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クロノスバタフライエフェクト  作者: 研G


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生存の許可証(ライセンス)

クロノス・タワー、第零脳科学解析室。


脱出劇から一夜明けたその場所では、無機質な機械音だけが響いていた。


蒼吟:「…… あ、…… ぁ、律…… 先輩……」


拘束椅子に座らされた伊藤蒼吟の瞳から、最後の一滴となる人間らしい涙がこぼれ落ちる。


彼の頭部には数十本の電極が接続され、モニターには彼の脳内コネクトームが、神経回路の地図として無残に書き換えられていく様が映し出されていた。


AI音声:「感情バイアス、残り0.2%。 間もなく消去完了します。」


AIオペレーターの報告に、戒能統吾は冷淡に頷いた。


傍らでは、泉唯零が石像のように立ち尽くし、手の中の私用端末――消えゆく娘、ノアのバイタルを示す画面を震える指で握りしめている。


戒能:「結城律は、もはや修復不能な致命的なバグと化した。彼の存在は、世界線統合を妨げ、宇宙を崩壊へと導く汚染源でしかない。」


戒能は蒼吟の顎をすくい上げ、慈悲深い神のような声で囁いた。


戒能:「…… 消去したまえ。 彼に対する君の未練も、その濁った情愛も。 伊藤、君が世界の免疫システムとなり、結城律というエラーをこの宇宙から完全に抹消するのだ。 …… それが、不完全な人類を永遠の平和へと導く、唯一の正しい演算だよ。」


蒼吟の瞳から、急速に光が失われていく。


かつての憧れも、青臭い正義感も、ただの非効率なデータとして処理され、ゴミ箱へ放り込まれていった。



地下のアジトに到着してから、すでに一昼夜が経過しようとしていた。


窓のない室内には、焦げた回路の匂いと、杉山が絶え間なく吹かす煙草の紫煙がよどんでいる。


作業台の横では、レイアが数本の電極をこめかみに貼り付け、解析機と直結したシートに身体を預けていた。


彼女の脳波と赤いブローチの量子振動を同期させなければ、戒能の論理を食い破るノイズの抽出は不可能だからだ。


蒼白な顔でモニターを見つめる律に、レイアが静かに声をかけた。


レイア:「…… リク。 …… あの、女の子のこと。」


律が手を止め、レイアを振り返る。


レイア:「泉さんの娘さん、ノアちゃん……。 何とか、助けられないかな。 泉さんの気持ちを考えると…それにノアちゃんの未来を、こんな不自由な形で終わらせたくないの。」


律は唇を噛んだ。


律:「…… そうだね、レイア。 あの子を、戒能の汚い取引の道具にさせておくわけにはいかない…… 一刻も早く、連れ戻さなければ。」


律の瞳には、かつての無機質な冷徹さではなく、焦燥と使命感が混ざり合った熱が宿っている。


律:「でも、今の僕の技術…… クロノス社で培ってきたデジタルの演算では、あの子をこの世界に繋ぎ止めるには、どうしても存在確率を強引に削ぎ落として、一箇所に縛り付けるしかないんだ。 それでは命を救えても、あの子から自由な未来を奪うことになる。 戒能がやろうとしている監獄のような救済と、結果的には同じになってしまう……。 どうすればいい、僕にはまだ、あの子を自由な一人の人間として救い出すための正しい答えが導き出せない……!」


救いたいという強い意志があるからこそ、その手段の不完全さに、律は自分自身を許せずにいた。


杉山:「…… フン、だったら縛り付けてやらなきゃいい。」


背後から、杉山の低く、重みのある声が響いた。 彼は大型の真空管を基板に組み込みながら、律を横目で睨んだ。


杉山:「坊主、お前はまだデジタルな完全解ってやつに囚われすぎてんだよ。100か0かで割り切ろうとするから、その子の居場所がなくなるのさ。」


律:「…… どういうことですか、杉山さん。」


杉山:「その子が消えかけているのは、この世界線がその子をエラーだと認識しているからだ。だったら、存在を無理に押し固めて100%を証明しようとするんじゃなく、周囲の量子ノイズと同期させて、不安定なままだいたいこの辺に漂っていろと肯定してやればいいんだよ。100%の固定じゃねえ、ゆらぎの中での共鳴だ。」


律:「ゆらぎによる調和…… ですか…」


杉山:「そうだ。デジタルで100%の正解を出すのは無理だが、アナログならだいたいこの辺に存在するという曖昧なまま、この世界に繋ぎ止められる。 …… 嬢ちゃんのブローチから出るあの赤いノイズ、あれを薄めてアンカーの波形に使え。」


杉山のアドバイスは、律の硬直した思考に風穴を開けた。


そこからの数時間は、まさに三人の共同作業だった。


レイアは自らの精神を極限までブローチに同調させ、高熱にうなされながらも、ノアを救うための「優しいノイズ」を抽出し続けた。


律はその微弱な信号を、杉山の教えるアナログ回路で増幅し、一つの形へと落とし込んでいく。


翌朝。


太陽が昇り、アジトの隙間から細い光が差し込む頃。


律の手の中に、指輪ほどの小さな、しかし確かな重みを持つデバイスが完成した。


律:「…… できた。 杉山さん、チェックを。」


律の声に、杉山が手を休めて回路を覗き込んだ。


杉山:「…… フン、上出来だ。 これがその子の生存許可証だな。 戒能の支配下から外れても、彼女は彼女のまま、この世界に漂っていられるはずだ。」


まずは、守るべき命のためのアナログ・アンカーが完成した。


そして、その数時間後。


レイアのバイタルが限界に達しようとする直前、杉山が巨大なレバーを引き、装置の駆動音を止めた。


杉山:「…… 終わったぞ。 戒能の強制統合に収束不能な無限の選択肢をぶちまける、カオス・パルス増幅器だ。」


作業台の中央。


レイアの赤いブローチを核に組み込んだ、いびつで禍々しいデバイスが、まるで呼吸するように鈍い紅い光を放っていた。


杉山:「準備しろ、坊主。…… そして嬢ちゃん、よく耐えたな。 …… こいつは世界を救う数式じゃねえ。 戒能の完璧な夢をブチ壊す、最高に質の悪い目覚まし時計のお出ましだ。」


律は、憔悴したレイアの肩を抱き寄せ、完成した二つのデバイスを見つめた。


一つは命を繋ぐための光、もう一つは神の座を焼き切るための毒。


反撃の準備は、ここに整った。


しかし、その達成感を打ち消すように、地上のスクラップ工場で鈍い爆発音が響き、地下室の照明が激しく明滅し始めた。


杉山:「…… チッ、嗅ぎつけやがったか。」


杉山がモニターを切り替えると、そこには冷徹な機械の瞳をした蒼吟、そして彼に率いられたクロノス社の特殊部隊がアジトを完全に包囲している光景が映し出されていた。


蒼吟:「チーフ、発見。…… 目標に深刻なロジック・エラーを確認。 これより、強制的なリセットを開始します。」


律:「蒼吟……!? お前……」


律の叫びも、スピーカー越しには届かない。


律:「坊主、ここは俺が引き受ける! 早く行け!」


杉山が叫び、アジトに仕掛けていたスクラップ・バーストを起動した。


地上で巨大な電磁ノイズと物理的な鉄屑が飛散し、ドローンのセンサーを一時的にホワイトアウトさせる。


律:「杉山さん!」


杉山:「俺には俺の逃げ道がある! お前らはそのガラクタの刃を守れ!」


杉山が放つアナログの煙幕を背に、律とレイアは乾いた熱気を帯びた昼下がりの路地へと飛び出した。


逃亡の最中、廃ビルの谷間に追い詰められた二人の前に、一台の黒い車両が滑り込んできた。


降りてきたのは、単独で追跡してきた泉唯零だった。


泉:「そこまでよ、結城律。」


泉が銃を構える。


その瞳には、先ほどの解析室での葛藤が、鋭い殺意となって反射していた。


律:「泉監査官……! 撃つなら撃て。 だが、その前にこれを受け取ってくれ!」


律は一歩踏み出し、懐から完成したばかりのアナログ・アンカーを取り出した。


泉:「これを、ノアちゃんに! 戒能に心を殺される前に、これを使えば…… 彼女を自由なまま救える! この世界で唯一の、あの子の生存許可証だ!」


律は、銃口を向けられたまま、そのデバイスを泉の足元へ投げた。


律:「信じるか信じないかは、あんたが決めてくれ。…… でも、僕は、ノアちゃんの未来を計算から外したことは一度もない!」


泉は呆然と足元のデバイスを見つめた。


泉:「この数日でノアのために作ったと言うの…」


その時、彼女のインカムに通信が入る。


通信:「監査官、目標を視認したか? 蒼吟チーフの部隊がそちらへ向かっている。」


泉は一瞬、律とレイアの姿を凝視し、それから震える手でデバイスを拾い上げた。


その感触は、戒能が与える冷たいデータとは違い、微かな熱を帯びていた。


泉:「…… 目標、ステルス・バーストを使用。 …… 現在地特定不能。 …… 私は北区画へ向かう。」


泉は本部に虚偽の報告を上げ、律たちに背を向けた。


泉:「行って。…… 追っ手が来る前に…」


泉の密かな工作により、周囲を包囲していたドローンたちのサーチライトが、意図的に別の区画へと誘導

される。


レイア:「ありがとう!泉さん!必ずノアちゃんを救って!」


しかし、追跡を逃れた二人の背後に、再び蒼吟の冷徹な足音が迫っていた。


日中の明るい市街地。 隠れる場所も少なく、徒歩ではいずれ捕まる。


?:「律! こっち!!」


聞き覚えのある元気な声が、ビル風を切り裂いて響いた。


見れば、派手な色のジャンパーをなびかせた河合心呼が、レンタル電動キックボードに乗り、予備の一台をサイドに引き連れて現れた。


律:「心呼!? お前、帰ったんじゃ……」


心呼:「帰ったよ! でも、ここまで関わっておいて呑気にいつまでも家にいれないでしょ! ほら、バディを置いて逃げるわけないじゃん! 私に付いてきて!」


心呼は器用にキックボードを操り、律とレイアの前に滑り込ませた。


心呼:「最新の追跡AIだって、商店街のボロい高架下までは計算に入れてないはずだよ! 私の知ってる抜け道、全部使うから!」


律とレイアは顔を見合わせ、頷いた。


三人はキックボードに飛び乗り、眩しい日差しを浴びながら、ハイテクな包囲網の隙間を縫うように、風を切って駆け抜けていく。


背後で遠ざかるクロノス・タワー。


絶望的な包囲網の中で生まれた不条理な防壁が、三人の逃亡を、そして反撃の火種を、今はかろうじて守り抜いていた。

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