身にまとい、まだ濡れた髪を布で拭いている。
「アーヴィング様」
見知ったなじみの顔にセスの表情がほころんだ。アーヴィングも微笑み返す。
髪を拭きながら、近寄ってきて、セスのそばに立った。
「疲れたか? 食事の用意ができているが」
「あまり食べたいという気持ちになりません」
「わからないでもないが、何か腹に入れておいた方がいいぞ。スープだけでもいい」
「・・・そうですね・・・」
「無理強いはしないが・・・。では俺の相伴をしてくれ。食べても食べなくてもいい。それでどうだ」
冷え切った体は温まり体の強張りはほぐれているが、今はまだ一人にはなりたくない。甘えている、と思いつつもセスは頷いた。
立ち上がろうとしたら手で制され、抱き上げられた。アーヴィングの思いがけない行動にうろたえ、思わず手足を振り回したら、挫いた足が痛かった。それに手も。アーヴィングのあごを痛打したらしい。
アーヴィングは声もなく呻き、セスは焦った。謝罪の言葉を口にしながら、思わず自分が殴ったアーヴィングのあごを手でさする。そしてまたあわてて手を引いた。
「断りもなく触れて悪かった。だが、だからといって、いきなり殴るのは勘弁してくれ」
「そうじゃないです!」
アーヴィングは笑っていた。アーヴィングの清潔な匂いに包まれ、セスも笑った。
食堂では隊士たちが談笑しながら食事を取っていたが、アーヴィングとセスが入っていくと、いきなり野太い歓声が上がった。驚いてアーヴィングにしがみつくと、さらに歓声が上がる。
「ご婦人を驚かせるな」
言いながらセスを椅子に座らせ、アーヴィングは配膳口に向かい、自分には用意された夕食を、セスにはパンとスープを、それぞれ盆に載せて持ってきた。そしてセスの向かいの席に腰を下ろす。
「食べられたら食べるといい。他に欲しいものがあったら言いなさい」
短い食前の祈りをともに祈り、アーヴィングはおもむろに食べ始め、セスはさほど気乗りしない様子でスープを口に運んだ。
アーヴィングは食べながらセスの様子をうかがっている。セスはそんなアーヴィングの目を気にしながらゆっくりスープを口にする。
とりあえず何口かスープを食べるのを見て、多少なりともアーヴィングは安心したようだった。
「それで女王陛下はいかがお過ごしか?」
「アーヴィング様がいらっしゃらないので、退屈そうです」
「つついて遊ぶ相手がいないからな。また妙な暴走をして誰かに迷惑をかけていないか? たとえば父上とか・・・」
「レーヴェ様は慣れていらっしゃいますから、巧みにかわしておいでです」
「ほう。では、誰が?」
「・・・私です」
「お前? お前に何をして?」
「最初は体術を教えてくださいましたが、ご満足いただけず、次は剣術になりました。こちらの方もご不満のようで、つぎは棒術、弓、馬にも乗りましたが、見込みのない弟子にすぐに飽きてしまわれまして、最近は楽器やら歌やら踊りやら教えていただいております」
アーヴィングは目を丸くして妙な顔をしていたが、ついに横を向いて、笑い出した。
「陛下はお前をご自分のような女丈夫にするおつもりか? また妙なことを思いつかれたものだ。それで挙句にお姫様教育か? 何というか、本当に退屈しておいでなんだな」
「畏れ多い事ですが、迷惑しております。アーヴィング様のありがたさをしみじみ感じました」
「そうだ、ようやく気づいたか。今度からもっと大事に扱え」
セスはもう食事をする気はなさそうだった。アーヴィングはまだ食べている。そこにアレンがやってきた。
「ご婦人、お食事中に失礼してよろしいですか?」
聞き覚えのある声に顔を上げて、微笑んだ。
「そのお声は、私を助けてくださった方ですね」
「セス、副隊長のアレンだ。アレン、こちらはセス。現在女王宮で陛下のおもちゃになっている」
は?という顔でアレンはセスの顔を見たが、すぐにまた愛想のいい笑顔になった。
「陛下のお近くにお仕えでいらっしゃいますか。どうりで実にご立派でいらっしゃる。隊長、報告が遅れましたが、セスさんは、ご自身が怪我をしていらっしゃるのに、他の方の救出を優先するようおっしゃったのですよ。これは実に英雄的な行為ではありませんか?」
「ほう?」
アレンが何を企んでいるのかわからず、アーヴィングは怪訝な表情でアレンを見る。
「われわれ守護隊ではそのような行為をした者には褒賞が出ることがありますよね? 女性でありながら実に見事な心栄え、ぜひ、セスさんにも隊長から何かご褒美をお出しいただけると、セスさんもお喜びかと・・・」
え? とセスは戸惑った。アーヴィングも「セスは俺の部下じゃないぞ・・・」とこぼす。
しかしなぜか周りの隊士から「そうだそうだ」と声が飛ぶ。
こいつら、みんなで何を企んでやがる。
アーヴィングは主菜の肉を切り分ける手を止め、ちょっと考え、ふむ、と思いついた。
「よし、ではセスの天晴れな行為に、俺から褒美をやろう。ほら」
ひょいと持ち上げた左手には、今切り分けた肉がささったフォークがあった。
「え?」
「ほら、食べなさい」
と自分が使っていたフォークで肉をセスに差し出す。
「え?」
「俺からのご褒美だ。めったにないことだから、ありがたく食べるように」
「え?」
周りからどっと笑い声がわきあがる。え?え?え?と周りを見回すが、みなこちらを見ている。アーヴィングはとてもまじめに見える、実はまじめじゃない顔で見つめている。
周囲の雰囲気におされ、セスはアーヴィングのフォークにぱくりと食いついた。
焼かれた肉は少し濃い目に調味され、疲れた体に塩分を補ってくれる。よく噛んでごくりと飲み込み、食物が胃の腑に落ちていくのを感じる。とたんにセスの腹が、きゅう、となった。
「きゃあ!」
恥ずかしさにセスが叫ぶと、また周囲からいっせいに笑い声が上がった。
「ふふん。やはり体は正直だ。アレン、セスに半量でいいから主菜を持ってきてやってくれ」
はい、とアレンは頭を下げた。彼や周りの隊士たちの思惑とはずれたが、これはこれで面白いものが見れた。
セスは真っ赤になったまま、アレンから皿を受け取り、もそもそと食べ始めた。アーヴィングはにやにやと笑いながらセスを見ている。
「ちゃんと食べて大きくなれ。大体、体が軽すぎる。歳の割には成長が遅いんじゃないか?」
「そんなことはありません」
「そうか? 女性ならこう、もう少し肉付きがよくてもいいと思うが」
「そんなことを考えてらっしゃったんですか? ひどいです」
「背もちんちくりんのままだし。俺の胸辺りより小さかったじゃないか」
「何年前のお話ですか。アーヴィング様が人並みはずれて大きくていらっしゃるだけです。私だってちゃんと成長してます」
王城騎士は家名を名乗らない。王城騎士の忠心、功績あるいは咎をその生家と切り離すためだ。だが他の王城騎士ならともかくアーヴィングはあまりにも目を引く。マリアヒルフを名乗らなくともレーヴェの姿を見たことのある者ならばよく似た面差しにおのずと知れるし、そもそも通称とはいえアーヴィングの名を冠した法令があるのだ。「アーヴィング法」が当時弱冠十七歳の王城騎士マリアヒルフ護国卿継嗣アーヴィングの手によるというのは有名な話だ。
アーヴィング自身が語らずとも周囲はアーヴィングが何者かを知っている。本来ならば近寄ることもかなわない、国の指導者たるべき道を歩む高貴なる人。
とはいえ半年そば近くで見ていればこの妙に人好きのする若者が、王家に連なる者だということを今では時々忘れそうになる。もしかしてセスもそうなのかと思ってしまうほど、二人はアレンや隊士の目の前で好きに言い合っている。いやこれは・・・。
さっきは挫折したたくらみを再度試みてみる価値はありそうだ。アレンは二人の話に口を突っ込んだ。
「隊長。男もみながみな隊長のように体格に恵まれているわけではありません。私のように少々背の低い者にしましたら、セスさんなど可愛らしく、とても好ましいですが」
一瞬アーヴィングの眉がぴくっと動いた。
「失礼ですが、セスさんの身の丈はいかほど・・・?」
普通なら失礼極まりない質問を、愛想のよい笑顔とともにされ、つい正直に答える。
「いやいや、多少小柄ではいらっしゃいますが、隊長が言うほどにお小さくはありませんよ。女性としては充分です。・・・ただ、そうですね、隊長とくちづけを交わされるのでしたら、ちょっとご苦労なさるかも知れませんが」
セスがナイフとフォークを取り落とし、アーヴィングは飲みかけの水でむせた。
アレンは空とぼけた顔で二人を見ている。周囲からは先よりも大きな歓声があがる。
こいつら、そういうつもりか。
アーヴィングはふむ、とあごに手をやり、思案げな顔で首をひねり始めた。
「何を悩んでるんですか、アーヴィング様!」
「いや、確かにアレンの言うとおりだ。そういう場合はどうしたものかな」
「あり得ない事で悩まないでください!」
「いやいや、あらゆる事態を想定してだな、事前に備えるというのは大切なことだぞ」
「備えなくていいです! どうしてそうなるんですか!?」
真っ赤になって訴えるセスに、周り中が大笑いしている。ついにはアーヴィングまでが笑いだした。涙が出そうなほど。
「もういい加減にしてくれ。あまりセスをからかうな。俺が後で女王陛下に怒られる」
そういいながら、アーヴィングもまだ笑いが止まらない。
「皆さん、ひどいですぅ・・・」
両手で顔を覆い、情けない声でセスが言う。
「悪かった。こいつらはあとでとっちめておくから、許せ。そろそろ部屋へ送ろうか?」
「自分で行きます。アーヴィング様はやっぱりいじめっ子のままです」
「それについては諦めろ。さあ、こちらへ」
アーヴィングはセスを抱き上げた。
「皆様、お休みなさいませ。今日はお助けくださってありがとうございました。でも、もうお礼は充分させていただいたかと思います」
またどっと笑いが起こる。アレンがかぶせるように言った。
「隊長。その体勢なら身長差は関係ないですね」
「アレン様!」
「わかったわかった。それくらいにしてやってくれ」
アーヴィングとセスが食堂を出ると、背後で大騒ぎが巻き起こった。内容は・・・知りたくもない。
ゆっくりと歩きながら、低い声でアーヴィングとセスは言葉を交わす。
「少々悪ふざけが過ぎるが、いい奴等だから、許してやってくれ」
「そうですね。とてもいい方たち。楽しかったです。意地悪なのはアーヴィング様だけでしたね」
「そうか? ところで、空き部屋の準備が間に合わなくて、俺の部屋を空けるから、お前、そこを使ってくれないか? 俺は執務室で休むから、気にしなくていい」
「よろしいのですか?」
「男の私室だから気に入らないかもしれないが、そう何日も使っていないから、まあ、我慢してくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
「・・・セス」
階段を上りかけて、アーヴィングは足を止めた。
「あの夜はいまだお前を苦しめるのか?」
セスは答えない。
「お前は笑うようになった。俺はわかっていなかったか・・・」
「・・・もう、昔のことです」
アーヴィングはセスの顔を見下ろした。こんな近い距離で、セスの顔をじっと見たのは、これが初めてかもしれない。伏目がちのまつげが濃く、長い。今まで気づかなかった。
「あの夜がなければと思ったことは何度もあります。でもあの夜は確かにありました。苦しくないといえば嘘になります。今日はあの夜とあまりにも似すぎています」
「嵐のたびに、お前は一人で怯えていたのか。俺は気づいてやれなかったな」
苦々しい声に、はっとセスは顔を上げた。
「いいえ! もう嵐は怖くありません。雷だって闇だって、血の臭いすら怖くない。もう忘れたつもりでしたもの。王城で皆様にやさしくされて、もう怖いことはないのだと思っていましたもの。だけど・・・」
アーヴィングを見つめるセスの目に涙が浮かんだ。ふいにアーヴィングの中に激しい衝動が生まれた。この涙を吸い取ってやりたい。
「正気に返って、アーヴィング様がいらっしゃることに気づいたとき、夢かと思いました。うれしかった。頭をなぜていただいて、ほっとしました。本当です」
「・・・そうか」
アーヴィングは階段を上り始めた。
「食堂で、皆さんの笑い声を聞いていると、楽しくなりました。アーヴィング様もあんなふうにお笑いになって。その中に私も入れていただいて・・・楽しかったです。お食事もおいしかった。怖い気持ちが消えていくような気がしました」
「そうか」
セスは体の力を抜き、アーヴィングの肩に頭をもたせかけた。甘えているような感じだった。アーヴィングは階段を上っていく。ふいに腕の中のセスの体が重くなった。見ると、セスは安らかな顔で眠っていた。




