臨界
夜。律の都内マンションの一室。 リビングは人工光に照らされ、静寂に包まれている。
律はディサイシブを装着したままデスクに向かい、シミュレーションのログを無表情でチェックしている。
月凪はソファに座り、律のデスクを静かに見つめている。
彼女の瞳は、愛と悲しみを湛えているが、表面上は穏やかな日常の顔を保っている。
月凪: (穏やかに)「律。もう寝ないの? 明日は大事な計測があるんでしょう」
律: 「うん。ディサイシブの調整で、演算効率がさらに上がったからね。もう少し試したいんだ。時間は有限だからね。」
律はこちらを見ないままデスクに向かい動きは正確無比で、無駄なノイズが完全に排除されているように見えた。
月凪: 「律。」
律: 「何?」
月凪:「コーヒーを淹れ直すわね。……私ね、この時間が永遠に続けばいいのにって、いつも思ってるのよ。」
月凪はそう言いながら、律の背中に向かって、そっと微笑んだ。
律は手を止めずに答える。
律: 「永遠かぁ……いいね。でも僕にとって永遠とは、全ての不確定要素が排除された、揺るがない計算結果のことだよ」
月凪は悲しそうに目を閉じ、キッチンに向かう。
月凪: 「……そうね。じゃあ、私が、その揺るがない計算に、愛という名のノイズを混入させるとしよう!」
月凪は、淹れたてのコーヒーを律のデスクに置いた。
律:「ありがとう。」
そうお礼を言いながら作業を続ける。
月凪は、律の髪をそっと撫でた。そして頬にキスをした。
月凪:「おやすみ、律。」
律:「うん、おやすみ。」
翌日 夕刻。
クロノス・インダストリー本社、MIP Lab。
律は最終パルスのパラメータ調整中。
研究員たちの作業音が静かに響いている。
ドオオンッッ!!
突然、社内全体にけたたましい警報音が鳴り響き、天井の赤い非常灯が一斉に点滅した。
MIP Labの研究員たちが一斉に顔を上げる。
デイビス: 「チーフ! 全館警報です! セキュリティシステムが最高レベルの異常を検知しました!」
律は立ち上がり、血相を変えてメインコンソールを操作する。
律: 「原因はなんだ! 今すぐデータリンクを!」
ディサイシブの青い光が激しく明滅する。
警報アナウンス: 「緊急事態発生。緊急事態発生。 レベル・レッドです。全職員は直ちに業務を停止してください。現在、研究棟セクター4(AELab区域)において、特殊エネルギー源の臨界超過を検知。該当区域では高エネルギーパルスおよび量子ノイズが観測。直ちにグリーンゾーン(緊急退避エリア)へ避難してください。緊急事態発生。レベル・レッド...」
(警告音が断続的に鳴り続ける)
律: 「月凪のラボ……!」
律: (叫ぶように)「全システムをシャットダウン! ベッカー、セキュリティに連絡!僕はAELabへ向かう!」
律がラボを飛び出した、その瞬間。
カッ……!!
爆発音はない。 世界が一瞬、色彩を失い、モノクロームに反転した。
音も、衝撃も、時間さえも置き去りにする、「因果律の崩壊」。
MIP Labの壁面が、飴細工のようにぐにゃりと歪み、そして弾け飛んだ。
遅れて届く、鼓膜を劈くような轟音。
律: 「月凪……!!」
律は走る。だが、視界には警告ログが雪崩のように溢れている。
ディサイシブ(脳内音声): 「警告。心拍数、異常上昇。判断能力の低下を確認。ドーパミンおよび鎮静剤を投与します。冷静になってください。冷静に……」
律: 「黙れ! ログを消せ!!」
律はAELabの入り口へ辿り着く。
そこは地獄だった。
だが、炎は燃え上がっていない。
青白い炎が、空中で凍りついている。
時間の流れが狂い、破壊の瞬間が永遠に引き伸ばされたような、美しくも残酷な光景。
その中心に、彼女がいた。
律: 「……あ……あぁ……」
月凪が倒れている。 瓦礫に埋もれているのではない。
空中に浮かぶ時間の亀裂の中心で、まるで眠るように横たわっていた。
その胸元で、青い蝶のブローチだけが、心臓のように激しく脈打ち、異様な光を放っている。
律: 「月凪! 月凪!!」
律は凍りついた炎を突き破り、彼女を抱き寄せる。
触れた肌は、恐ろしいほど熱く、そして恐ろしいほど冷たかった。
ディサイシブ: 「対象のバイタル、消失。蘇生確率、0.00%。推奨行動:遺体の放棄と、速やかな避難……」
律: 「うるさい! 計算しろ! 生存ルートを再検索しろ! 0%なんてありえない!!」
律は叫びながら、彼女の身体に自分の額を押し付ける。
月凪が、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、死の恐怖はない。
あるのは、ようやくこの瞬間に辿り着いた達成感と、無限の愛。
月凪: 「……律……」
律: 「 今、医療班を……いや、僕が……!」
月凪: 「……ううん。……計算は、合ってるわ」
律:「?!」
月凪の血に濡れた手が、パニックに陥る律の頬に触れる。
AIによる鎮静剤で無理やり冷やされた律の思考に、彼女の体温というノイズが流れ込む。
月凪: 「あなたが言った……永遠……。ノイズのない、完璧な計算結果……」
律: 「そんな話はどうでもいい! 生きてくれ!頼むから!」
月凪: 「だから、私が……壊してあげる」
月凪は、聖母のように微笑んだ。
月凪: 「これが、私からの……最初のノイズ(愛)よ」
律:「月凪?」
月凪の手から力が抜け、重力に従って落ちる。
その瞬間、彼女の胸元のブローチが砕け散り、目に見えないデータの奔流(愛のノイズ)が、彼女を抱きしめる律の身体へと流れ込んだ。
律の脳内で、AI『ディサイシブ』が激しく反応する。
ディサイシブ(脳内音声・冷徹): 「警告。未知の高密度データ干渉を検知。感情値、許容限界を突破。 ……対象の精神崩壊を回避するため、緊急プロトコル〈氷壁〉を展開します。」
律: 「……ルナ? なあ、目を開けてくれよ……ルナ!!」
ディサイシブ: 「未知のデータを、深層領域へ未解決ファイルとして隔離保存。 ……完了。現状の生存確率は0%です。」
律の心臓が早鐘を打ち、涙が溢れ出そうになる。
律: 「……ルナ?」
動かない。 息をしていない。 0%。 どんなに計算しても、答えは変わらない。
律: 「あ……あああああ……」
「論理」が死に、「絶望」が生まれた。
律: 「ウソだ……ウソだァァァァァッ!!!」
律の絶叫が、時空の歪んだラボに木霊する。
律の涙が月凪の頬に落ちた瞬間、凍りついていた炎が一気に時間を動かし、爆発的な熱風となって二人を包み込んだ。
律の頭脳では、ディサイシブの冷徹な論理と、目の前の愛する者の死という感情の暴走が、凄まじい勢いで衝突し、自我の崩壊が始まっていた。




