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第十六話~渇望~



 それは一瞬の出来事だった。


 目の前で滾々こんこんと流れ落ちてゆく根源の赤。

 鼻をつく錆びたような鉄の匂い。

 音を立てて地面を跳ねるその液体は、激しく自己を主張するように石畳を染め上げていく。

 茫然と傷口に触れてみれば、生温かくヌルリとしたソレは、簡単に私の手に付着した。


 怖い、と思った。ただ怖いと思った。


 傷が痛々しいから?

 こんなにも大量の血が流れるのを見たのは初めてだから?

 もしかしたら死んでしまうかもしれないから?


 ……否、違う。

 もう逃げられないからだ。

 もうこれ以上逃げられないと、心が悟ってしまったからだ。

 この世界が夢でも幻でもない現実のものであると、五感の全てで理解してしまったからだ。


 突如、激しい頭痛に襲われた。

 呼応するように起こった大きな耳鳴りは、さらに頭部の痛みを増長させる。

 視界はまるで古いテレビの砂嵐を見ているかのように灰色に乱れ、もはや何も映しはしない。

 上手く呼吸ができず、口内が渇く。

 心臓は破れそうなほどの鼓動を繰り返し、体中から汗が噴き出した。

 四肢は痺れ、今自分が立てているのかどうかすら分からない。


 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。


 灰色の視界が黒に変わったのは、それから間もなくのことだった。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 ……どこか遠くで、子供が泣いている。


 ゆっくりと意識を浮上させてみれば、私は辺り一面闇に覆われた空間に佇んでいた。

 霞みがかった思考は、この不可思議な状況に何の疑問も抱くことはない。

 緩慢な動作で周囲を見回し、声のする方向へと足を踏み出した。

 そこから何日も歩いていたような気もするし、あっという間だったような気もする。

 ようやく辿り着いたその場所で、1人の少女が小さく蹲って泣いていた。


「こんなところで、どうしたの?」


 声をかけると、少女は驚きに肩を竦ませ、次いで、恐るおそる私を見上げて来た。

 彼女の顔を確認して、ギョッとする。

 これ……は……5歳くらいの時の……私?


「お……おねえさん、だあれ?」

「あ、えっと、私は亜美。中島亜美」

「あみ?

 あみもあみだよっ、いっしょだね」


 少女は、目の前の大人が自分と同じ名前であることに安心を覚えたのか、無邪気な笑顔を向けてきた。

 私は彼女のすぐ横に屈んで、濡れた頬を指で拭いながら尋ねる。


「アミちゃんは、どうしてこんな所にいるの?」

「だって、こわいんだもんっ。

 パパとママもいないし、おともだちもいないし。

 あみね。

 あみ、ぜーんぜんしらないセカイに、かってにつれてこられちゃったの。

 だあれもしらないし、なんにもわかんないの。

 ひとりぼっちなの。

 でも、そんなのこわいでしょ、かなしいでしょ。

 だから、あみはずっとココにいるの。

 おそとになんかいかないの。

 ココにいたら、こわいことなんにもないから」


 あぁ、そうか。

 彼女は、私がこの世界に落とされた瞬間に閉じ込められた、純粋なる私の心なのだ。


「……そっか」

「ちょっとさびしかったけど……でも、おねえさんがきてくれたし、もうへいきっ!」


 そう言って、子供の私は満面の笑みを浮かべて抱きついて来る。


「ねぇ、おねえさん。ずっとココにいてよ。

 あみとずーっとずーっといっしょにいて!

 ね、おねがいっ」

「アミちゃん、それは……」


 彼女と一緒にいること自体に問題はない。

 元々、私と彼女は同じものなのだ。

 むしろ、その方が良いとも言える。

 けれど、この場所に2人で残れば現実にいる私の肉体はどうなる。

 良くて植物状態、悪くて死?

 ……そんなのはダメだ。

 何とか彼女を説得して、一緒にここを出ないと。

 疑うことを知らない幼子に笑顔を向ける裏で、汚い大人の思考を巡らせた。

 そこでふと、己しか存在しないはずの空間に、どこかからか音が落ちてきて、私はそれにつられる様に辺りを見回した。


「……ちょっと、待って。何か聞こえない?」

「なあに?」


 2人揃って耳をすませば、かなり上空の方から私の名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 耳慣れたそれに、少女は嬉々とした表情を見せた。


「まさだ!」

「……そうみたい」


 閉じ込められてはいても、彼女は外の様子を知っているらしい。

 私のことは認識していなかったのに、不思議なものだ。

 マサの名前を呼んだ少女の頬は、分かりやすく紅潮していた。


「……あれ? でも、この感じ……泣いてる?」

「ほんとだぁ、まさないてるー。なんで?」


 同時に首を傾げながら、直後、私は頭に浮かんだ答えをそのまま口に乗せる。


「もしかして……私とアミちゃんが2人でここにいるから……かな」

「ええーっ。なんで、なんでぇ? んんんっ?」


 私の推測に、幼い自分が強く目を瞑り、頭に両手の人差し指を当てた。

 ちょっとアホっぽくて可愛い仕草だけれど、これが自身だと思うと微妙な気分だ。

 やがて何かに思い至ったのか、少女は目を大きく開いて私を見てくる。


「あっ、そーいえばっ!

 まさのおともだちのがんちゃんも、なっちゃんも、やすも、ちゃんとまさのおカオみておハナシしてなかったよねっ」

「え……っと、そう言われてみれば、そうだったような……」


 今度はこちらが額に指を当てる番になった。

 が、この世界に落とされてからというもの、いつも自分のことだけで精一杯で、そんな細かなところまでは全く記憶に残っていなかった。

 同じ中島亜美だというのに、なぜこんなにも見ているものが違うのだろうか。


「もしかして、まさもあみといっしょで、ひとりぼっちなのかな。

 だから、かなしくて、ないてるのかな」

「うーんと、アミちゃんがそう思うのなら、そうかも知れないね」

「あみ、まさがかなしいの、ヤだな。

 だってね、だって、あみ、まさのことスキだもん」

「………………好き?」


 想定外の言葉を投げられて唖然とする。

 無意識に繰り返してしまった単語に反応して、少女は嬉しそうに語りだした。


「うんっ。

 あのね、あみね、まさのことだぁいスキなのっ。

 まさはとーってもやさしくって、とーってもつよくって、とーってもかわいいんだよ。

 でも、とーってもよわいところもあってね。

 あみ、まさをまもってあげなきゃーっておもうの」

「へ、へぇ、そうなの」


 満面の笑みを向けてくる小さな自分を前に、額から変な汗が流れていく。

 私が、こんなふうにマサのことを好きだったとは初耳だ。

 親切な人だという意味である程度の好意は持っていたが、現状ではそれだけだったはずだ。


「だからねっ、まさがあみといっしょでひとりぼっちなら、あみがいなくなったらないちゃうなら……あみ、がんばっておそといってみる!」

「えっ。あ……そ、そう?」


 唐突な決意表明に、思考が追いつかず適当な相槌を打ってしまう。

 けれど、すぐに考え直して、説得する手間が省けたのだと彼女の発言を受け入れることにした。


「そうね、一緒にマサのところに帰ろっか」

「かえろー!」


 そうして、私と小さなアミは手をつないで暗闇を歩きだした。

 しかし、この子もあんなに外は怖いと主張していたのに、彼が泣いているという理由だけで、あっさり自分から出ようと提案してくるとは……。

 それだけで、私の中でマサがどれほど大きな存在になっているのか分かったような気がした。

 同時に、このまま目を覚ました時、自分の身に起きるであろう気持ちの変化が少しだけ怖くなった。
















◇ ◇ ◇ ◇ ◇
















 ギリギリのところで何とか彼女を守ることが出来た。

 その代わり、己の腕に靭帯まで届く深い傷を追い、おびただしい量の血が流れてしまう。

 が、この程度の傷を負った経験など過去いくらでもあるし、包帯でも巻いておけば自身の回復力なら5日程度で完治するので特に慌てはしない。

 多少痛みはするが、無視できる範囲だ。


 逃げようとしたヴェルスはすぐに騎士に取り押さえられ、一方的な殺傷行為による牢送りが決定した。

 それを黙って見ていると、腕の中に匿っていたアミがなぜか傷口に触れて来る。

 視線をやれば、どこか蒼白い顔をした彼女が俺の血のついた掌をじっと眺めていた。

 そして、全身を小刻みにふるわせた後、彼女は唐突に気を失ってしまう。

 倒れないように支えてはみたが、尋常でない量の汗が流れているのを見て、俺はしゃにむに焦ってしまった。


「おっ、おいっ! アミ! アミ!?」

「待って下さい、マーシャルトさん。

 気を失った者を、あまり揺すらない方が良い」


 騎士の助言に少しだけ冷静さを取り戻した俺は、彼に腕の良い医師を呼んでもらえるように懇願した。

 血が苦手で見れば気絶してしまうといった人間も知っているが、それにしても様子がおかしい。

 俺の言葉に頷いて、騎士は拘束したヴェルスを肩に担いで走って行った。

 待つ間に自分の怪我の処置をして、その後、汚してしまった石畳を手持ちの布で拭う。

 店の前でのことだからか、途中から宿の清掃員がその作業を引き継いだ。

 また、客が入らなくなるからと、従業員用の部屋のベッドへ寝かせるよう促された。

 こちらとしても、ありがたい提案だったので、すぐに首を縦に振る。

 極力揺らさないよう慎重にアミを運び込みながら、確かに俺が宿の前に居座ればそれだけで立派な営業妨害だなと自嘲した。


 20分程で再び姿を現した騎士は、何と王宮専属医師を伴って帰ってきた。

 アミの額に手を置いて水魔法の応用で容体を確認した医師は、精神的な負荷からくる昏睡状態だろうと診断する。

 また、肉体的な疾患ではないため治療法が存在せず、今の状態ではこのまま目覚めるかどうか分からないとも言われた。

 咄嗟には理解出来なかった。

 頭が理解することを拒否した。

 アミが二度と起きない可能性があるなど、考えたくもなかった。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 宿に部屋を借りて、俺はひたすらアミの看病を続けた。

 と言っても、できることなど皆無に等しい。

 ただ、馬鹿みたいにベッドの横に突っ立って、昏々と眠り続ける彼女を見ていた。

 血の気の引いた白い肌をして、ピクリとも動かないアミを、まるで人形のようだと思った。


 その夜は一睡もしないまま次の日の朝を迎える。

 食欲も全くわかず、ただアミの目覚める瞬間を今か今かと待ち続けていた。


 昼前に昨日の騎士と医師が揃って訪ねてきた。

 医師は、血液に栄養がどうとか良く分からない事を言って、アミに特殊な魔法を施す。

 騎士は、牢で目覚めたヴェルスが、開き直った様子で自分があの日の噂を流したのだと事実を暴露したとのことで、その報告と確認を取るために医師について来たそうだ。

 詳しいことは彼女にしか分からないと、それだけを告げて俺は口を噤んだ。

 あまり人と会話する気にはなれなかった。

 医師がそんな俺を痛ましげに見ていたが、何も言わずにまだ話を聞きたそうにしていた騎士を連れて去って行った。


 その日の夜。

 そういえば、彼女は風呂が好きだったなということを思い出して、いつものカウンターの男に、女の従業員に身体を拭ってもらえないかと頼み込んだ。

 ほんの数分とは言えアミから目を離すのは辛かったが、さすがにそれに立ち会うほど無神経ではない。


 何も変わらないまま翌日が来た。

 未だアミは眠り続けている。

 今日も昼ごろに医師が訪れて、彼女に前回と同様の魔法を施していた。

 俺が食事を摂っていないことを見抜いて釘を刺して来たが、微動だにせず黙ってアミを見ていると、諦めたようにため息を吐いて帰って行った。


 夜。俺は悶々と彼女が目覚めない理由を考えていた。

 彼女が昏睡してしまうほど、拒絶したいのは何なのだろうか。

 血に何かしらの強いトラウマでもあったのか?

 平気そうに振る舞っていたが、実は故郷を失ったことが悲しかったのか?

 それともまさか、俺と一緒に旅をすることが本当は辛かったのか?

 なぁ、俺は二度とお前に名を呼んでもらうことは……微笑んでもらうことは出来ないのか?


 ふいに目頭が熱くなり、1粒の涙が零れた。

 今までどれだけ理不尽な暴力を受けようが蔑み罵倒されようが、1度たりとも流れなかった涙があっさりと零れ落ちた。

 それに驚くと同時に納得する。

 俺の心をこうも簡単に揺さぶることができるのは彼女だけだ、と。

 彼女だけが、俺を化け物ではなく、ただの人間にしてくれる。

 そしてその逆も、だ。

 彼女だけが、俺をただの亜人ではなく、真の悪魔に変えることができる。


 膝を折って腰を屈め、アミの華奢な肩に額をつけて、嗚咽まじりに名を連呼した。

 彼女という温もりを知った今、ひたすら孤独だった昔にはもう戻れない。

 ……頼むから、目を覚ましてくれ。

 お前が望むことがあれば何だって叶えてやるから、だからっ。


 その時、ふと誰かの手が髪を緩やかに撫でつけた気がして、俺は信じられない思いで身を起こした。


「っアミ!?」


「マ……サ……泣か……ない……で……。

 大丈……夫……あみ……ずうっと……そばに……いる……よ」


 かすれる声でそう言ったアミは小さく笑み、ぎこちない動きで再び俺の髪を撫でてくる。

 都合の良い夢でも見ているのだろうか。

 ……だが、もうそれでも構わない。

 俺は彼女に縋りついて、一晩中無様に嗚咽を漏らし続けた。




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