変容
昼休み。律は廊下を歩き、AELab(特殊エネルギー資源発掘・応用研究室)の入り口を覗き込む。
水無瀬 月凪が、古い文献とホログラムを見比べながら作業している。
律: 「月凪。ランチは?」
月凪:「ちょうど一区切りついたとこ。今行くわ。」
クロノス・インダストリー本社、研究棟の共有ラウンジ。
律はサンドイッチを、月凪はエネルギーバーを食べている。
ラウンジ内は静かで、人工光だけが差し込んでいる。
月凪:(エネルギーバーをかじりながら) 「それにしても、すごいニュース。伊藤君。」
律: 「ああ。噂の天才大学生か… 量子統計学の学位を三つ持つってね。将来はうちのラボかな?」
月凪: 「彼の論文、『人類の幸福のための演算』って書いてあった。律が熱弁してた事と一緒ね。」
律: 「こんな時代だしそう考えるのは僕だけじゃないってことだよ。」
月凪: 「そうね。私たちの研究が少しでもこの世界を救えるのなら…頑張らなくちゃね。」
律: 「うん。」
月凪は、胸元に留められた深い藍色の蝶のブローチをそっと触る。
月凪: 「ねえ、律。またこれよ。最近、私のブローチが変なの。AELabで計測すると、周囲の量子ノイズの反応が、以前より何十倍も大きくなっている。まるで、何かに抗っているみたいで、少し熱を持っているの.」
律: (目線でブローチを一瞥する)「気のせいだろ、月凪。それはただの古いアーティファクト。量子ノイズは常に存在しているんだ。僕たちが扱うのは、理論とパルスだ。意味のないノイズに気を取られるなよ。」
月凪: 「でも、これ、おばあちゃんが……」
律: (月凪の言葉を遮る)「…僕は100%の生存率を達成するために、演算を再開する必要がある。昼休みはもう終わりだ。また夜に。」
律は席を立ち、食器を片付ける。
月凪の手を掴むことなく、彼はラウンジのドアに向かって歩き出す。
月凪は、立ち去る律の背中を、悲しい目で見つめる。
月凪: (律は今、最も危険な論理に囚われ始めている。五百旗頭博士の言った触れてはいけない領域に、一番深く踏み込んでいるのは、他でもない律自身……大丈夫かな…)
月凪: 「律……待って!」
律は足を止めず、ドアの向こうに消えていく。
月凪は追うことを諦め、自分の席に戻る。
彼女は胸元のブローチを強く握りしめる。
ブローチは、手のひらの中で、明らかに鼓動を打っているように感じられる。
月凪: 「?動いた?……本当に? 何に?」
月凪は、誰もいないラウンジで一人座っている。
その時、に月凪の体に、目に見えない微細な「空間のゆがみ」が発生する。
それは、ガラスのひび割れのような、青白いパルス光だった。
月凪は、突如として激しい頭痛に襲われる。彼女は両手で頭を押さえ、目を閉じる。
月凪: 「っ……! 何、これ……」
ブローチが激しく発光し、パルス光が月凪の体に流れ込んだ。
そして月凪の全身の力が抜け、椅子から崩れ落ちてしまった。
数秒後。
床に座り込んだままだった月凪は、ゆっくりと目を開ける。
その瞳は、先ほどまでとは違った冷徹な意思を宿しているようにみえる。
月凪: (深呼吸をする。体内の異変を確認するように、そっと手を胸に当てる)「……よかった…」
月凪: 「律。あなたの論理の檻から引きずり出してあげる。」
月凪はブローチをそっと握る。
ブローチは、光を収め、静かに青い蝶の形に戻っている。




