第十話~ズレ~
顔を醜く歪ませたヴェルスは、私を睨み、これ見よがしに歯ぎしりをする。
「このアマ……恥かかせてくれやがって」
次の瞬間。ガッという音がしたかと思うと、私の首を掴もうとするヴェルスの右手が目の前に迫っていた。
だが、それは私に触れる直前で止められている。
ヴェルスの手首を掴んでいる見慣れた大きな手を見て、私は安堵の息をついた。
「……貴様、何をしている」
いつもより数段迫力のある、地を這うようなマサの声が響く。
息をついたのも束の間、自分に向けられていないはずの彼の敵意に中てられて、私は身体を強張らせた。
だが、当のヴェルスはそれに怯まず、ふてぶてしく笑い惚けた態度を見せる。
「別に何もしてねぇけど?」
「……なら、この手は何だ」
「さぁ?」
ギリ、とマサの手に力が入り、ヴェルスは痛みに顔を顰めた。
一段と張り詰める空気に冷や汗が流れる。
ヴェルスの頭を空いている方の手でガシリと掴んで捻り、無理やり自分と視線を合わせたマサは、皮肉気な笑みを浮かべて唸るような声を出した。
「っざけてんじゃねぇぞ、若造ぉ。
俺の噂ぁ、知らねぇワケじゃねぇんだろう?
今回は見逃してやるが……2度目はねぇ。
分かったら、とっとと消えやがれ」
顔を無表情に変えたマサがそう言って手を放すと、若干青褪めたヴェルスはチッとひとつ舌打ちをして身を翻し、足早に去って行った。
その姿が見えなくなると、マサは私の前に膝をつき、先ほどとは打って変わって心配そうに眉尻を下げる。
「アミ、大丈夫だったか?
スマン。俺が目を離したばかりに……」
……あぁ、いつもの彼だ。
それに安心した私は、深く息を吐いて緊張した身体を解した。
「うん、大丈夫。助けてくれて、ありがとう」
「……そうか。無事で良かった」
特に何もなかったことを悟って、マサも表情を緩める。
「でも、マサ。さっきの台詞……」
そう話しかけると、マサは途端にその大きな身体をビクリと跳ねさせた。
何かを恐れるような彼の仕草を不思議に思いつつも、私は続けて口を開く。
「ヴェルス相手に若造だなんて、マサだってまだ20代でしょうに」
「っそこかよ」
私の言葉に即座に反応してみせたマサは、脱力したように項垂れて深く息を吐いていた。
しかし、人前であんな振る舞いをさせてしまったから、彼の言っていた噂ってやつがまた増えてしまいそうだねぇ。
悪いことしたなぁ。
いや、1番悪いのは絡んできたアイツの頭なわけですけどもねっ。
~~~~~~~~~~
気を取り直してギルドでの用事を済ませた私たちは、これまたマサの馴染みだという食堂のカウンターで注文表を眺めていた。
店内はイスが5つ並んだカウンター席に、4人掛けのテーブル席が1つと、至極こぢんまりした作りになっている。
昼食時を少し過ぎた今の時間、私たちの他にお客はいないようだった。
この食堂の主は身長210センチほどのこげ茶色の体毛を持つ牛の亜人で、その姿はまさに伝説のミノタウロスといった風情だ。
名前をヤシュロッツと言い、マサは彼のことをヤスと呼んでいた。
古いゲームの殺人犯のような縁起の悪い愛称だ。
本人の談によれば、年齢は39歳で独身とのこと。
冗談が好きなタイプのようで、私を口説いてマサに小突かれていた。
路地裏のお店なので繁盛はあまりしていないけれど、腕は確からしい。
「ヤスさん。このお店はお米を使った料理ってありますか?
もしくは、味噌やお醤油を使った料理とか」
「……米ぇ?
ないない。そりゃ、もっと東の国に行かんと無理だろ。
ま、どうしてもってんなら、王都に行きゃあ売ってねぇこともないだろうぜ。
スッゲェ高値がついてるとは思うがよ」
「そうですか」
日本食に近いものは、この国では扱っていないらしい。
少し落ち込んでいると、隣で会話を聞いていたマサが話しかけて来た。
「何だ? アミは米を食いたいのか?」
「ん。えっと、私の住んでいた所では、パンよりもお米の方が主に食べられていたの。
だから、ちょっと故郷の味が懐かしくなっちゃったというか」
「そうか。じゃあ、次は米を買いに王都へ行くか」
「えぇ!? 何言ってるのマサ、そんなお金の勿体ない!」
偽らず本音を漏らせば、すぐにそれを叶えようとしてくるマサに抗議する。
いくら目的地のある旅ではないとはいえ、軽率すぎじゃあないだろうか。
「東の国に行けば良いじゃない。
それまで食べられなくたって別に大丈夫よ?」
「……アミは金の心配なんかしなくて良い。
元々、王都には行く予定だったんだ。
俺も米ってヤツに興味が出たし、ついでに買うのも悪くねぇだろう」
「でもっ」
「まぁまぁ。いいじゃねぇの、アミちゃん。
いい女は貢がせてナンボってな! グハハハ!」
結局、ヤスの意味不明な押しもあって、お米を買うために王都へ向かうことになった。
旅に掛かった費用はいずれ全額返済する予定だから、あまり無駄使いして欲しくないのに……。
初めに返すと口にした以上、それを違えるのは私の主義に反する。
最終的にどれだけ受け取り拒否されようと、無理やりにでも押し付けるつもりだ。
そんな私の考えを知るはずもないマサは、楽しみだな等と言いつつ運ばれたヤスの料理に口をつけている。
私はそれを横目に僅かに肩を落として、気付かれない程度に小さく息を吐き出したのだった。
ちなみに、私が注文したのは『ロールパン』『香草のサラダ』『川魚の塩焼き』『鶏ガラだしの野菜スープ』の4品だ。
久しぶりのマトモな食事だという理由もあるだろうが、それは繊細な味のとても美味しい料理だった。
色彩を考慮した上品な盛り付けは、ヤスのおちゃらけた言動からは想像もつかない。
……人は見かけによらない、とは良く言ったものだと思った。
その後は、町の商業区で旅に必要と思われる物を色々と購入して回った。
店に入るたび、露店を覗くたびにマサの容姿のおかげで一苦労あったのだけれど、それはもう仕様だと思って諦めることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ヴェルスがアミの首に向かって手を伸ばしたので、それが彼女に届く前に掴み止めた。
およそアミに反応できるはずもない速度で行動を起こしたところに、この男の本性が垣間見える。
牽制の意味も込めて、少しばかり殺気を含ませてヴェルスに声をかけた。
だが、返ってきたのは嘲りを含んだ笑いとふざけた答え。
アミを傷つけようとしておいて全く悪びれもしないヴェルスの態度に、久しく忘れかけていた怒りという感情が胸の奥底からフツフツと湧いてきた。
か弱い女をいたぶる為に使われる手など、いっそ無い方がスッキリするんじゃないか?
そんな物騒な考えが頭をよぎり、己でも意識しない内にヴェルスを掴む手に力がこもる。
しかし、視界の端に血の気の引いた顔をしているアミを捉えたことで、自分のやろうとしている行為に気が付いた。
無闇に人を傷つけまいと固く誓ったはずが、これしきの煽りで破りかけるとは、何という体たらく……。
とは言え、このまま帰して再びアミにちょっかいを掛けられでもしたら、今度こそ怒りに飲まれて一方的な暴力をふるってしまうかもしれない。
そう思った俺は、自身の顔とそこから発生した根も葉もない非道な噂を利用してヴェルスに釘を刺しておくことにした。
これで懲りてくれたのなら良いが……。
去り際に聞こえた奴の舌打ちがやけに長く耳に残った。
それから俺は、アミがヴェルスにどこかしら傷つけられてはいないか確認しようと膝をつく。
同時にアミ自身にも問いかけてみたが、どうやら怪我はなかったらしい。
しかし、常に大人しく周囲に気を使ってばかりの優しいアミが、たった数分で奴に殺気を出させるほどの何をしたというのだろうか。
とてもじゃないが、想像がつかない。
それとも、その大人しさが逆に気に食わなかったのか?
何と傲慢な奴だ。
そんなことを考えていると、今度はアミの方から俺に話しかけて来た。
……さっきの台詞?
って! あぁぁ!
アミの前で何て姿を見せてしまったんだ、俺は!
怖がられたのか? 恐れられたのか?
怯えられたのか? 嫌われたのか?
そもそも、アミは何について話すつもりなんだ。
事実無根の残虐な噂の数々についてか?
それとも、2度目はないなどという悪辣な物言いのことか?
ダメだ。
どこをどう聞かれても上手く弁解できる気がしない。
くそっ、どうすればいいんだ!
「ヴェルス相手に若造だなんて、マサだってまだ20代でしょうに」
焦りが頂点に達していたところに心底どうでもいい言葉をかけられて、反射的に本音が口をついていた。
その後、脱力し傾いでいく身体を引き留める気力は、もう俺の中に残っていなかった。
~~~~~~~~~~
ギルドを出て、俺たちは遅い昼食にありつくため、昔馴染みのしょぼくれた食堂を訪れた。
「いらっしゃぎゃぁあああああぁぁああぁぁぁ……ぁ…………マサ?」
「……よう」
「ぉおおっ! 何だ、マサじゃねぇか!
久しぶりだな! というか驚かすんじゃねぇよ!」
「お前が勝手に驚いたんだろうが」
厨房から顔を出した途端、1人騒ぎ出すヤス。
相変わらずウルサイ奴だ。
俺はそれを半ば無視するようにして、アミをカウンター席へ促した。
「うぉ! 何だ、その小さいの!
ひょっとしてマサの嫁か!? そうなのか!?
よもや俺はマサに先を越されてしまったというのか!?
なんてこったぁーッ!」
「楽しそうに勘違いしてるとこ悪いが、嫁じゃねぇぞ。
アミ、これがメニューだ。好きなものを頼め」
「あ、うん」
「何だ違うのかよ!
じゃあ、アミちゃん! 俺どう、俺、嫁に来ねぇ?
いやぁ~、小さくて庇護欲をそそられ……ごふぁっ!?」
調子に乗ってアミの肩を抱こうとしたので、軽く殴り飛ばしておいた。
全く油断も隙もない牛野郎だ。誰が貴様なんぞにアミを渡すか。
長らくギャーギャーと姦しかったが、注文をすれば、ヤスは不満気にしつつも大人しくカウンター向こうの厨房へ引っ込んでいった。
こいつは料理をしている時だけは静かなんだ。
落ち着いたところで、アミにヤスの事を簡単に話しておく。
アレで腕は確かだと言うと、彼女はそれは楽しみですねと微笑んだ。
……何となく面白くないな。
その後の会話でアミの欲する物を知り、都合良く王都へ向かう理由が出来た。
米と味噌と醤油……か。
東の国に赴いたこともあるが、わざわざ食べはしなかったな。
しかし、米を日常的に食べていたとなると、彼女はそちらの方の出身かもしれない。
黒髪黒目という特徴から、西の国から来たのではと思っていたが、どうも違うようだ。
アミは自分の話をあまりしたがらず、俺は未だに彼女の生れがどこなのかを知らなかった。
まぁ、故郷を捨てるとまで言っていたのだから、黙秘するにはそれなりの理由があるのだろう。
それにしても、ようやくアミに何か買い与えることが出来そうだと、俺はここに来て初めてヤスという存在に感謝したのだった。
食後に商業区を回ったのだが、アミが積極的に混乱の収拾に努めてくれたおかげで、いつもより数段楽に物を買うことが出来た。
実はアミは意外と値切り上手だったようで、商人と交渉をしている時の彼女はいつになく生き生きとしていた。
得をしたと満面の笑みを浮かべるアミはとても大人には見えず、無邪気で可愛らしいと思う。
が、売り物をかなりの安値で買い叩かれ燃え尽きたように項垂れる商人達を、他人事ながら哀れに思わずにはいられなかった。
知れば知るほど、確実にアミのことが分からなくなっていっている……。
いつか俺が彼女の思考を完全に理解できる日はやって来るのだろうか。