第四話~兆候~
夢を見た。
中学生の頃に飼っていた犬が死んでしまった時の夢だ。
当時、毎朝の餌やりは私の仕事だった。
いつものようにドッグフードを手に小屋まで行くと、力無く倒れピクリとも動かない犬の様子が目に飛び込んでくる。
死んでしまったのだとすぐに理解した私は、そのまま踵を返し両親に報告に行った。
学校があるから、きっといない間に処分されてしまうんだろうな、とボンヤリ考えていた。
同時に、とても可愛がっていたのに、どうして自分はこんなに冷静なんだろう、悲しんであげられないんだろう、私は酷い人間なんだろうか、とも思ったものだが、それは違った。
両親と共に犬の元へ行き、父がその死体に触れ『死んでいる』と口にした瞬間、私の胸に怒涛のように悲しみが訪れて、止めどなく涙が流れ出た。
自分でも知らないうちに、私の心は犬の死という辛い現実から目を背けてしまっていたらしい。
それが第3者にハッキリと事実を告げられたことによって、認めざるを得なくなった。
そして、閉じ込められた感情が、決壊した心から一気に溢れ出したのだ。
この一件で、私は自分の心の脆弱さを知った。
考えるに、あの頃から私は何1つ成長できていない。
現に、異世界に飛ばされてしまったというのに、私の心は至って平静だ。
思考だけは現状を見据えてああだこうだと小賢しく働くが、反面、その心が異世界という存在に惑うことも、見えようもない未来を悲観することも、地球に二度と戻れないと嘆くこともない。
マサという恐怖の体言のような存在を容易に受け入れ縋りつけたのも、その一環だろう。
命の危機にあるかもしれないという現実から、心が目を背けているだけ。
だからこそ、あんな顔のあんな声のあんな身体のあんな力を持った人間のような何かにだって、普通に接することができるのだ。
けれど、それだけに怖い。
今回、心の奥底に閉じ込められた負の感情群。
もし、それらから逃れられなくなった時、放出されてしまった時……私は正気でいられるだろうか。
いっそ、この状態のまま安定した生活を手に入れることが出来れば、負の感情を表に出すことなく昇華させることができるかもしれない。
心の一部が凍結されているとは言え、表面上の簡単な感情なら正常に機能している。
喜怒哀楽は失っていない。
たとえ心が逃避から戻ってこなくても、何1つ問題はないのだ。
故に、私はこの先の人生において、現実を認めざるを得ない状況が訪れないことを切に願う。
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意識を浮上させ目を開くと、ナマハゲも額から血を流すまで土下座しそうな恐ろしい顔面が視界に飛び込んできた。
思わず叫び声を上げそうになるが、それが恩人のマサだと気が付いた私は、素早く両手で口を塞いで何とか事無きを得る。
それから、ゆっくり上半身を起こして、額の冷や汗を拭い息を吐き出した。
野宿の際は座って就寝していると言われ、彼の左膝を借りて眠りについた記憶が浮かぶ。
「どうした? 悪夢でも見たか?」
私の様子を見て心配したのか、マサが話しかけて来た。
パッと頭に『悪夢ではなく、悪魔を見てしまって』などと失礼極まりない返答が浮かんだけれど、それを口に出せるはずもないので、大人しく首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。
おはようございます、マサ」
「……あぁ」
正直に『貴方の迫力のある顔面に驚きました』なんて言えるはずもないので、適当に真顔で誤魔化しておいた。
興味が無いのか、気遣いなのか、それとも返す言葉で自分について尋ねられるのを恐れているのか、いつだって彼はこちらが濁した事柄に対して追及をしてこない。
理由が何にせよ、これにはかなり助かっていると思う。
とりあえず、湖に顔を洗いに行こうと思い立ち上がったところで、マサに呼び止められた。
「これ巻いとけ。少なくとも裸足よりはマシだろう」
そう言って渡されたのは、包帯のように細長く裂かれた、元は手拭いだったらしき2つの布。
軽くお礼を言って受け取り、湖で足を綺麗に洗ってからそれらを巻きつける。
昨夜、入浴後にまたすぐ土にまみれる羽目になった足に眉を顰めた私としては、彼の心遣いに大いに感謝した。
朝食も食べ終わり、出発前に荷物の整理をしているマサに話しかける。
「あの、昨日のお話……今いいですか?」
「…………おぅ」
返事をしつつも、彼は昨夜と同じくこちらを一切見ずに作業を続けている。
それが、緊張している私には少しありがたかった。
「とりあえず……私、故郷のことは忘れようと思います。
理由は……えっと、どこにあるのか分からないのと、戻らなくても私の家族には支障がないから、です。
だから、どこか平和な国に定住出来たらと思います。
ただ、私はすごく世間知らずなので、いきなり見知らぬ村や町に置いて行かれても生きていける自信がなくて……ですね。
それで、その、出来れば生活の目途が立つくらいまで一緒に……って、いい、ですかね?
勿論、旅の最中は自分で出来ることはやりますし、必要なこと、役立つことは全部覚えるつもりです。
それと、私が稼げるようになったら、それまでに掛かった費用は全額お返ししたいと思っています。
そんな感じで……えーっと、どう、でしょうか……」
私は、嘘にならない範囲で自分の状況を説明しつつ希望を述べた。
散々悩んだけれど、この世界の常識を何1つ知らない、ほとんど赤子に等しい自分は、結局、誰かを頼らなければ生きていけないというのが現実だろう。
ならば、その相手は彼がいい。
どうせ、彼がいなければ早々に失っていた命だ。
もし、彼の優しさに裏があったとしても、全く見ず知らずの赤の他人に同じことをされるよりは、きっと素直に諦められる。
そう思った。
ただ、口に出すとやはり都合の良いことを言っているなと再認識させられ、断られないかと不安になった私は、自分の声が段々小さくなっていくのを止められなかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は微妙に口の端を上げて呟くようにこう告げる。
「……分かった」
それが何を思っての表情だったのか私には分からないが、傍目には千人切りを終えた後の戦鬼のような壮絶な笑みに見えた。
………………己の判断が間違っていなかったと信じたい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
月も緩やかに下降を始めた真夜中。
時たまグリグリと動く腿の上の温もりに意識を取られて、俺は未だ眠れずにいた。
だからと言って、不眠で問題があるわけでもないのだが。
睡眠など3日に1時間程度も取れれば充分に事足りる身だ。
……しかし、慣れない。
今までこれ程近くに、それもこんな風に警戒もされずに誰かが傍に居た過去などなかった。
集団での泊りがけの狩りの時なども、仲間と天幕を共にした記憶はない。
別に嫌がらせだったわけじゃあなく、ただ俺の身体がデカすぎたのと、あとは心臓に悪い顔が近くにあっては身も心も休まらないから、という理由があったはずだ。
非情に神経を使う狩りの最中での重要な休息時間と今の状況とでは比べる対象にはならないかもしれないが、それ以外では他人と泊りがけで出掛けた経験もないので仕方がない。
だから、というのも何だが、いつになく穏やかな気持ちで顔に笑みが浮かんだ。
これから彼女のために何をしてやれるだろうかと、そんな手前勝手な妄想に浸りながら、俺は常より格段に短く感じられる夜を過ごしていた。
ふと、そろそろ夜も明ける頃になって、アミが急にうなされ出した。
酷く傷ついて嘆いているような、そんな表情をして次々に涙を流す。
慌てて名前を呼んでみたり、泣き濡れる顔を拭ってみたりしたが、彼女は一向に目を覚まさない。
しかし、その反対で、やはり彼女は平気なフリをしていただけだったのかと、少しばかり納得している自分もいた。
夢の中でしかその不安を表に出すことが出来ないのならば、今、無理に起こす必要もないだろう。
涙を流すというのは、必ずしも悪いことばかりではないはずだ。
遅まきながらそう判断して、俺は彼女が落ち着くまで優しく側頭を撫で続けた。
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目を覚ました途端、アミは青褪めた顔をして口を手で押さえ起き上がった。
その後、深く息を吐きながら腕で額を拭う彼女に、俺はなるべく静かな声で問いかける。
昨夜の様子から、彼女の夢見が悪かったことは知っている。
話すという行為で少しでも気晴らしになればと思ったのだが、アミは困ったような顔で首を横に振ってそれを否定した。
どうにも焦燥しているように見えるが、大丈夫だと本人に言われてしまえば、こちらからそれ以上追及するわけにもいかない。
俺は諦めて彼女の挨拶に応えた。
起きている時のアミは本当に気丈だ。
見知らぬ場所で、見知った者もいないこの状況で、弱音1つ吐かない、なんて……そんな少女が他にいるだろうか。
少なくとも俺は今まで彼女のような子供には会ったことがない。
これがアミ元来の性質なのか、それとも環境で形作られたものなのかは知らないが、その事実が何とも痛ましく思えた俺は、彼女に気付かれないように小さなため息をついたのだった。
直後、アミが湖を見ながら立ち上がる。
顔でも洗いに行くのだろう。
俺は足を踏み出そうとする彼女を呼び止めて、眠れない夜の手慰みに作った細長い布を渡した。
「これ巻いとけ。少なくとも裸足よりはマシだろう」
少し言葉が足りなかっただろうか。
最初はきょとんとした様子だったが、アミはすぐに顔を綻ばせて礼を言ってきた。
……あぁ、これだ。この反応だ。
これが他の人間だったら、何を企んでいると訝しんだ目で見られたり、金はないと怯えられたり、そもそも手を差し出した時点で悲鳴を上げて逃げられたりするものだ。
なのに、彼女は当たり前のように俺に感謝を向けてくる。
笑顔を見せてくれる。
この心地の良い存在を手放したくないと、そう強く思った。
食事も終わり荷物の整理をしていると、1メートルほど先の木の根元に座っているアミが躊躇いがちに話しかけてくる。
昨日の話がしたいと言われて、己の体に緊張が走るのが分かった。
ついに来たかと内心ビクつきながらも、動揺を悟られないように作業を続ける。
アミはどんな結論を出したのだろう。
聞きたいような聞きたくないような、俺の心はそんな矛盾した感情に囚われていた。
他人にこれほど動揺させられたのは、いつぶりになるか……。
「とりあえず私、故郷のことは忘れようと思います」
思い切り想像の範疇外にあった言葉が聞こえてきて、俺は俯いたまま目を見開く。
それに気が付かないまま、アミはつらつらと己の考えを述べていった。
話す内に声が弱々しくなっていき、終わるころには、彼女は非常に申し訳なさそうな顔をしていた。
自分の出した結論を言い終わったアミは、いかにも不安気な様子でこちらを窺っている。
そんな彼女に対して、俺は簡潔に了承の意を返した。
本当なら『家族に支障がないとはどういう意味だ』とか『別に金なんか返さなくて良い』とか『そんな風に不安そうにせずとも、叶えると言っただろう』とか、とにかく伝えたい言葉はそれなりにあった。
だが、だらしなく上がりそうになる口角を抑えるのに必死で、それを言語にすることは叶わなかった。
彼女の考える生活の目途が立つまでというのが具体的にどこまでを指すのかは分からないが、少なくとも月単位、長ければ年単位で共に旅をすることになるだろう。
何という、願ったりかなったりな状況だ。
とりあえず、その先の別れについて今は考えないようにして、俺は胸の内で湧き上がる喜びの感情を噛みしめていた。
実は口角の制御が微妙に出来ておらず、それを見たアミが密かに顔を引きつらせていたという事実を知ったのは、それからもっとずっと後の話になる。