Girl in the Glitch
2070年、東京湾岸エリア・集合住宅
窓の外には、鉛色の空を埋め尽くすように、極彩色の巨大ホログラム広告が浮かんでいる。
ダイニングは清潔だが、どこか無機質だった。
河合心呼は登校前の準備を終え、制服の袖をまくりながら食卓についた。
向かいでは、母がトーストをかじりながら、空中に投影されたニュース映像を目で追っている。
心呼:「ねえママ。」
心呼は、昨日の興奮を思い出しながら声をかけた。
心呼:「昨日言ってたオリオンの新型myPhone、今日の夜に届くんでしょ? 受け取りお願いしていい?」
母の手が止まる。
きょとんとした顔で顔を上げた。
母:「……え? 何それ?」
心呼:「え? やだなあ、昨日あんなに話したじゃん。電気代が半額になるやつ。パパも『絶対買う、これからは省エネだ』って。」
母:「頼んでないわよ。どうしたの? そんな話、してないじゃない。」
母の声は平坦だった。
母:「パパも昨日は残業で、顔も合わせてないでしょ。……心呼、寝ぼけてるの?」
弟:「ねーちゃん、ついにmyPhone欲しすぎて脳内メーカーおかしくなっちゃったぁ?」
弟がニヤニヤと茶化すが、心呼の耳には届かなかった。
トーストを持つ手が空中で止まる。
母の顔に、嘘をついている色はない。
ただ純粋に呆れているだけだ。
心呼:(……嘘?)
心呼は自分の頭の中で、昨日の夜の会話を再生する。
鮮明だ。
父の豪快な笑い声も、母がパンフレットをめくる指先の動きも、リビングの湿度さえも思い出せる。
心呼:(あれが全部、私の夢? 私、どうかしちゃった?)
誤魔化すようにコーヒーをすすった。
味がしなかった。
心呼:「えーー何なの? こわいなあ。」
精一杯の愛想笑いを作ったが、頬が引きつるのがわかった。
母「寝ぼけてないで早く食べなさい。遅刻するわよ。」
心呼:「う、うぁぁぁあ! い、行ってきます!」
逃げるように、心呼は家を飛び出した。
高層ビルの谷間にある古い路地には、今日も湿っぽい風が吹き抜けている。
錆びついた神社の鳥居の横で、清掃用ドローンがウィーンと低い唸りを上げていた。
壁に貼られた無数のステッカー――『量子救済』『貴方の愛する人は、隣の世界で待っている』といった落書きを、ドローンのアームが無機質に剥がしていく。
その横を通り過ぎながら、友人のリルが弾んだ声を上げた。
リル:「ねえ、この並行世界占いめっちゃ当たるらしいよ。別の世界の私とシンクロすると、テストの点良くなるってぇ。」
咲:「マジ? ウケる。じゃあ、向こうの私に勉強させよーっと。今の私はサボり担当~」
咲が続けて、キャハハと軽い笑い声を上げる。
リルたちのスクールバッグには、猫が二匹に分裂している奇妙なマスコットが揺れていた。
心呼だけが、笑えなかった。
彼女たちにとって世界線の話は、流行りのファッションかゲームの一種だ。
けれど、今の心呼にとっては――。
心呼:(……んー、絶対おかしい……)
心呼の視線が、ふと歯医者の看板に吸い寄せられた。
「……あ」
『ミナトデンタルクリニック』
昨日まではポップな丸文字だったはずの看板が、厳格な明朝体に変わっている。
しかも、何年も前からそうだったかのように、端が茶色く錆びていた。
ペンキの剥げ方までが、昨日の記憶と決定的に違う。
咲:「心呼ォ? どーしたーぁ?」
心呼:「あー、うん……」
心呼は喉の奥の渇きを覚えた。
心呼:「ホラなんかさ、街の様子とか記憶とか……変じゃない? 看板とか…」
引きつった笑顔で尋ねたが、二人にはまるで意味が通じていなかった。
リル:「え? 何の話?」
咲:「心呼、なんか変だぞー?」
心呼:「そう……なんか変だよねえ~……ははは。」
世界から、自分だけが少しずつズレていく。
薄い膜一枚隔てた向こう側に、置き去りにされているような感覚だった。
教室の窓際、午後の日差しが白い机に落ちている。
先生の声は、どこか遠いラジオのノイズのように聞こえた。
先生:「……というわけで、2058年のエネルギー革命における……」
心呼は教科書の陰で、こっそりと自分の端末を取り出した。
フォルダの奥にある、中学時代のアルバムデータを開く。
卒業式の日。
親友とピースしている写真。
隣で笑う親友の髪型を見る。
心呼:(!!……なんで?)
心呼の記憶では、彼女はショートカットだった。
そのために美容院へ行った話も覚えている。
けれど、液晶の中の彼女は、豊かなロングヘアを風になびかせていた。
心呼:「……やっぱ、おかしいよぉぉ……」
心呼は唇を噛んだ。
血の味がしそうなくらい強く。
自分の知っている世界が変わったのか。
それとも、世界そのものが誰かの手で上書きされているのか。
このままじゃ、よくないことが起こる。
漠然とした、けれど巨大な不安が、黒いインクのように心の中に広がっていった。
放課後のハンバーガーショップは、学生たちの喧騒で満ちていた。
心呼は一人、BOX席の隅に身を縮めていた。
周囲の騒がしさが、今は自分を守る壁のように感じる。
誰かに言ってしまいたい。
でも、友達に言えば病んでると引かれるだろうか。
親に言えば、心配されて病院に連れて行かれるかもしれない。
ネットニュースも検索してみたが、同じような現象についての書き込みは一つもなかった。
心呼:「……とりあえず、私が投稿しよう。」
震える指先でSNSアプリを開く。
『ねえ、怖い。昨日お母さんと「新型myPhone、明日届くね」ってあんなに話したのに、今朝聞いたら「そんな注文してない」って真顔で言われた。家を出たら、通学路の看板もいつもと違うし。私の記憶がおかしいの? それとも世界がバグってる? 誰か同じような人いない? #TimeLag #世界線バグ』
送信ボタンを押す。
心臓が早鐘を打っていた。
夜。
部屋の電気を消して、心呼はベッドの上で膝を抱えていた。
暗闇の中で、端末の通知ランプだけがチカチカと明滅している。
「いいね」はいくつか付くが、そのほとんどは冷やかしだった。
『設定乙』 『ラノベの読みすぎw』 『病院池』
心呼:「……あーあ。期待した私がバカだった。」
心呼は頬を膨らませ、勢いよく画面を閉じようとした。
その時だった。
ピロンッ。
鋭い通知音が、静寂を切り裂いた。
【DM受信:1件】
心呼は弾かれたように画面を見る。
差出人は 『R_Yuki』
アイコンは真っ黒な背景に白いノイズが走っているだけの、いかにも怪しい捨て垢だ。
【メッセージ内容】: 『突然の連絡、失礼する。君の投稿を見た。看板の変化、家族との記憶の齟齬。それは君の妄想でも病気でもない。世界は今、断続的な改変の最中にある。』
心呼は息を呑んだ。
文章を読み進める瞳に、急速に力が戻っていく。
【メッセージ続き】: 『多くの人間は、この変化に気づいていない。いや、どれだけの人が気づいているかもわからない。だが、君にはそのノイズが見えている。……修正される前の世界の記憶を持ったまま、取り残されたんだろうと思う。』
「……やっぱり!」
心呼はガバっと上半身を起こした。
ただの慰めじゃない。
「看板」や「記憶の齟齬」という具体的な現象を言い当てている。
つまり、私の頭がおかしいわけじゃなかった。
おかしいのは世界の方で、私の記憶こそが正解だったんだ。
心呼の胸の奥で、恐怖よりも先に、カチリとスイッチが入る音がした。
この『R_Yuki』という人物は、このふざけた状況のネタバレを知っている。
心呼は素早くフリック入力で打ち返す。
心呼:『あなたは誰? どうしてそんなことが分かるの?』
送信すると、すぐに既読がついた。
【メッセージ】:『僕も君と同じ修正前の世界を知っている。』
「修正……」
心呼の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
相手はセンチメンタルな同情を寄せているつもりかもしれない。
でも、心呼が感じたのは共感よりもチャンスだった。
怪しい? 当然だ。
危険? かもしれない。
でも、このまま泣き寝入りして、わけのわからない偽物の日常を受け入れるなんて、絶対に嫌だ。
あのお母さんとの会話も、楽しみにしてたmyPhoneも、全部なかったことになんてさせない。
心呼:(私が、私の世界を取り戻す。そのためなら――)
心呼の指先は、もう震えていなかった。
むしろ、これから始まる未知のゲームへの武者震いにも似た、熱い高揚感が指先を走る。
彼女は、このバグった世界の攻略法を知るために、強く画面をタップした。
『会えますか? 明日、放課後に』




