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クロノスバタフライエフェクト  作者: 研G


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8/12

Distortion

スモークガラス越しの、冷たい静寂。


眼下には、広大なラボの最奥で青白い光を放つ第零研究室が、まるで深海に沈む檻のように見える。


泉唯零はガラス越しに階下を見下ろし、インカムに細い指を添える。


その背後、革張りのソファには深々と腰掛けている戒能統吾の姿があった。


泉 :「――伊藤。聞こえているかしら。」


ラボに冷ややかな声が響き渡る。


泉の声は、指向性スピーカーを通じて、第零研究室内部だけに届けられる。


蒼吟: 「うおっ!? い、泉監査官!」 


蒼吟が慌てて天井カメラを見上げる。


泉 :「出力設定値が、安全規定セーフティを0.8ポイント超過しているわ。昨日の事前申請にはなかった数値よ。説明なさい。」


蒼吟:(通信) 『あ、いえ! これはその、直前のシミュレーションで先輩が……いや、チーフが再計算を行いまして! 干渉精度を上げるためには、この臨界ギリギリのラインが必要だと……』


泉: 「チーフの判断は絶対、というわけね。万が一、炉心が暴走したら、あなたたちごと区画をパージ(切り離し)することになるわよ。」


蒼吟:(通信) 『だ、大丈夫です! 先輩の計算にミスはありません。僕が全身全霊で制御サポートしますから!』


泉は小さく鼻を鳴らし、インカムを切った。  


蒼吟のこの「盲信」こそが、彼を優秀な助手たらしめ、同時に最も扱いやすい駒にしている理由だ。


戒能: 「……構わんよ、唯零。やらせてみたまえ。」


戒能が口を挟む。


泉: 「ですが長官、これ以上の負荷は……」


戒能 :「結城の『愛』がどこまで物理法則を歪められるか。私はその限界値クリティカル・ポイントが見たいのだ。」


泉 :「……承知いたしました。」


泉は一瞬だけ複雑な表情を見せたが、すぐに無表情に戻り、再びインカムを入れた。


泉: 「……承認するわ。実験を開始しなさい。ただし、警告値を超えた瞬間に強制停止する。いいわね?」


蒼吟:(通信) 『了解ッ! 全システム・グリーン!』


戒能が泉に語りかける。


戒能:「結城はどうだ…」


泉: 「……結城チーフの精神数値メンタル・パラメータ、危険域で安定しています。感情の抑制は機能していますが、執着心だけが異常な突出を見せています。」


戒能 :「素晴らしいな。愛を燃料に燃え続ける永久機関か。」


戒能は愉悦に目を細め、手元の端末で五百旗頭博士からの「警告メール」を無造作に削除した。  


件名は『干渉実験の即時凍結要請』。


戒能: 「老いたな。……これからの時代に必要なのは、ブレーキではなくアクセルだ…」


ラボ中央の巨大な円環装置が、重低音と共に回転を始める。  


律の瞳に、モニターの青い光が反射している。


律は、上層部の会話など意に介さず、ただ目の前の「裂け目」を見据えていた。


蒼吟: 「全回路、接続コネクト。干渉パルス充填率120%。……先輩、行きますよ?」


律 :「ああ。……パルス照射。シークエンス、スタート。」


律がキーを叩く。


ドゥゥゥゥゥゥン……!


重低音が響き、空間が歪む。  


爆発ではない。


世界という織物の「目」が、無理やり引き伸ばされるような不快な感覚。  


モニターの数値が、物理法則を無視した挙動を示す。


律 :「……ぐっ!?」


蒼吟: 「うおっ、すげぇ揺れ……! 次元圧力が跳ね上がってます!」


律 :(……なんだ? この手応えは……。いつもの壁打ちじゃない。何かが……向こう側で『受け止めた』ような……?)


心臓を鷲掴みにされたような衝撃。  


律の視界が一瞬ホワイトアウトした。


蒼吟 :「先輩!? バイタルが乱れてます! 大丈夫ですか!?」


律 :「……問題ない。続けろ……!」


律は脂汗を流しながら耐える。  


世界が、軋み音を立ててズレていく。



実験終了後。  


律はふらつく足取りでラボを出て、全面ガラス張りの廊下を歩いていた。  


眼下には、見慣れた東京の風景が広がっている。


律は自販機で水を買おうとして、ふと手を止めた。


窓の外。  


クロノス本社の敷地内にある広場。  


そこには、巨大な銀色のモニュメントが立っていた。  


律 :「…………なんだ、あれは?」


ねじれた時計の針を模したような、前衛的なオブジェだ。


律は眉をひそめる。…あんなものあったか?


通りかかった清掃ロボットが、何事もなくモニュメントの周りを掃除している。  


社員たちも、まるでそれが何年も前からそこにあったかのように、その横を通り過ぎていく。


律 :(……僕の記憶違いか? いや、僕の海馬はディサイシブと直結している。記憶のエラーはあり得ない)


律はガラスに手を突き、眼下の風景を凝視する。  


風景は整合性を保っている。


だが、律の中の感覚だけが、微かな悲鳴を上げている。    


まるで、ジグソーパズルのピースが、無理やり別の絵柄にはめ込まれたような違和感。


蒼吟 :「先輩! お疲れ様です! いやー今日の実験、凄かったっすね!」


追いついてきた蒼吟が、興奮気味に律の横に並ぶ。


律 :「……蒼吟。あのモニュメントは、いつからある?」


蒼吟 :「え? モニュメント? ……ああ、あの創業の碑ですか?」


蒼吟はキョトンとして、窓の外を見た。


蒼吟 :「何言ってるんですか先輩。あれ、クロノスが設立された10年前からあるじゃないですか。シンボルですよ、シンボル。」


律: 「……10年前?」


蒼吟 :「はい。ほら、先輩も入社式の時にあそこで写真撮ったでしょ? データありますよ。」


蒼吟が空中にホログラム写真を展開する。  


律の背筋が凍りついた。


そこには、6年前の入社式の日。  


まだ希望に満ちた顔をした律と、隣で微笑む月凪が、その銀色のモニュメントの前で並んで写っていた。


律 :(……そんな馬鹿な。あの場所は、ただの噴水だったはずだ。僕の記憶が……間違っているのか?)


律は写真の中の、今は亡き月凪の笑顔を見つめる。  


写真は真実を語っている。  


だが、律の「感覚」だけが、世界全体の嘘を叫んでいた。


律 :「……そうか。疲れているようだ…」


蒼吟 :「もー、働きすぎですよ! 今日はもう休んでくださいって。先輩が倒れたら、誰が世界を救うんですか。」


蒼吟は屈託なく笑う。  


――世界が変わった。  


そして、それに気づきはじめているのは、この世界でたった一人、僕だけだ。


12年前のオントロジカル・ショック、58年の実証から始まったこの世界の歪みは、今、律の目の前で決定的な亀裂となっていた。


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