言い切る前の路地
雲の波が上から落ちてくる路地に入った。空は見えているのに、見上げた先から白いものが折り畳まれて降りてくる。雨粒ではなく、面が滑って落ちる。肩に当たると重さが遅れてきて、冷たさが皮膚をすり抜け、髪ではなく頭の内側の薄い膜だけが湿る。髪は乾いたまま、指で梳いても引っかからないのに、額の奥が濡れたように鈍く光る。
路地は狭く、両側の壁が近い。金属のシャッターに雲の波の白さが反射して、光が角ばっている。濡れたのは表面だけだと、目がそう言う。鼻には石鹸の匂いが薄く漂い、下水の匂いと混ざらない。温度は低い。足元の水たまりに雲が落ちると、平たい音がして、波が一枚ずつ沈む。
額を拭うための布を持っていなかった。ポケットから出した紙のレシートで額をこすった。紙がすぐにしなる。指先に白いものがついた。泡だ。石鹸の泡のように丸く、粒が揃っていて、表面だけが虹色に歪む。泡は指に絡むのではなく、指の腹に座っている。軽いのに、落ちる気配がない。
もう一度こすると、泡が増えた。泡の中に薄い線が走っていて、線は言葉の途中のように途切れている。紙を額から離すと、離れた距離のぶんだけ額の内側の湿りが引きずられ、遅れて戻ってくる。風が吹いたのに髪が揺れないのが気持ち悪い。泡だけが微かに揺れる。
路地の奥から靴音が来た。乾いた靴底が濡れた石を踏む音。女が一人、壁に肩を擦りながら歩いてくる。上着の袖口が濡れている。髪は整っているのに、額だけが湿って見える。彼女も自分の額を拭っていた。指に泡が乗り、爪の先にひと粒ぶら下がっている。
「濡れたのは、言い切る前の部分だ」
声は彼女の口から出たが、彼女の視線は私の泡を見ていない。路地の高い位置、雲が折り畳まれて落ちるところの、端の影だけを追っていた。私は返事を探して口を開けたが、舌の先が乾いて、音が出る前に閉じた。泡が指先で膨らんで、皮膚に冷たさが残る。
彼女は腰のポーチから小さな瓶を取り出した。透明なガラスで、口が広い。瓶の底には白い泡がいくつも積もっている。積もっているのに潰れず、互いに押し合って形を保っている。瓶を傾けても泡は流れない。彼女は自分の指先の泡を瓶の口にそっと当てた。泡が瓶に移る瞬間、空気が一度だけ薄く鳴った。
路地の壁際に、濡れた人が何人かいた。誰も傘を差していない。額を拭う動作だけが揃っている。布、紙、袖、掌。拭うたびに泡が出て、指に残り、瓶や袋に集められる。泡は軽いはずなのに、集まった泡の容器は手の甲が沈むほど重い。重さは温度と一緒に伝わり、掌がじんと痺れる。
頭上の雲の波が一枚落ちるたび、路地の音が少しだけ鈍くなる。遠くの車の音が角を失い、壁の反射が柔らかくなる。代わりに、水たまりの表面が「ざぶ」と呼吸する。私の耳の奥でも同じ音がして、耳が内側から濡れていく気がした。泡の表面の虹色が、波の落ちるリズムに合わせて揺れる。
彼女が瓶を私に差し出した。私は断る言葉を持っていなかった。瓶を受け取ると、冷えたガラスが指の骨に触れた。私は指先の泡を瓶の口に運んだ。泡が口に触れた瞬間、泡の中の線が一度だけ伸びて、そこで止まった。止まった線は読めない。泡は瓶の中に落ちるのではなく、そこに座った。
足元の水たまりに、上から落ちた雲の波が張り付いている。白い膜が水の表面に浮き、街灯の色を吸って薄く青い。私はしゃがんで、膜の端を指で触った。触った瞬間、指先に湿りが移り、額の内側がきゅっと締まった。濡れているのに冷たくなく、冷たいのに痛くない。指にまた泡が出た。泡はさっきより大きい。
泡を指でつまむと、指と指の間で弾力があった。潰そうとしても潰れない。表面が張って、内側の空気が別の密度を持っている。泡を目の高さに上げると、泡の中に路地が映り、映った路地が少し遅れて動く。映像の中の私が先に瞬きをしてから、現実の瞼が降りる。私の額の内側が、その遅れに合わせて湿る。
泡の中で、細い線が増えていった。線は束になって、口の形に似た影を作る。影は言葉を形にしそうで、しない。私は息を止めた。息が喉に溜まり、肩が硬くなる。泡の表面に小さな凹みができ、凹みが一度だけ「ぱち」と鳴った。
その瞬間、空から笑い声だけが落ちてきた。声は上から下へ移動する速度を持っている。石が落ちるときの軌跡のように、音が空気を押し分けて、路地の真ん中に着地する。着地のところで、靴底が擦れたような音が混ざり、笑いは転がる。私は反射的に両手を出した。手のひらに音が当たり、温かい。重みがあるのに形がない。
笑いは掌の皺の間をすり抜け、指の付け根に溜まって、そこから床に落ちた。落ちた笑いが水たまりの膜を叩き、白い膜が一瞬だけ震える。震えが止まる前に、路地の奥から短い声が飛んだ。
「黙れ、波が聞こえる」
誰が言ったのか見えない。声だけが壁に触れて戻り、戻った声が少し低くなって足元で消えた。黙れと言われて、私は口の中の息を逃がした。逃げた息が冷たい。耳の奥の波の音がはっきりして、下水の暗い穴からも同じ音が上がってくる。雲の波が落ちるたび、下からも波が返ってくる。
彼女は瓶を抱えて壁際に寄り、笑いが転がった方向を見ていない。瓶の中の泡だけを見ている。泡が一つ、瓶の内側でふくらんで、瓶の口に向かって上がってくる。彼女は慌てずに蓋を開け、泡が口に触れた瞬間に布を被せた。布が湿り、布越しに泡が「すっ」と引っ込む。布の繊維に、白い粉のようなものが残った。
私は手のひらの皺を指でなぞった。さっき笑いが溜まった場所が、わずかに熱い。熱さの中心に、小さな泡が一粒できていた。泡は肌色に近い透明で、表面に虹がなく、静かだ。私はそれを瓶に入れるべきか迷ったが、迷いの形が指先に出ない。泡はただそこにある。
雲の波がまた落ちた。路地の光が一段暗くなり、壁の反射が遠くなる。水たまりの膜が私の靴に触れた。触れた瞬間、靴底に濡れが来るのではなく、足の裏の感覚が先に湿る。私は一歩踏み出してしまった。踏んだ足の裏から、泡がじわっと湧き、靴の中で弾ける音がした。弾けたはずなのに、笑い声は落ちてこない。
代わりに、下水の穴から波の音が膨らみ、路地の壁を舐めて上がってきた。音は湿った風を伴い、石鹸の匂いが少し濃くなる。私は瓶を握り直し、口を閉めた。瓶の中の泡が一斉にわずかに揺れ、揺れが止まる前に、頭の内側の薄い膜がもう一度濡れた。
振り向くと、彼女も他の濡れた人たちも、同じ動作で額を拭っている。雲の波は落ち続け、路地は狭いまま、距離だけが伸びたように見える。私は手のひらの小さな泡をつぶさないように握り、波の音に足を合わせて歩いた。水たまりの膜が靴底に張り付き、白い面が剥がれるたび、どこかで笑い声が落ちた気配だけがして、拾えないまま下へ滑っていった。
雲の波が落ちる路地の手触りを、最後まで平坦な速度で運ぶことを優先しました。筋の「納得」より、濡れ方の順序や、拭う/移す/蓋をする、といった手つきの正確さが先に立つようにしています。
書いている間、意識していたのは光源と反射でした。上から落ちる白さが、壁や水たまりでどう鈍るか、虹色がどう揺れるか、音がどう「着地」するか。読者が路地の幅や足場を失わずに歩けるよう、距離と温度と重さだけは外さないように置きました。
会話は説明のために使わず、言葉そのものが異物として残るようにしています。短い台詞が空気に引っかかって、後から耳の中で反復する。その反復が場面転換の継ぎ目になれば十分で、意味を回収する必要はない、という態度で書いています。
泡や笑い声について「何か」を言い切ることは、この作品では避けました。もし読後に、触れた感触や湿り気、手順の記憶だけが残って、そこから先を勝手に考えてしまうなら、それがこの一話の終わり方としては自然だと思っています。
読んでくださってありがとうございました。




