浸食
通勤電車。 車内は死んだように静かだった。 誰もがホログラムバイザーを目深に被り、自分の世界に没入している。窓の外を、巨大な広告ドローンが横切っていく。
「クロノス保険 並行世界観測データによる、的中率99.9%の災害補償」
その下では、数人のデモ隊が「世界線を弄るな」「神の領域」「量子汚染反対」を叫びながら警備ドローンに排除されていたが、車内の乗客は誰一人として顔を上げない。
月凪:(デモ隊の様子を見ながら)「並行世界の存在なんて、まるでSFだもの…」
周りの人たちはそれほど気にしていない。それは見慣れた日常の風景になりつつあった。
世界は並行世界の存在発表で熱狂的なパニックに陥ったが最近では冷めた依存へと変化してきていた。
発表当初は存在論的ショック。
「自分は唯一無二ではない」「死んだあの人が隣の世界では生きている」という事実に宗教が崩壊し、自殺者や「転移」を願うカルトが急増。デモと暴動が連日続いた。
しかしどれほど哲学的に悩んでも、明日の超巨大台風は来るし、食糧危機も起こる。
そのうえ学業や仕事、社会生活は今までと変わらないままだ。
「並行世界の自分」を羨むよりも、「今の自分」が今日生き延びることに必死にならざるを得ない。
生存本能による上書きのようなもの、異常気象という「現実の暴力」が、人々を現実に引き戻した。
律:「うん、ああゆうのもわかるよ…」
月凪:「……律、大丈夫?」
隣に立つ月凪の声で、僕は視線を戻した。
月凪:「顔色が悪いわ。また昨夜もシミュレーション?」
律:「うん。少し、計算が合わなくてね」
月凪:「無理しないでって言ったのに」
月凪が僕の腕に触れる。その温かさだけが、この無機質な車内で唯一のリアルだった。
律:「君こそ。AELab(資源発掘室)の方はどうなんだ? 古代の遺物と睨めっこも楽じゃないだろう」
月凪:「ふふ、そうね。でも、最近少し気になる反応があるの。私のブローチと似た波長の……」
電車が急ブレーキのような音を立てて減速し、彼女の言葉が途切れた。
『……定刻通り、クロノス・インダストリー本社駅に到着します』 無機質なアナウンス。
律:「行こう、月凪。世界が待っている」
僕は彼女の手を離し、戦場へと足を踏み出した。
電車は静かに次の駅へと加速しだした。
超国家的プロジェクト機関クロノスインダストリー。
地球環境の安定化、資源開発、量子観測による災害予知、この「時間軸の不安定化」を解決するため発足した組織だ。
極微干渉パルス・応用研究室。通称MIP。
そこは、静寂と熱量が同居する空間だった。 無数のモニターが並び、8名の精鋭研究員たちがキーを叩く音だけが、雨音のように響いている。
律: (表情は真剣だが、人間的な葛藤を秘めている。)(モニターを見ながら)モニター表示: Target: Stress Level: Critical (9.2 Magnitude) Prediction: Rupture in T-minus 480s
デイビス: 「シミュレーション報告します。プレート境界、固着域の歪みが限界値を突破。時間軸のゆらぎによる加速劣化を確認。このままだと……480秒後にM9.2の巨大地震が発生します。」
デイビスの報告が、張り詰めた空気を切り裂いた。 モニターには、真っ赤に染まった断層図が表示されている。
デイビス: 「M9.2。確定しました。このままでは都市部の倒壊率85%。……終わりです、チーフ」
律:「終わらせない」
ベッカー: 「エネルギー量が大きすぎます。干渉パルスでの抑制は不可能です。」
ベッカーが悲鳴に近い声を上げる。
律: 「(表情一つ変えず)抑制はしないで、誘発させる。」
ベッカー: 「は…?」
律: 「一度に解放されるエネルギーが致死的、ならば分割払いさせる。座標Z-808の断層深部に干渉パルスを打ち込み、M5クラスの地震を20回連続で起こさせて。巨大な一撃になる前に、歪みを強制的にガス抜きする…」
室内が凍りついた。 デイビスが青ざめた顔で振り返る。
デイビス:「しかしそんなことをすれば、沿岸部の地盤は液状化します! インフラは壊滅、住民の避難だって間に合いません!」
律:「避難が間に合わないのではない」
僕はモニター上の『生存者予測数』だけを凝視した。
律:「間に合わせる時間を創るんだ」
僕は手元のコンソールを操作し、仮想空間上の警報システムに新たなラインを引く。
律:「M5の群発地震は、本震の発生を12時間遅らせる。その間に、液状化地域の信号機と警報システムをハッキングし、強制的に避難ルートだけを青にする」
律: 「デイビス。M5地震発生と同時に、液状化予測地域の交通管制システムと全警報システムに対し、時間軸収束パルスを打ち込んで。躊躇えば全員死ぬ…実行!」
デイビス: 「……っ! ……座標セット。パルス照射、行います……」モニター表示: Kinetic Energy: 4.5 Petajoules Interference Point: T-minus 120s
轟音のようなシステム音が響き、シミュレーション画面が激しく明滅する。 赤い警告灯が消え、代わりに青いグラフが緩やかに上昇していく。
デイビス:「……本震回避。M5群発地震により、エネルギー分散に成功」
ラボの空気が弛緩し、安堵のため息が漏れる。
ベッカー: 「 時間軸収束パルス、及び地殻干渉パルス、同時照射開始……M9.2の予測時刻を……引き延ばしています 成功です! M9.2の可能性、ゼロ」
デイビス: 「沿岸部でM5クラスの連続地震発生を確認。 インフラの損壊率、予測通り15.2%に収束。 液状化、広範囲で発生中。 しかし、警報システムが超高速作動し、避難誘導が機能しています。」
律: 「生存率を」
モニターに数値と、避難が成功した地域のヒートマップが表示される。
デイビス: 「シミュレーション結果、最終生存率……75.4%です。」
ジマーマン: 「チーフ。 奇跡的な数値です。 」
だが、僕はモニターの隅に表示された死亡予測:24.6%という数字から目を離せなかった。
「見事だ、結城」
背後からの声に、全員が弾かれたように直立した。 いつの間にか、ラボの入り口にその男が立っていた。 戒能 統吾。クロノス・インダストリー長官。 仕立ての良いスーツを纏い、感情の読めない瞳で僕を見下ろしている。
戒能:「M9.2を75%まで抑え込むとは。君のトリアージ(命の選別)は、芸術的だよ」
律:「……長官。しかし、まだ25%の誤差があります」
戒能:「完璧主義だな。だが、そのストイックさが君を蝕んでいるのも事実だ」
戒能は歩み寄り、ポケットから掌サイズのデバイスを取り出した。 黒曜石のように艶やかな、流線型のAIコア。
戒能:「君の負担を減らしたいと思ってね。新しいアシスタントAI『ディサイシブ』だ」
律: 「これは……?」
戒能:「君の脳波とリンクし、演算のノイズを取り除くフィルターだと思ってくれ。君は優しすぎる。その迷いが、計算の速度を鈍らせている」
戒能は、父親のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
戒能:「使いなさい。君が、君の使命を全うするために」
律:「……感謝します」
僕はそれを受け取った。冷やりとした感触が掌に残る。
戒能:「期待しているよ」
長官が去った後、僕はデバイスをコンソールに接続した。 青い光が脈動し、僕の神経に冷たい何かが流れ込んでくるのを感じた。
モニターの光だけが、僕の無表情な顔を照らしていた。




