一章『奇跡の風』 ヒトガタ①
一個人の部屋にして、そこは有り余るほどの面積があった。獅子の描かれたタペストリーが壁を彩り、テーブルに置かれた水差しは丁寧に彫られた刻印が浮かんでいる。ステンドグラスから差し込む太陽光は七色に煌めき、部屋内を十分に照らしつくす。
ここはサシュア王宮、王族の階の一室である。
そこには一組の男女がいた。
男の方は、その若々しい外見から察するに十代後半と言う所だろうか。引き締まった体躯に、整った眉と切れ長い眼、真一文字に結んだ唇は仄かに赤い。黒と、特徴的な白色の折り混ざった髪は、肩を境に切りそろえられている。
彼の名は『エデュミス=サシュア』。厳しい眼光を備えてはいるが、まだまだあどけなさの残る顔つきをした、王国『サシュア』の嫡子である。
彼は厳めしい表情を崩す事なく高い天井を見上げ、広くとられた間取りの部屋内を忙しく歩き回っていた。傍から見ても彼が何かを思い悩んでいるのは明白で、同時に当面の事など眼中にないと言うのが良く分かる顔つきだった。
そんなエデュミスを余所に、まだほんのりと湯気の立っている紅茶を啜り、窓際のテーブルセットに腰かける少女がいる。枝のように細い脚の椅子に座る彼女は、落ち着きのないエデュミスと違い余裕のある澄ました顔をしている。
黒いローブととんがり帽子が、いかにも魔法使いを連想させる姿。色白で青の瞳に濁りはなく、中性的な顔つきをしている。そして何より、ロバの様にしなやかな耳先が特徴的だった。
彼女は、失われた古代の英知を知るエルフ族であり、サシュア王宮王族の階へ踏みいる事を許された臣下の一人だ。
エルフの少女は、城下で生活を勤しむ民を静かに見下ろしていた。窓から見渡せる景色は絶景であり、まだ山頂に白の混じる山々が陽の光で煌めいている。
「アレゼル。戴冠式は、本当に三日後にやるのか?」
エデュミスは、無作為に歩きまわるのを止めるとは窓際にいるエルフの少女に語りかけた。遠くで聞こえる民の生活の音以外に、この部屋を満たすものはない。エデュミスの声は二人ではとても手に余るこの部屋に良く響いた。
エルフの少女『アレゼル』は、ティーカップから唇を放すと、少しの間をおき問いに対して小さな口を開ける。
「城下町を見てみなさい」
幼い容姿とは裏腹に、不遜な態度で彼女は言った。その返答に、エデュミスは僅かに顎を落として項垂れる。
本当にやるのか……と。複雑な感情を心中でぽつりと呟いた。
紋章が描かれた丸テーブルを隔て、アレゼルの向かい側にある椅子へ乱暴に腰掛けてから、黙って窓の外を見る。
王城の周辺は、変わり映えもなく豊かな自然に溢れていた。活気にあふれた城下町もそうだが、そこには彼にとって当たり前の世界が広がっていた。何もかもが変わらない日常が、ただあるのみだ。エデュミスは、目線をアレゼルに戻すと肩を竦めて一息した。
サシュア王宮の最上階より一段下である『王族の間』。エデュミスとアレゼルがいる三階の一室から見渡せる光景は、山の頂上を錯覚させるほどに圧巻だ。
下方には、多くの民が暮らす城下町『ケルナ・クルフ』があり、その四方を囲むように『竜宮の丘』と呼ばれる山岳地帯が連なっている。ケルナ・クルフと竜宮の丘の間を保つように、巨大な森林地帯『シグルエ』が見える。それら全てを一様に見渡すことができるのは、このサシュア王宮以外他ならない。
しかしその絶景とやらも、何十年と繰り返し見続けていれば感慨も浅くなるのは仕方のないことだ。
エデュミスは唇を尖らせ、頬杖をついた。城下はいつもどおり、変わり映えのない下々の世界が広がっている。別段、何がどう変わっただの、細かい変化を感じるほど城下を見つめたことはないのだから、そうだろう、と彼には思えた。
「俺には見ただけじゃとてもじゃないが判断できないな。何がどう変わったんだ? 見ただけで、祭り事をやる雰囲気なんてつかめるものかよ」
投げやりなその言葉には、向かい側に座る小さなエルフもカップを置いて端整な眉を曲げた。
「日常にないものが見えないの? 煌びやかな飾りつけ、組まれた櫓……人々の表情も、活気もそう。明らかにいつもと違うわ。エデュミス、あなたもう少し周りを知る事に精を出したらどう?」
そう、感情の起伏が見えてこない口調のアレゼルに、青年は返す言葉が思いつかなかった。それがまた、苛立ちを重ねる原因ともなる。背もたれにギシリと体重を加えると、エデュミスはまるで自分を嘲るように鼻で小さく笑った。
「はっ。馬鹿だな、言われなくても周りならいつも見ているよ。それこそ、目が腐っちまうほどな! こっちが見なくても見てくるから、不可抗力と言ってもいいほど見てる。俺は王族の気持ちもわかるが、物見櫓でジッとしている兵士の気持ちも十分理解できるぞ。それこそ、見すぎて、見られすぎて、頭がおかしくなりそうだからな!」
「……相変わらず、良くも悪くも真っ直ぐね、エデュミス。私が言っているのは、『常識の範囲』の変化を何故理解できていないのか、という事よ。毎日この部屋から城下町を見渡しているのにもかかわらず、その雰囲気の違いが理解できていないのが可笑しいから、もう少し人間を理解してみたらどう、と言っているのよ。人を朝晩監視しろとは微塵も言ってない。馬鹿はどっちかしら」
「長くてよく聞こえなかった。もう一度言え。最後らへんの言葉は言わなくていいぞ」
「ごめんね、今のは馬鹿には聞こえない障壁を張った声だったからね。最後らへんは張ってないけど」
「そんな都合のいい魔法なんてある訳がないだろう!!!!」
怒鳴り声をあげて感情が高ぶった所、アレゼルの淡々とした口調が、ますますエデュミスの神経を逆撫でする。アレゼルも、穏やかなティータイムに罵声を浴びせられて機嫌を損ねたようだ。
二人はお互いに睨みあった――エデュミスは犬歯を剥き出しにして唸り、アレゼルは澄ました顔つきを崩していないが目が笑っていない。
自分で撒いた種が花を咲かせたが、黒々とした醜悪な色の薔薇だったようだ。
「……あぁ、もう、悪かったよ」
張りつめていた表情を崩し、エデュミスは寂しそうな顔で吐き捨てる。その一瞬だけ、白と黒が入り混じっている髪は、差し込む光の加減の所為かすべてが銀色に見えた。それは、人々の手では決して作り出せないと確信できる、神々しい輝きを放っている。人々が羨む美貌を持ち合わせたエルフが魅了されてしまうほど、彼に入り混じった魔性の銀は妖艶に揺らめいていた。
アレゼルは、先ほどの怒りが綺麗に霧散していくのを確かに感じた。平静を保っている自分が嘘のように思えるほど、呼び起された新たな感情は静かなものだった。
魔性の銀の魔力が消え失せていくと共に、閉ざされた思考も夜明けの空のように鮮明を取り戻していく。
「おい、悪かったって。無視するなよ……なぁ、アレゼル……?」
怪訝そうに自身を見つめているエデュミスが、目の前にいた。アレゼルは、まだ少し冴えない頭を支えて彼の目を見つめた。
「…………うん。許してあげる。けれど、言葉は撤回しない。人と言う存在を、学びなさいエデュミス。あなたは、高貴なる血を受け継いでいるサシュアの嫡男。完全な人としてこの世に生を受けたのだから……」
アレゼルは、自分に言い聞かせるように、エデュミスに説いた。完全な人として生まれ落ちた、銀の青年に。
エルフとは、世界の全てを受け継ぐ神の代理とされている。この世の理、全てを識るものとされている。
それなのに。
新たな時代から、失われた古代の知識までを網羅したエルフの少女は、たった一人の人間の感情を理解することができず、また、理解したいと願っていた。
静寂は穏やかな世界を作り出す。
やがて自嘲の笑みを浮かべていたエデュミスが、深く溜息を尽き立ち上がった。
「あぁ、分かった。理解してみる努力はするよ。それと……怒鳴ったりしてすまなかったな。駄目だな俺は、正論でもなんでも苛立つとすぐに表に出ちまう。これじゃあ戴冠式も出ない方がいいんじゃねぇかな」
そのひどく落胆したような態度は、しかし片隅に年相応の青年らしい愛らしさが戻っていた。アレゼルは内心でほっと一息つき、静かに答える。
「今年は運命神『サウザン』の祝福期であり、世界樹レグルスが千の年を迎える偉大な年なの。人間達の好きな、記念の年。あなたも式には参加して、神々の啓示を受けるべき」
「またそれか。レグルスレグルス……世界樹も、年齢にしてみたら老いぼれもいいとこなんだろ? いつ朽ち果てるかわかんねぇ大木によくもまぁ思いを託せるよ。その所為で、俺の居場所が早々になくなっちまう」
エデュミスはちらりと壁にかかったタペストリーを盗み見る。タペストリーには、金色の彩色が成された剣と盾が描かれており、その背には巨大な大木がそびえていた。
『世界樹レグルス』
レグルスは『世界の中心に根を張る聖木』として人々に崇められ、遥か昔に生誕した折、その名が世界の年号として定められたとされている。
そして今年は、そのレグルスが生まれ999年目。
数百と言う、長い月日をかけても枯れ果てぬ事のなかった大木が、神々の境地ともいえる千の大台を迎えようとしているのだ。世界の中心で、全ての原動力とされる魔力を満たし続ける世界樹『レグルス』は、この世界で最も尊い存在として人々に祝福を受けると言う。
運命神『サウザン』の祝福期とされる千刻みの年に、二度も辿り着くのは恐らくこの大樹が初めてのことだろうとも言われ、それが更に民の信仰に拍車をかけているのだ。
「平凡に過ごしてりゃ、記念日もただの一日と変わりようがないってのに……って、またやっちまうところだった。民の心を理解しろ、だよな。少しは、考えてみるか。記念日やら、神々の啓示とやらを、な」
しかしそれを、毎日と同じだと、彼は言うのだ。
千と言う、悠久を思わせる年月。その瞬間に立ち会えるという事は、百も生き続けられるか分からない人間たちにとっては実に恵まれた事なのだろう。各地で祭り事が行われるのは必然の結果と言えるのだ。
けれどエデュミスには、それが余りに無駄な事に見えて仕方がなかった。彼にとって、運命神サウザンの祝福期も、世界樹レグルスの誕生祭も……変わらない日常の一つでしかないのだ。
「……はぁ」
何に対しての溜息なのか、吐いたエデュミスですらわからない。
偉大なる年月を歩む事に、喜びを感じる。それは、この世界に生きる人々にとっては当たり前と言える出来事だ。そんな民の心とは裏腹に、エデュミスは運命神だのレグルスなどは、『そんな事』のように思えてしまう。『そんなもの』、自分には至極、関係のない事だと。一片の興味すら沸く事がないのだ。
エデュミスは気持ちを切り替えようと、大きく伸びをした。まだ少し肌寒い春の陽気が差し込む窓辺を見て大あくびをかく。
「剣術の稽古でもはじめるか」
うだうだと考えるより、行動をした方が自分の性に合うだろう。エデュミスが言うと、アレゼルは澄ました顔のままだった。
「今は『イーシュ』が、武道の間を使っているはず。時間を置いたら?」
あくびをかいていたエデュミスは、反射的に目を細める。
「……ったく。戴冠式で忙しいのによくやるな、あの人も」
吐き捨てる様に言い、エデュミスはゆっくりと立ち上がった。
「エデュミス? どこに行くの?」
「場所変更。シグルエで剣術の稽古だ。あそこなら、誰にも迷惑がかからないだろ?」
言葉の節々に、棘のようなものが垣間視得る。エデュミスは足取りこそしっかりとさせて、出入り口のドアへと歩を進めていった。
「……」
アレゼルは、遠ざかるその後ろ姿を静かに見守っていた。
蝶番の金きり音がして、ドアが閉じられる。ふわりと舞った風が、人には不可視である魔力の動きを変えた。エデュミスの魔力は、深い銀色に染まっていたままだった。
一人残されたアレゼルは、冷めてしまった紅茶を静かに啜る。
イーシュの話をした後にする、あの言いようも得ないエデュミスの顔を思い出していると、呑み慣れた紅茶の風味すら何枚もの薄紙に通したかのように曖昧だ。
何か一つ声でも掛けてやれば良かったかと思い、しかしアレゼルはエデュミスを気遣う時にどんな言葉をかけてやればいいか、とんとでてこなかった。
それは、己がどんなに言葉を紡ごうと、彼の心の闇は晴れることがない事を知っているからなのか。または、己の言葉は彼に響くことはないと諦めてしまっているからなのか。
その答えは、英知を知り尽くしたエルフにもわからなかった。
「変わり映えのない毎日が、楽しいの?」
駄々広い屋内に響く、鈴の音の様に可憐な声。誰に問うのでもなく、小さなエルフの唇は動いた。
いっその事、現状の維持に勤めていたほうがいいのかもしれないとさえ思ってしまう程に、代わり映えのない日々が続いている、そんな現状を憂うように。
彼の姿が消えたのを合図に、アレゼルは脱力したようにテーブルへ頬杖をついた。ムニ、と柔らかそうなほっぺたが動く。
「……私も、説教ができるほどではないか」
そう言うアレゼルは、青年と同様にはぁと大きなため息をつく。
出会った当初は、悪戯好きだが優しい青年だったのに。今では斜に構えた、何事にも無関心のに捻くれ者になってしまった。
それもすべて、この聖王国家『サシュア』に身を落とした故の宿命だったのかもしれない。
例えこの先どんな変化があろうとも、その人生が変わる事のない、宿命。自身の努力ではどうする事もできない、決められた人生が明白になっている絶望を知れば、あぁにもなってしまうと思える。
これから先のエデュミスは、しっかりと教養を身に着け、国の政治を任せていけるような人物にならなくてはいけないのだ。
(結局、呪いめいた自分の運命に翻弄されるしかないのね)
アレゼルは彼の幸せを思い、彼の全てを憂う。
(どうすればいいのかしら……)
アレゼルは、自分の事のように悩んだ。エデュミス=サシュアの往く末を。
王族の末裔にありながら、その性格は余りにも国務だの王族だのと言う形式めいた事には向いていなかった。短気、そして排他的でもあるが、好きなことに対しては周囲が驚くほど前向きに生きるその姿は、見ていて清々しいほどだ。とりわけ、幼子の頃より興味をもった剣術の稽古は毎日欠かさず行なっており、筋も悪くないと騎士隊長からのお墨付きがある。
剣を振るうその勇猛果敢な姿を見ている周囲の人間も、このまま騎士にでもなればいい、とさえ感じている者が多数だろう。
だが、しかし。それも儚い夢の続きに過ぎないのは、周囲も当人も、十全に理解していることだろう。
エデュミスには、サシュアの末裔としての義務が課せられている。執政として政治を取り仕切り、国を繁栄へと導かなければならない末路の事だ。聖王国家、高貴なるサシュアの血筋は、絶対である。例え王国の騎士でさえ身分不相応とされてしまうに違いない。
政治を取り仕切る。
アレゼルは、エデュミスの父『ジェスター=サシュア』がエデュミスに無茶な事を言っているとつくづく思った。上に立つものとしてとして信頼される、それだけでもかなりの手腕が必要だろうに、執政官と言う役柄は、エデュミスにとって一段と困難を極める事だろう。
エルフ族であるアレゼルでさえ、彼の輝かしい未来が見えてこなかった。民衆の信頼が、エデュミスにはまったくと言っていいほどないが故に。
『闇の眷属』――と、城下では度々耳にする機会がある。闇の眷属とは、太古に魔神を冠した召喚師が召喚した魔のモノとそれに従属する邪教を指す言葉であるが――ケルナ・クルフ城下町においては、サシュアの嫡男であり、列記とした王族であるエデュミスを皮肉った言葉としても使われていた。
(……私は……、どうでもいい)
アレゼルは、横にずれた帽子の位置を直して、前かがみになった体をおもむろに倒した。その体重では、細い背もたれでさえ、何の悲鳴さえあげない。
(そう……。あなたがどんなに変わったって……)
一度考え直すと、闇の眷属だの、彼を悩ます事柄などむしろもうどうでもよい事だと思えた。彼自身が変わって、変わろうとして、そうしたならば、また別の道が自ずと見えてくるかもしれない。ならば自分は、それに付き従うまで。
そんな思いが、ポツリと浮かんだ。アレゼルは、彼の傍らに寄り添っていれば、それで良かったのだ。それは、歪みの生じた一種の愛情なのかもしれない。長年彼の傍にいた、この高潔なるエルフだからこそ至る答えだった。
当初一部にまとめていましたが、長くなり見栄えが悪かったので二つに分割しました。