Distortion
スモークガラス越しの、冷たい静寂。
眼下には、広大なラボの最奥で青白い光を放つ第零研究室が、まるで深海に沈む檻のように見える。
泉唯零はガラス越しに階下を見下ろし、インカムに細い指を添える。
その背後、革張りのソファには深々と腰掛けている戒能統吾の姿があった。
泉 :「――伊藤。聞こえているかしら。」
ラボに冷ややかな声が響き渡る。
泉の声は、指向性スピーカーを通じて、第零研究室内部だけに届けられる。
蒼吟: 「うおっ!? い、泉監査官!」
蒼吟が慌てて天井カメラを見上げる。
泉 :「出力設定値が、安全規定を0.8ポイント超過しているわ。昨日の事前申請にはなかった数値よ。説明なさい。」
蒼吟:(通信) 『あ、いえ! これはその、直前のシミュレーションで先輩が……いや、チーフが再計算を行いまして! 干渉精度を上げるためには、この臨界ギリギリのラインが必要だと……』
泉: 「チーフの判断は絶対、というわけね。万が一、炉心が暴走したら、あなたたちごと区画をパージ(切り離し)することになるわよ。」
蒼吟:(通信) 『だ、大丈夫です! 先輩の計算にミスはありません。僕が全身全霊で制御しますから!』
泉は小さく鼻を鳴らし、インカムを切った。
蒼吟のこの「盲信」こそが、彼を優秀な助手たらしめ、同時に最も扱いやすい駒にしている理由だ。
戒能: 「……構わんよ、唯零。やらせてみたまえ。」
戒能が口を挟む。
泉: 「ですが長官、これ以上の負荷は……」
戒能 :「結城の『愛』がどこまで物理法則を歪められるか。私はその限界値が見たいのだ。」
泉 :「……承知いたしました。」
泉は一瞬だけ複雑な表情を見せたが、すぐに無表情に戻り、再びインカムを入れた。
泉: 「……承認するわ。実験を開始しなさい。ただし、警告値を超えた瞬間に強制停止する。いいわね?」
蒼吟:(通信) 『了解ッ! 全システム・グリーン!』
戒能が泉に語りかける。
戒能:「結城はどうだ…」
泉: 「……結城チーフの精神数値、危険域で安定しています。感情の抑制は機能していますが、執着心だけが異常な突出を見せています。」
戒能 :「素晴らしいな。愛を燃料に燃え続ける永久機関か。」
戒能は愉悦に目を細め、手元の端末で五百旗頭博士からの「警告メール」を無造作に削除した。
件名は『干渉実験の即時凍結要請』。
戒能: 「老いたな。……これからの時代に必要なのは、ブレーキではなくアクセルだ…」
ラボ中央の巨大な円環装置が、重低音と共に回転を始める。
律の瞳に、モニターの青い光が反射している。
律は、上層部の会話など意に介さず、ただ目の前の「裂け目」を見据えていた。
蒼吟: 「全回路、接続。干渉パルス充填率120%。……先輩、行きますよ?」
律 :「ああ。……パルス照射。シークエンス、スタート。」
律がキーを叩く。
ドゥゥゥゥゥゥン……!
重低音が響き、空間が歪む。
爆発ではない。
世界という織物の「目」が、無理やり引き伸ばされるような不快な感覚。
モニターの数値が、物理法則を無視した挙動を示す。
律 :「……ぐっ!?」
蒼吟: 「うおっ、すげぇ揺れ……! 次元圧力が跳ね上がってます!」
律 :(……なんだ? この手応えは……。いつもの壁打ちじゃない。何かが……向こう側で『受け止めた』ような……?)
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。
律の視界が一瞬ホワイトアウトした。
蒼吟 :「先輩!? バイタルが乱れてます! 大丈夫ですか!?」
律 :「……問題ない。続けろ……!」
律は脂汗を流しながら耐える。
世界が、軋み音を立ててズレていく。
実験終了後。
律はふらつく足取りでラボを出て、全面ガラス張りの廊下を歩いていた。
眼下には、見慣れた東京の風景が広がっている。
律は自販機で水を買おうとして、ふと手を止めた。
窓の外。
クロノス本社の敷地内にある広場。
そこには、巨大な銀色のモニュメントが立っていた。
律 :「…………なんだ、あれは?」
ねじれた時計の針を模したような、前衛的なオブジェだ。
律は眉をひそめる。…あんなものあったか?
通りかかった清掃ロボットが、何事もなくモニュメントの周りを掃除している。
社員たちも、まるでそれが何年も前からそこにあったかのように、その横を通り過ぎていく。
律 :(……僕の記憶違いか? いや、僕の海馬はディサイシブと直結している。記憶のエラーはあり得ない)
律はガラスに手を突き、眼下の風景を凝視する。
風景は整合性を保っている。
だが、律の中の感覚だけが、微かな悲鳴を上げている。
まるで、ジグソーパズルのピースが、無理やり別の絵柄にはめ込まれたような違和感。
蒼吟 :「先輩! お疲れ様です! いやー今日の実験、凄かったっすね!」
追いついてきた蒼吟が、興奮気味に律の横に並ぶ。
律 :「……蒼吟。あのモニュメントは、いつからある?」
蒼吟 :「え? モニュメント? ……ああ、あの創業の碑ですか?」
蒼吟はキョトンとして、窓の外を見た。
蒼吟 :「何言ってるんですか先輩。あれ、クロノスが設立された10年前からあるじゃないですか。シンボルですよ、シンボル。」
律: 「……10年前?」
蒼吟 :「はい。ほら、先輩も入社式の時にあそこで写真撮ったでしょ? データありますよ。」
蒼吟が空中にホログラム写真を展開する。
律の背筋が凍りついた。
そこには、6年前の入社式の日。
まだ希望に満ちた顔をした律と、隣で微笑む月凪が、その銀色のモニュメントの前で並んで写っていた。
律 :(……そんな馬鹿な。あの場所は、ただの噴水だったはずだ。僕の記憶が……間違っているのか?)
律は写真の中の、今は亡き月凪の笑顔を見つめる。
写真は真実を語っている。
だが、律の「感覚」だけが、世界全体の嘘を叫んでいた。
律 :「……そうか。疲れているようだ…」
蒼吟 :「もー、働きすぎですよ! 今日はもう休んでくださいって。先輩が倒れたら、誰が世界を救うんですか。」
蒼吟は屈託なく笑う。
――世界が変わった。
そして、それに気づきはじめているのは、この世界でたった一人、僕だけだ。
12年前のオントロジカル・ショック、58年の実証から始まったこの世界の歪みは、今、律の目の前で決定的な亀裂となっていた。




