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空木  作者: 越智和紀
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2.王子の道 1

 アーヴィングの半年の任期が切れるまであと数日。引き継ぎはすでに滞りなく済ませ、この半年間に関わった関係諸所に退任の挨拶をして回っている。

 将来の国家の指導者たるべき期待の精鋭もいまはまだその力量を見極められている最中の経験の浅い若造でしかない。駐屯地司令部に席はあるが、そこを温める暇など与えらず、この半年それこそ管轄地域を縦横無尽に駆け回らされた。

 王城騎士というきらきらしい肩書きに憧れる者たちからすれば信じられないような地味で泥臭い、華やかさとはかけ離れた仕事ばかりだったが、そういった仕事を厭うような甘い鍛え方をされてはいない。

 鳴り物入りの王城騎士だと喧伝せずとも並外れた長身と硬質に整った容貌を持った明らかに上に立つ者とわかる存在感を纏った新任の若い隊長は、赴任の挨拶に回ったときから人々に畏怖され仰ぎ見られていたが、今ではそこに尊敬と信頼が加わっている。そうなる過程を最も間近で見てきたのが彼に与えられた部下たちだ。彼らこそがこの半年アーヴィングが考え指示し行動してきたすべてを見てきている。

 部下とはいえ若い王城騎士を監視し守護し評価を下す存在だが、彼らが自分をどのように評価しようともそれが彼らの下した評価ならば諾々と受け入れることができる、と思うほどには信頼している。そしてこの半年を振り返るに、彼らがアーヴィングに対して不可の判断を下すことはない、との自信もある。

 この隊もこの地での任期が切れ、アーヴィングと共に王都へ帰還することになっている。すでに王都への帰途にあるといってもよく、ここ数日の彼らの拠点はこの地方では最も王都に近い王立施設となっていた。




 この森を抜けると遠く施設の影が見えるという頃になって、いきなり空が暗くなった。低い轟きも聞こえる。雷雨が近い。朝からの曇り空だったが、空気は乾いており、雨の気配はなかった。しかし、先ほどから風が強くなり始め、いまや木の枝が大きく揺れている。副隊長は全員に雨具の着用を指示し、それぞれのランタンに灯を入れるよう指示した。その上で一気に森を駆け抜けようと決めた。

 しかし。

 風に流されて声が聞こえる。必死に叫んでいるような声。いち早く聞きつけたアーヴィングはひとりの隊士に調査するように指示を出す。そしてその隊士はすぐに戻ってきた。

 薬草狩りに来ていた一行のうち二人が道から足を踏み外して傾斜の下に滑り落ちたという。呼びかけると返事はあるが、足をくじいたらしく、動けない。ひどく急な傾斜で、道具もなく、助けに降りるわけも行かず、日も暮れかけてきて天候も危うい。助けて欲しいとのことだった。

 そうこうしているうちに大粒の雨が落ちてき始めた。これは豪雨になりそうだ。

 いかに万全を期すとしても怪我人の救出に隊全員は必要ない。昨日は思わぬ仕儀により野営を余儀なくされた。ならば、とアーヴィングは隊を半分に分け、そのまま施設に戻る者と遭難者の救出にあたる者にわけた。

 施設に戻る者たちの指揮は副隊長補佐に任せる。


「俺たちはずぶぬれで戻るからな。風呂を沸かして、うまい食事を用意しておくように。なお二時間が過ぎても俺たちが戻らないようだったら、援護に来てくれ」


 片目をつぶってアーヴィングは指示をだした。副隊長補佐はにやりと笑って、諾と答えた。


「早くお戻りいただかないと、食事も酒もなくなってしまいますよ。食って飲んだら、迷子を迎えに行く気がなくなりますからね」


 ふん、と笑ってアーヴィングは帰還組を見送った。

 そして遭難者の連れの方にむかう。


「隊長!」


 副隊長が手を振る。薬草狩りの一行は王都からやってきたのだという。近くの町に宿を取り、一泊して帰る予定だったというが、聞いてみれば一行とて男一人と女二人の三人のみで、道案内も護衛もつけていなかったという。

 無謀な・・・と思った。国の内外には表立って争いごとはなく、治安も比較的安定しているが、こんな人も通らぬような森の中で、そんな無防備では何があってもおかしくない。賊に遭わないまでも、もっと冬が近くなっていれば野生の動物も現れる。また、こんな事故も起こらないとは限らないのだ。

 遭難者は女二人。一人が足を滑らせ、助けようとしたのか、引っ張られたのか、もう一人もともに落ちていったという。

 雨は激しさを増し、強い風とあいまって、たたき付けるような勢いだ。音もすさまじく、近くの者との会話も怒鳴りあうようになってしまう。

 遭難者に声を掛けてもおそらくは聞こえまい。ランタンを振ってみたが、果たしてこの風雨の中で見えているかどうか。遭難者の位置を確認しなければ、下りていくこともできない。

 と、空に一閃、白い光が走った。続いて轟音。崖下で何かが揺れるのを見た。

 大きな白っぽい布を振っているようだ。おそらく、あれが遭難者だ。


「ロープを!」


 指示が飛び、近くの木の太い幹にロープが結び付けられる。一瞬見ただけだが、斜面には水が流れ、ぬかるんでいるようだ。足場も危うい。さっと見回して、アーヴィングは副隊長を呼んだ。


「アレン! 行けるか?」

「おう!」


 副隊長のアレンがおそらく今いる隊員の中で一番身が軽い。この危うい崖を下って、遭難者を連れて再び上がってくるのには、一番の適任と思われた。

 体にロープを巻きつけると、アレンは崖下、遭難者のもとへ下りていった。




 ぬかるみは見た以上にひどく、ぐずぐずと足をとられ、何度もすべる。それでもようやく遭難者のもとにたどり着いた。


「ご婦人方、大丈夫ですか? 女王国守護隊です。救助に来ました!」


 二人の女が抱き合っていた。一人は泣き崩れ、もう一人は泣いている女をしっかりと抱きしめている。


「クレアさん、守護隊の方が助けに来てくださいましたよ。もう大丈夫ですよ」


 一人が泣いている女に力づけるように言うと、アレンの顔を見てしっかりとした口調で続けた。


「この方を先に助けてあげてください。お怪我はないようですが、興奮していらっしゃいます。どうかお願いします」


 暗く、また豪雨の中、顔はよく見えないが、まだ若い女性のようだ。


「わかりました。すぐにまた来ますが、しばらくお一人になりますよ。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。お待ちしています。どうかクレアさんを」


 落ち着かせるように、クレアと呼ばれた女の背中を叩き、アレンに渡す。アレンは安心させるように頷くと、クレアをおぶって、腰に巻いたロープを手繰りながら、一歩一歩上っていった。

 最後に仲間に腕を取られ、引き上げられて、アレンはクレアを下ろした。連れの男がクレアを抱き寄せ、ともに泣いている。それを確認すると、アレンは再び下へ下りていった。




「ご婦人、大丈夫ですか?」


 クレアは泣くばかりで、返事などできないようだ。だが、連れの男に慰められ、少しずつおさまってきたのか、何か話している。風雨で声も切れ切れにしか聞こえないが、アーヴィングの耳はなじんだ名をとらえた。


 セス、と。


 胃の辺りをわしづかみにされたような痛みが走る。


「もう一人の方は、セスとおっしゃるのですか?」


 王城で働いている若い女性だ、と男が答えた。怪我をしている、とクレアが答えた。アーヴィングの知る限り、王城にセスという名の女は一人しかいない。

 勝手に体が動いた。ロープを握り、自分が崖下に下りようとする。


「隊長!」


 隊士に止められ、我に返った。今しがたアレンが再び下りていったところだ。自分では重量があるからアレンに頼んだのだ。ここでアレンがセスを助けあげてくるのを待つしかない。せめて声だけでも届かないか。


「セス!」


 アーヴィングは叫んだ。




 しかし、その声は届かない。セスはじっと助けを待っていた。

 滑り落ちたショックと、雷雨と強風に恐慌をきたし泣きわめくクレアを幼子をあやすようにようよう落ち着かせ、長い時間をすごしたように感じるけれど、実際にはそれほどたってはいないのはわかっている。今助けに来てくれた守護隊の隊士にクレアを託し、助け上げられるのを見送ってほっと一安心したとたん、たまらない既視感に襲われた。


 前にもあった、こんなこと。


 ずぶぬれになりながら、セスは冷たい汗を流した。あの時からすべてが変わった。あの時あのまま打ち捨てられていたならば、助けが来なければ、そうすれば私は・・・。

 この場を去れば助けは来ない。そう思った瞬間セスは立ち上がろうとした。だが挫いた足首が痛み、立ち上がることはおろか、いざることすらできない。

 助けて欲しい。だが助けてなど欲しくない。どれほどの苦しみを舐めることになるのか、今なら知っているから。

 すぐにまた来ます、と言われ、お待ちしています、と答えた。必ずかの隊士は助けに来てくれるだろう。ああ、けれど。

 アレンが再び下りてくるまでの間、セスは震えながら、いつまでも終わらない時間の中にいるように感じた。


 しかし、アレンは下りてきた。


「お待たせしました。大丈夫ですか? さあ、おぶさってください」

「・・・いや」


 そういったセスの声はアレンには聞こえなかったようだ。セスは諦めたように首を振った。


「両足首を挫いたようです。骨は折れていないと思いますが痛みで動けません。他に自覚できる怪我はないようですから、荷物のように担いで下さってかまいません。お願いします」


 しっかりした口調で答える。と、ふいに涙があふれ、嗚咽が漏れた。

 とても冷静な女性だ、とアレンは思った。恐怖から泣き叫び、無駄に体力を使い、女性ならばそれも無理からぬと思われるこの状況で、自分の怪我の状態を把握して、その上で無傷ではあるが精神的に危機にある女性を優先させた。今嗚咽を漏らしたのは、張り詰めていた緊張の糸が切れたからか。


「大丈夫ですよ。あのランタンが見えますか? あそこまで登ればもう安心です。では、失礼します。しっかりつかまってください」


 アレンはセスを肩に担ぎ上げた。ずいぶんと小柄で軽いと思った。

 腰に巻かれたロープをぐっと引き、崖上で待つ仲間に引き上げるよう伝える。すぐにロープを引かれる感触が返ってきた。片手で遭難者を保持しつつ、もう片手でロープを握る。一歩一歩足場を確認しながら登っていく。

 ようやく仲間の姿を確認できるようになった。


「もうすぐです。大丈夫ですね」


 できるだけやさしく声を掛けたが、返事はない。だが、しゃくりあげるような動きを体に感じる。まだ若い女性なのだ、と改めて思った。

 最後に仲間の引くロープにしっかりとつかまって、ぐいっと体を持ち上げる。ようやく、崖を登りきった。




「セス!」


 じりじりと待つしかできなかったアーヴィングはアレンの肩に担がれたセスを奪うように抱き下ろした。


「セス、大丈夫か?」


 その時雷鳴がとどろいた。アーヴィングの問いかけに顔を上げたセスが雷鳴に浮かび上がったアーヴィングのシルエットを認め、そのとたんはじかれたように抱きついてきた。


「レーヴェ!」


 アーヴィングはわが耳を疑った。いくら人よりいいアーヴィングの耳であってもこの雷雨と強風の中でははっきりと人の声は聞き取れない。しかし耳元で叫ばれれば、聞き間違うはずがない。今セスは何と言った?

 セスがアーヴィングに抱きついたことはない。近しくはあるが常に節度ある距離を保ち、その距離を頭をなぜるなどして縮めているのはアーヴィングの方だ。だが今、父の名を呼び、首に腕を回しきつくしがみつくように抱きついている。抱き返してやるべきなのかもしれないが、驚きのあまりアーヴィングは身動きもできなくなってしまっていた。


「レーヴェ。おじ様。やっぱり来てくれた・・・」


 子供が甘えるような声で、もう一度、レーヴェ、と呼んだ。父を敬称も尊称もなく名前だけで呼べる女は、いまやユージェニー女王だけのはずだ。アーヴィングは混乱した。セスの名を呼ぼうと口を開きかけたとき、さらにセスが言った。


「おじ様。お父様とお母様を助けて・・・」


 雷雨の夜。父に抱きついたセス。何年も前の記憶がよみがえった。今セスはここにはいない。あの時に戻っているのかもしれない。そうだ、何とあの時に似た状況であることか。夜の闇の中、叩きつける雨と闇を切り裂く稲光に怯え、セスはたった一人でじっと待っていた。胸にこみ上げる思いにアーヴィングはセスを抱き締めた。


「セス・・・」


 耳元で呼ばれた自分の名に、はっとセスは我に返った。しがみついていた腕をほどき身を離そうとしたが、背中に回された腕はたくましく力強く、セスをしっかりと捕らえている。セスは恐慌をきたした。


「いや!」


 自由になる腕を振り回し自分を捕らえている男を打とうとしてようやく男の腕はセスを解放し、しかしそのかわり両手首をつかまれた。


「セス。俺がわかるか?」


 しばらく耳にしていなかった懐かしい声に目を凝らすと、そこには懐かしい顔があった。ずぶぬれで髪は顔に張り付き、雷鳴がその顔に深い陰影を作り見知らぬ人のようだが、よく知っている深い菫青色サフィール・ドーの瞳が気遣わしげに見つめている。

 呆然とし、全身から力が抜け、ぺたりと座り込む。自分を見つめる男の名を呼ぶより他は何も言えず、セスは涙を流した。泥だらけでずぶぬれのセスにさらに風雨がたたきつける。

 名を呼ばれ、ようやく安堵したのか、アーヴィングはやさしくセスの肩に腕を回した。気になることは幾つもある。だが今はただ、よくがんばった、と頭をなぜてやった。


 風雨は収まらない。アーヴィングたちは遭難者ら三人を伴い、王立施設に戻った。

 アーヴィングはセスを離そうとしなかった。自身の前に騎乗させ、マントの中にくるみこんだ。

 挨拶回りとはいいながらもそれだけで済むことはなく、そして昨夜は野宿だ。汗も汚れも雨が洗い流してくれるわけもない。


「すまない。数日満足に風呂に入っていないし、着替えもしていないから、におうだろう? 我慢してくれ」


 アーヴィングのマントの中でその胸にもたれながら聞く声にセスは安堵した。


「私も泥だらけです」


 ささやいて、目を閉じた。




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