Blind Faith
鉛色の雲が低く垂れ込める東京。
行き交う人々は皆、どこか疲れ切った顔で足早に歩いている。
ビルの壁面に浮かぶ巨大なホログラムビジョン。
その光だけが、薄暗い街を鮮やかに、そして無機質に照らしていた。
キャスター:(TV) 「……五百旗頭修一郎博士による多世界解釈の実証、いわゆる58年の実証から12年。この発見は私たちの科学観を根底から覆しました。」
画面には、12年前のアーカイブ映像――五百旗頭博士が、データを開示する歴史的瞬間が映し出される。
キャスター:(TV) 「当時のシミュレーションで確定した人類滅亡への不可逆点。その絶望を回避するため、各国政府が並行世界の存在を公表したあの日……世界中を駆け巡った存在論的ショック(オントロジカル・ショック)の傷跡は、今も私たちの心に深く刻まれています…」
信号待ちをするサラリーマンや学生たち。
ニュース音声は、ただの環境音(BGM)として消費されている。
キャスター:(TV) 「……世界資源評議会は本日、第4期エネルギー配給制限の延長を決定しました。これにより、一般家庭への電力供給はさらに15%カットされ、夜間のスマートグリッド制限が強化されます…」
「異常気象」という物理的な脅威に加え、「資源枯渇」と「精神の摩耗」が社会を蝕んでいる。
キャスター:(TV) 「クロノス・インダストリー広報部は、物質転送は理論上不可能であり、現在行われているのはあくまで観測による災害予知であるとの見解を改めて強調し……」
他のモニターでは、メンタルクリニックの広告が表示される。
テロップ :『その焦燥感は、あなたのせいではありません。「並行世界乖離症候群」の相談急増中』 『隣の世界の幸福を覗くのはやめましょう。今、ここにある現実を愛するために――政府推奨カウンセリング』
そんな荒廃した空気の中、クロノス・インダストリーの巨塔だけが、潤沢なエネルギーの光を放って君臨していた。
クロノス・インダストリー最上層、MIPラボ。
そこは、巨大な神殿を思わせるドーム状の高い天井を持つ、広大な空間だった。
数名の研究員たちが、忙しなく行き交う電子音と怒号の中で働いている。
ジマーマン「おい、第4区画の予測演算、遅れてるぞ!」
ベッカー 「分かってる! でもメインサーバーのリソースが食われてるんだよ! ……またゼロが吸い上げてる…」
ベッカーが忌々しげにフロアの最奥を睨む。
そこには、分厚い防弾ガラスで隔絶された、薄暗い個室が鎮座していた。
MIP Lab : Section 0 第零研究室
広大なフロアの中で、そこだけが深海のように静まり返っている。
ガラスの向こう、青白いモニター光に照らされた結城律の横顔は、同じ人間とは思えないほど冷たく、美しい。
その背後で、伊藤蒼吟だけが甲斐甲斐しく動いているのが見える。
デイビス 「……チーフ。また一段と顔色が悪いな…」
デイビスは嘆息し、ふと気配を感じて遥か頭上、後方の壁を見上げた。
高い天井のその近く。
壁面から張り出すように設置された、スモークガラス張りの指令室。
そこから、二つの影が冷ややかに自分たち――そして奥のゼロを見下ろしている。
ベッカー 「……見ろよ。今日も神様たちがご観覧だ。」
彼らは下で働くしかない。
奥には戻らない上司がいて、「上」には絶対的な支配者がいる。
このラボの構造そのものが、残酷なヒエラルキーを体現していた。
青白く光る第零研究室。
無数のモニターが並び、電子音と冷却ファンの低い唸りだけが響く。
その中央で、結城律は、モニターの光に顔を青白く照らされながら、超高速でコードを走らせている。
目の下の隈。
伸びた髪。
かつての爽やかさは消え、研ぎ澄まされた刃物のような危うさを纏っている。
そこへ、明るい足音が近づく。
蒼吟: 「先輩! お疲れ様です! 本日も人類の未来のための演算、ご苦労様です!」
蒼吟が、屈託のない笑顔で律のデスクにマグカップを置く。
蒼吟: 「これ、深煎りのナノコーヒーです。カフェイン増量、疲労回復成分マシマシでやっときましたよ。」
律 :「……ああ。ありがとう、蒼吟。」
律は画面から目を離さずにカップへ手を伸ばす。
その指先には、人間的な温かみが欠けている。
蒼吟: 「にしても先輩、その処理速度えげつないですね……。五百旗頭博士が提唱した第4次量子干渉理論、僕も昨日ようやく論文読み終えましたけど、先輩もう実用レベルまでコード組んでるじゃないですか。」
蒼吟がモニターを覗き込み、感嘆のため息をつく。
壁面には、五百旗頭修一郎の肖像が入った科学賞のポスターが飾られている。
このラボにおいて、博士の理論は絶対的な経典だ。
律 :「……僕たちがやるのは、その理論を現実という泥沼で機能させることだ…」
蒼吟 :「さすがっす。いやー、僕も一生ついていきますよ。先輩がいれば、マジで世界救える気がしてくるんだよなぁ」
蒼吟は純粋な尊敬の眼差しを向ける。
律は一瞬だけ手を止め、カップの黒い液体を見つめた。
律 :「……世界なんてどうでもいい…」
蒼吟 :「え?」
律 :「なんでもない。……次のシークエンスだ。準備しろ。」
律は蒼吟の返事も待たず、再びモニターへと向き直る。
超高速で走るコードの羅列。
その青白い光だけが、律の瞳の奥に宿る、冷たく鋭い光彩を映し出している。
彼の背中からは、他者を一切寄せ付けない、絶対的な孤独と執着が立ち昇っている。
その姿は、研究者というよりは、祈りを捧げる殉教者のようにも見えた。




