第二十五話~ジレンマ~
私たちのいる場所から数メートル先に着地したチョウらしき化け物。
その口から流れている粘着質の薄黄色い涎が地面に落ちると、途端にそこから焼けるようなジュウという音と共に白い煙が上がった。
ありえない出来事を目の当たりにして、唇の端が数度引き攣る。
えー……? 何その濃硫酸みたいな反応。
いや、実際に扱ったことはないから、あくまで素人のイメージだけれど。
何にせよ、そんな凶悪な液体が垂れ流しになっているなんてタチが悪すぎる。
しかし、それで焼け爛れない彼の皮膚は一体どうなっているのだろうか。
マサはチョウから視線を外さないまま、私を地面に降ろしてその広い背中に庇った。
彼には珍しく額からひとすじの汗を流しながら、緊張した面持ちで口を開く。
「アミ。悪ぃがここに来るまでに色々消耗しちまって、アイツを確実に倒せる自信がねぇ。
最悪でも相討ちには持ち込んでやるから、できればこのまま1人で逃げてくれ」
一瞬、耳を疑った。
どれだけお人好しだったら、こんな義理もない他人のために命を賭けることができるというのだろう。
多分、マサ1人ならわざわざアレを相手にしなくても、いくらでも逃げることができるはずだ。
私というお荷物さえいなければ、こんな訳の分からない場所でここまでボロボロに傷つくこともなかった。
……歯がゆい。
自分で自分の身も守れない脆弱さが。
彼の重荷にしか成り得ない事実が。
それに、私が命の恩人である彼を放って逃げる様な薄情な真似が出来る人間だと思われているのも悔しい。
苦々しげに告げられたマサの言葉に内心で鬱屈とした気分になりながらも、それを表に出さず、私は笑ってこう答えた。
「1人で逃げるっていうのは無理……かな。
まぁ、邪魔になりたくないから、この場に残るっていう選択肢はないけど。
そもそも逃げ道だって分からないし、そうしたところで助かるとも限らないでしょ?
だったら、私はマサが勝つのを信じて待つよ。
というか、今の私はマサがいないと生きていけないから、死ぬ時は一緒ね?」
「……は?」
マサは一瞬呆けた顔で私を見たが、すぐに視線を前方へ戻した。
それまでただボーっと立ちっぱなしだったチョウが、こちらへ向かって1歩足を踏み出して来たからだ。
焦点の定まっていない瞳でいかにして私たちを認識しているのかは分からないけれど、アレの意識は確実にこちらを向いているのが肌で感じられた。
それからカクリと人形のような動作で顔を天井に向けたチョウは、甲高い雄叫びをあげて空気を激しく揺さぶる。
たまらず両手で自分の耳を塞いだ。
たっぷり10秒は続いた声がようやく止まったかと思うと、チョウはゆっくりと顔を戻して今度は明白な敵意を飛ばしてくる。
常人の私にも分かる程、空気が冷たく変化していた。
マサがすでにあちこち欠けてしまっている巨大な斧を構える。
緊迫した場を壊さないように、私は小声で彼の背中に声をかけた。
「じゃあ、マサ。
私、足手まといにならないように離れてるから」
言い終わると同時に後方へ駆け出す。
直後、なぜか金属が交わるような音が連続で響いてきた。
その音を背に、私はマサの無事を祈りながら必死で足を動かし続けた。
~~~~~~~~~~
「確か……この建物だったと思うけど……」
荒い息を整えることもせずに、とある施設の扉を開いて奥へと進む。
目的の部屋はどこだったか……と記憶を巡らせながら、広々とした廊下を足早に過ぎて行く。
ただ隠れてマサを待つばかりの心積もりなど毛頭なかった。
チョウがなぜあんな姿になったのか、その理屈は私には分からない。
けれど、あの恐ろしいコード群に捕まった後で彼がモンスターと融合してしまったのだという事実だけは、おぼろげながらも理解できた。
おそらく、もうまともな思考回路は残っていないだろう。
彼の虚ろな瞳には一切の知性も理性も感じられはしなかった。
だから、私はマサに彼が元は人間だったということを敢えて教えなかったのだ。
教えて、マサがチョウを手にかけるのを躊躇して、逆にやられてしまったら……困る。
もはやあれはただのモンスターで、襲ってきたからには身を守る為に反撃しないといけない。
それだけだ。
「あった、この部屋!」
なかば体当たりするように、勢いよくドアを開けて中に入った。
部屋の左右には天井まで伸びた大きな本棚が隙間なく設置されており、正面にはゲームの筐体のような机と機械がひとつになった風の奇妙な物体が鎮座している。
本棚に並べられた蔵書には見向きもせず、私はその机へと足を向けた。
たどり着いてすぐ、正面右側に取り付けられている引出の1番下を手早く開ける。
その中から1冊の分厚い本を取り出して、机の上に置き、表紙に手をかけた。
それから、気を落ち着けるように数回深呼吸した後、おもむろにページを捲りだす。
「……え、と……魔光石の発明により魔力エネルギーの需要が急激に増大し帝国研究部の……ここじゃない。
帝国歴305年頃になると本来の目的と他に愛玩用として……あ、この辺かな……あった!
全て、クリーチャーには軛がかけられており、種毎に定められた封呪を唱えることによりその活動を強制的に停止状態にさせることが出来る。封呪については巻末の資料一覧に記載!」
魔力とモンスターについて書かれた教科書と思わしき本。
チョウに教えてやる気になれず、すぐ机の中に戻したが……万一に備えて在り処を覚えていて良かった。
私はひとつ息を吐いてから、慎重に一覧表を破いて懐にしまい、再びマサの元へと駆け出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今のところ敵意は感じられないが、油断は出来ない。
上位のモンスターは特異な攻撃方法や体質を持っている場合が多い。
相手の情報が何1つ分からない今の状況で戦闘に入るのはかなり不利だ。
本来ならここまで近づかれる前にアミを安全な場所へ逃がしたかったが、ヤツが動く獲物に反射的に遠距離攻撃を仕掛けてこないとも限らない。
それよりもモンスターと俺の直線上に彼女を庇いながら逃がした方が確実だ。
正面に降り立ったモンスターの一挙一動に注目しながら、俺は腰を落としてアミを降ろした。
腕で軽く彼女の肩を押して背後へ移動するように促す。
大人しく俺の背に庇われたアミに、正面を見据えたまま小声で話しかけた。
下手に希望を持たせて俺と残るなどと言い出さないように、正直に勝てる自信がないという真実を告げる。
逃げろという言葉を聞いて、彼女は少しの間沈黙した。
それからフッと小さく笑う様な気配がしたかと思うと、そう意外でもない答えを返してくる。
「1人で逃げるっていうのは無理……かな」
いつだって情け深く優しいアミに、案の定かと説得するため口を開けば、それよりも前に彼女が次の台詞を紡いだ。
その相変わらず合理的な思考によって導き出されたであろう内容に、思わず苦笑いが漏れる。
だが、最後の一言に虚を突かれた俺は、あっさりモンスターから意識を外してしまった。
「今の私はマサがいないと生きていけないから、死ぬ時は一緒ね?」
一瞬で頭の中に大量の疑問が湧いて、嵐のように吹き荒れた。
何だそれは。
どういう意味なんだ。
まるでどこぞの物語の告白のような台詞だが、それにしてはあまりにもあっさりとした口調だ。
職もなく完全に養われている状態であるという事実をただ述べているだけなのか?
だが、それなら死ぬ時は一緒などという言い方をするだろうか。
それとも、1人では遺跡から出られないという自虐から?
俺がいなくても生きていける時というのが、過去と未来どちらの方向にかかっているのかでも意味は変わってくるだろう。
もし……もし、お前の中に少しでも、俺と同じ気持ちがあるんだったら……俺は……。
混乱する思考のままに口を開こうとした瞬間、モンスターが足を踏み出す音が聞こえて、慌てて前方に注意を戻した。
すっかり現在の状況を忘れていた自分に決まりの悪さを覚える。
視線の先でモンスターが興奮したように雄たけびを上げた。
そして、まるで今までの愚鈍さが嘘だったかのように、鋭い殺気を飛ばしてくる。
背後にいるアミもそれに気が付いたのか、ゴクリと喉を鳴らしていた。
モンスターに警戒態勢を取ったまま、少しだけ彼女の方へ意識を割く。
しかし……だ。
たとえソコに恋情が込められていなくとも、十二分に心地の良い台詞ではあった。
まるで俺という存在が彼女の全てであるかのような、そんな勘違いをしたくなる。
厭う言葉ならいくらでも耳にした。
産まれてこれまで途切れることなく悪意を受け続けた。
だからこそ、彼女の言葉はどこまでも甘美で……。
ならば、もう意味など何だっていいんじゃないかと思えた。
そんなものは、後でいくらでも本人に確かめられる。
現状で大事なのは、俺の誰より大切な存在である彼女を無傷で守りきるという1点のみだろう。
今はそれだけに集中すればいい。
アミが俺の勝利を信じるというのなら、万一の時には俺と共に果てるつもりであるというのなら、どんな相手だろうと負けることなどあってはならない。
そこまで考えて、俺はゆっくりと斧を構えてモンスターに殺意を返した。
これから繰り広げられるであろう戦いに対して、いつになく集中力が高まっていく。
一触即発の空気を感じ取ったのか、アミが小声でこの場から離脱する旨を宣言して、真っ直ぐ後方に走り去って行った。
偶然なのか考えた末での行動なのかは分からないが、伝えてもいないのに示そうと思っていた方向へ駆けてくれたのはありがたい。
急に動き出したアミに反応したモンスターはグッと膝を落として彼女の元へ跳躍しようとする。
そんな行動を読み取った俺は、それを防ぐために素早く駆け出し、右手側の斧を振り上げた。
身の危険を感じたのか、ソイツは跳躍の方向を変えて、俺に向かい砲弾のように飛び出してくる。
左手側の斧を心臓の上に盾にするように構えるとほぼ同時に、モンスターの黒い爪と衝突して金属同士がぶつかり合ったような高い音が鳴り響いた。
避ければまだそう離れていないアミにも被害が及ぶことは明白だったので、斧の限界ギリギリまで衝撃を逸らさずに受け止める。
その激しさに呼応するように、足元の白い床に次々ヒビが刻まれていった。
止められたのが気に食わなかったのか、モンスターはそれから執拗に爪での攻撃を繰り返してくる。
驚くべき力と速度を持っているようだが、その動きは実に単調だ。
どうやら見た目の通り、あまり知能は高くないらしい。
油断しなければ勝てるか?
と思った瞬間、脇腹に鈍い痛みが走り、軽く身体のバランスを崩した。
一瞬だけ下方に目をやれば、トカゲ型の尾が戻っていくのが見えた。
どうも、爪に意識をやっている隙に視界の外から打ち付けられてしまったようだ。
おそらく狙ってやったというよりも、モンスターの持つ戦闘本能から来る行動だろう。
考えた先から油断してどうするのかと気を引き締めながら、向かってくる爪を弾き、その勢いで距離を取ろうと斜め後方へ跳ぶ。
だが、ヤツは俺が着地するよりも早く、例の薄黄色の唾液を飛ばしてきた。
咄嗟の判断で炎を放ち蒸発させ、何とか無事に地面に足をつける。
間違いなく今までで1番の強敵だと理解させられた瞬間だった。