量子ノイズの肖像
数日後。
無機質な高層ビルの狭間にある、忘れ去られたような旧市街の緑道。
かつては恋人たちのデートスポットだったが、今は湿気と老朽化で人が寄り付かない場所だ。
律は、フードを目深に被り、指定された座標へ急行していた。
左胸のポケットには、いつもの重みがある。
青い蝶のブローチ。
律は無意識に、その冷たい感触を服の上から確かめる癖がついていた。
腕時計型の端末が、微弱だが無視できない干渉波形を示している。
律:「……ここか。」
緑道の入り口で、心呼が自分のスマホを掲げながら待っていた。
律を見つけると、ブンブンと手を振る。
心呼:「おーい! こっちこっち!」
律:「(小声で)……大声を出すな。ドローンに見つかる。」
心呼:「大丈夫だって。ここ、昨日の夜からドローンも避けて通ってるもん。……ほら、見てよこれ。」
心呼は律に自分のスマホ画面を突きつける。
カメラアプリが起動している。
彼女がレンズを緑道の奥、鬱蒼とした植え込みの方に向けると――。
律:「……なんだ、これは。」
肉眼ではただの薄暗い茂みにしか見えない。
だが、スマホの画面の中だけ、その空間が激しくグリッチ(デジタルノイズ)を起こしていた。
色が反転し、ブロックノイズが走り、まるで壊れたゲーム画面のように景色が明滅している。
心呼:「ね? ヤバくない? ここだけ画質が死んでるの。」
律:「画質……」
心呼:「肉眼だと普通に見えるのに、カメラ通すとこうなるの。……私の勘だけど、この奥に世界が読み込めてないナニカがいる気がする。」
律は息を呑む。
的確だ。
彼女は専門用語を知らないだけで、現象の本質を突いている。
MIPラボの観測機材でしか捉えられない位相のズレを、彼女はスマホひとつと違和感だけで見つけ出したのだ。
律の視界の端に、警告ログが走り始めた。
ディサイシブ(脳内音声):『警告。局所的な量子ノイズを検知。推奨ルートから外れています。引き返してください。』
律はAIの声を無視し、心呼のライトが照らす先――古びたベンチの方へ目を凝らす。
律:「……お手柄だ。ここからは僕が行く。」
心呼:「は? 行くに決まってんじゃん。バディでしょ?」
止める間もなく、心呼はスマホを懐中電灯代わりにして、ノイズの海へと足を踏み入れる。
律は舌打ちをして、慌ててその後を追った。
緑道・最深部
奥へ進むにつれて、空気の密度が変わる。
肌にまとわりつくような静電気。
耳の奥で、キィィンという高周波の耳鳴りが響く。
心呼:「……う、なんか……気持ち悪い。船酔いみたい……」
律:「空間位相がズレているんだ。離れてろと言ったのに……」
その時。
律の視界の端に、見覚えのあるベンチが映った。
蔦に覆われた、古びた木製のベンチ。
律:(……ここは。)
記憶がフラッシュバックする。
まだMIPラボに入ったばかりの頃。
研究に行き詰まった律を、月凪が連れ出した場所だ。
『ここ、静かでしょ? 律がノーベル賞取ったら、記念碑でも建ててもらおうかな』
彼女はそう言って、缶コーヒーを渡してくれた。
律:「……まさか。」
律は、心臓が早鐘を打つのを感じながら、そのベンチへと近づく。
ベンチの陰。
ゴミと落ち葉に埋もれるようにして、泥だらけの「なにか」がうずくまっていた。
心呼:「……ねえ、あれ……人?」
心呼がスマホのライトを向ける。
光が、泥にまみれた華奢な肩を照らす。
ボロボロの服。
乱れた髪。
震えている。
律:「……おい。大丈夫か。」
律が膝をつき、その肩に触れようとした瞬間。
彼女がビクッと反応し、顔を上げた。
ライトの光が、その顔を照らし出す。
律:「――ッ!?」
時が止まった。
心呼が小さく悲鳴を上げそうになり、口を押さえる。
そこにいたのは、水無瀬月凪だった。
いや、正確には月凪と同じ顔をした女性だった。
だが、その瞳の色は、律の知る月凪の温かいブラウンではない。
怯えと、混乱と、疲労に塗りつぶされた、虚ろな瞳。
ディサイシブ:『警告。生体認証……照合中。……エラー。対象データは「死亡(Deceased)」によりロックされています。……矛盾。矛盾。』
AIさえもが、あり得ない事態に処理落ちを起こし、不快なアラート音を鳴らす。
律:「……月凪……?」
心呼:「え? 嘘…?」
律の声に、彼女の瞳が揺れる。
焦点の合わない目が、律の顔を捉える。
女性:「……ウ……」
彼女の唇が、乾いた音を紡ぐ。
女性:「……リ……ク……?」
律:「!!」
律は戦慄した。
彼女は僕を知っているのか?
いや、死んだ彼女が生き返ったのか? だとしたら、なぜこんな場所に?
混乱する律の視線が、彼女の胸元に吸い寄せられる。
律:「……な……!?」
彼女の襟元に、蝶の形のブローチが留められていた。
デザイン、細工、大きさ……すべてが、律が今ポケットに入れている形見と同じだ。
だが、その色は青ではなく赤だった。
律:(……バカな。月凪のブローチは、世界に一つしかない一点物だったはずだ。それがなぜ……ここにある? しかも赤色?)
律は無意識に、自分の胸ポケットを強く握りしめた。
律:(……違う。彼女は、月凪じゃない。)
科学者としての理性が、冷徹に告げる。
しかし。
目の前の彼女が、震える唇を開いた。
女性:「……頭が……割れる……。 ……りく……助け……て……」
律:「……くそッ!」
心呼:「……ねえ、律!その人が月凪さんなの?!」
律は喉を詰まらせる。
知り合い? そんな言葉で片付けられるわけがない。
だが、冷静な部分は告げている。
彼女は月凪ではない。
律:「……いや。」
律は絞り出すように答える。
律:「顔は知っている。……だが、僕の知っている彼女じゃない。」
心呼:「え? どういうこと? なになになに?!」
律:「……わからない。」
律は彼女の前に膝をつく。
彼女は律の手を求め、縋るように伸ばしてきた。
その手は高熱を発しているように熱い。
ディサイシブ:『推奨行動:離脱。対象は危険な量子ノイズ源です。接触は推奨されません。』
律:「……放っては置けない。」
律はAIの推奨を棄却し、彼女の手を握り返した。
その瞬間、赤いブローチの光が少しだけ穏やかになり、彼女の表情から苦痛が和らぐ。
理屈などどうでもよかった。
律は彼女を横抱きに抱え上げる。
軽い。
恐ろしいほどに衰弱している。
心呼:「ちょ、ちょっと! どうすんの!?」
律:「連れて行く。ここに置いてはおけない。」
心呼:「連れてくって、どこに!? 病院!?」
律:「いや、病院はIDがいる。……僕のセーフハウスだ。」
律はジャケットを脱ぎ、彼女に被せる。
腕の中の彼女は、高熱を発しているように熱かった。
律:「心呼、周囲の警戒を頼む。ドローンの死角を探してくれ。」
心呼:「え、ええ!? ……もう、分かったわよ!」
心呼は混乱しながらも、スマホを操作してナビゲートを始める。
心呼:「こっち! 次の角、カメラ死んでる!」
雨が降り始めた。
律は、死んだ恋人と同じ顔をした彼女を抱き、闇に沈む東京の路地を駆け抜ける。
彼女がなぜここにいるのか。
なぜ自分の名前を知っているのか。
その答えが、世界を揺るがす真実への鍵だとは、まだ知らずに。




