倫理の檻を壊して
律のマンションは、以前の無機質な研究室のような静寂を失っていた。
窓の外では雨が降り続いていたが、室内には心呼が買ってきた安っぽいカップ麺の匂いと、彼女が勝手に入れた温かい茶の湯気が漂っている。
ベッドに横たわる彼女は、律の古いシャツを借りて、幾分か落ち着いた表情を見せていた。
しかし、その瞳に宿る混濁までは消えていない。
律:「……気分はどうだ」
律は椅子を引き寄せ、彼女の顔を覗き込んだ。
その距離で彼女を見るたび、律の胸は鋭い棘で刺されるような錯覚に陥る。
月凪と全く同じ、形の良い唇と、長い睫毛。
彼女は弱々しく首を振った。
女性:「……変な感じ。……私の名前は、天宮レイア(アマミヤレイア)。」
律:「…!!」
心呼:「…月凪さんじゃない…」
レイア:「それは、確かなの。私が生きてきた場所、見てきた景色、家族……その記憶はちゃんとここにある。でも……」
律は、目の前の女性から視線を外すことができなかった。
ベッドの端に腰掛ける彼女――天宮レイアの横顔を、貪るように見つめる。
髪の質感、耳の形、そして少しだけ困ったように下がる眉の角度。
どこをどう切り取っても、それは三年前のあの日に失った、水無瀬月凪そのものだった。
律:「…… 天宮、レイア」
律はその名前を、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
月凪ではない。
名前が違う。
彼女は自分のことを「天宮レイアとして生きてきた」と明確に語った。
別人だ。
理性がそう告げている。
だが、律の脳内は激しい混乱の渦にあった。
自分が起こしたかもしれない過去改変の影響で、街の看板が変わったり、誰かの記憶が書き換わったりするのは、まだ理解できる。
それは既存の因果律がわずかにズレた結果だ。
だが、この女性はどうだ。
並行世界から、一人の人間が肉体ごとこの世界線へ転送されてくるなど、理論上の数値を超えすぎている。
それも、よりによって僕が最も大切にし、僕が世界を歪めてでも救おうとした女性と瓜二つの人間が。
律:(…… 偶然か? いや、あり得ない。 僕が放ったパルスが、同じ波長を持つ彼女を、別の世界線から引き寄せたとでも言うのか……? )
律の思考が、科学者としての仮説と、人間としての驚愕の間で激しく軋む。
レイア:「リク…… さん?」
レイアが、不思議そうに律を見つめた。
レイア:「…… 私にも、何が起きているのか分からないの。 ただ……」
レイアは細い指先で自分の額を抑えた。
レイア:「……それとは別に、波のように流れ込んでくるの。私の知らないはずの記憶が。……青い蝶のブローチ、冷たいラボの空気……そして、リク。あなたを大切に思っていた『誰か』の心が、私の脳を直接書き換えているみたいで……」
レイア:「多分その誰かは月凪さん…」
心呼が、お盆を持って二人の会話に割り込んだ。
心呼:「レイアさん、たぶん、ここはあなたのいた場所じゃないんだよ。……月凪さんとレイアさんって見た目がそっくりなんでしょ?」
律:「ああ…それはもう似てるなんでレベルではないほどだ…」
心呼:「原理はわからないけどさ、たぶん同じような世界線がいくつも存在していて、ここの世界に存在していた月凪さんの魂?みたいなものがほかの世界線に存在する同じ魂を持ったレイアさんを引き寄せちゃったみたいな?」
レイアは心呼を見つめ、少しだけ笑った。
レイア:「……別の世界線……。そうね。私の知っている世界には、あんなに大きな塔はなかったし、街並みや服装の雰囲気がちょっと違うから…。」
レイアはふと遠くを見るような目になり、独り言のように言葉をこぼした。
レイア:「…… さっきから、懐かしい匂いがするの。 この部屋じゃない、もっと冷たくて、でも…… 安心する場所。 そこには、いつも律さん、あなたの背中があって……。この記憶は他人のものじゃなく自分の記憶としてどんどん残っていくの…だからおそらく心呼ちゃんの推理は当たっていると思う…」
心呼はそれを聞き得意げな顔をしている。
レイア:「……真理は……計算の隙間に……潜む……」
レイアが突然思いついたかのように口ずさんだ。
律の心臓が跳ねた。
律:「!!今……なんて言った?」
レイア:「え……わからない……。ただ、急に……頭の中に、この言葉が……」
椅子を蹴立てるようにして立ち上がる律に、心呼が「わわっ、どうしたの!?」と飛び上がる。
律は狂ったようにデスクへ駆け寄り、放置されていた沼田のタブレットを掴み取った。
心呼:「律、何!? 急に怖いんだけど!」
律:「…… レイアが今口にしたのは、僕の師匠だった沼田先輩の口癖だ。 …… 計算の隙間。 そうか、ずっと目の前にあったんだ!」
『真理は常に、計算の隙間に潜む。君の人生で、最も非合理的な隙間が生まれた時、それが真理への扉だ』
沼田或人が律に遺した言葉。
律は震える指で、タブレットの暗号解読フォームに、その言葉をキーワードとして打ち込んだ。
――Truth lies in the gaps of calculation.
数秒の静止。
次の瞬間、画面を覆っていた複雑な幾何学模様のプロテクトが、水面に石を投げたように静かに、そして完全に消滅した。
律:「……解けた……」
律の呟きに、心呼とレイアが息を飲んでモニターを覗き込む。
画面に現れたのは、沼田或人の動画ファイルだった。
背景は、あのMIPラボ。
だが、今の冷徹な空気ではなく、どこか人間味のある散らかった部屋だ。
沼田:『…… 律、この映像をお前が見ているということは、私はもうこの世にはいないのかもしれない。 そしてお前は今、取り返しのつかない迷路の中に立っているはずだ』
沼田の声は静かだが、深刻な響きを帯びていた。
『戒能統吾を信じるな。…… 奴が進めているプロジェクトは、単なる未来予測ではない。 時間という概念そのものを自らの支配下に置き、人類の運命を一つの論理回路へ押し込めようとする、最悪の計画だ。 奴が何を企んでいるか、その全貌は私にもまだ見えない。 だが、それが完成すれば、人類に「明日」という自由はなくなるだろう』
律はモニターを握りしめた。
戒能への忠誠心が、足元から崩れ去っていく。
沼田:『この暗号を解いたのが律、お前なら…… お前だけが、奴を止められる可能性がある。 …… もし一人で抱えきれなくなったら、杉山奏真という男を訪ねろ。彼のアナログ技術こそが、戒能のデジタル独裁を打ち破る唯一の楔になるかもしれない。』
映像が途切れた。
部屋を支配したのは、重苦しい沈黙だった。
心呼:「…… 戒能長官って、律がいる研究所の偉い人?………」
心呼が、震える声で呟く。
律は何も言わず、右手を自分の後頭部へと回した。
髪の生え際に埋め込まれた、小さな金属片。
戒能から与えられた、感情を抑制し演算を加速させるAI「ディサイシブ」。
律:「…… 僕は、あなたの部品じゃない」
律はそのデバイスを自らの手で引き剥がした。
接続が切れた瞬間、律の視界から無機質な警告ログが消え、色が鮮やかに戻った。
悲しみ、怒り、後悔。
ディサイシブによって抑制されていた「人間としての感情」が、泥流のように律の中に溢れ出す。
律:「…… 月凪。 ごめん。 僕は、なんてことを……」
律は月凪の遺したブローチを握りしめ、顔を伏せた。
心呼:「律……」
心呼がそっと肩に手を置く。
数分の後、律は顔を上げた。
その瞳には、かつての天才エンジニアとしての鋭さと、人間としての強い覚悟が宿っていた。
律:「…… クロノス本社に行く。」
心呼:「えっ!? 今から!?」
心呼が驚愕する。
律:「ああ。 …… 長官に、直接問いただしてやる。 沼田先輩に何があったのか、僕を、世界を…… こんな形に変えた本当の理由を」
律は、レイアと心呼に向き直った。
律:「君たちはここにいろ。…… ここから先は、命の保証はない。 特に心呼、君はただの一般人だ。 これ以上巻き込めない。」
心呼:「…… 危険とか、論理とか、効率とか…… そんなの、もう聞き飽きましたー!」
心呼は律の目を真っ直ぐに見据え、一歩も引かずに叫んだ。
心呼:「律が一人で抱え込んでしまわないように、私が監視してあげるの! 私たちの日常がバグってる原因なんでしょ? だったら当事者なんだから、文句のひとつも言ってやらないと気が済まないんだから!」
レイアも、まだふらつく足取りながら、律の腕をそっと掴んだ。
レイア:「私をここに引き寄せたのが、あなたの『想い』だというのなら…… 私にも、真実を見る権利があるはず。 …… 行きましょう。 私の中にある、月凪さんの記憶のためにも。」
心呼は律の目を真っ直ぐに見返した。
心呼:「…… 計算の隙間に、真理があるんでしょ? だったら、計算外の私たち二人を連れて行くのが、一番の正解なんじゃないの?」
律は絶句した。
沼田の言葉を、この少女は直感で正解へと導いてみせた。
二人の強い意志に、律はしばし呆然としたが、やがて短く笑った。
「…… 計算外だ。 …… 全く、論理的じゃない。」
律は二人を促し、土砂降りの雨が降る夜の街へと踏み出した。
遠くで、クロノス・インダストリーの巨塔が、暗雲を貫いて冷酷な光を放っていた。




