32:衆寡敵せず
「おお……! ここが、風の大精霊がおわす場所……!!」
随分とぐったりしてしまったリューズを無理やり引きずって、ティエルノは教会の地下へと辿り着く。長い長い階段を降りた先に待っていたのは、いくつもの柱に囲まれた大きな紫色の封印だった。
教会の地下にこんな場所があったなんて。ティエルノはリューズから手を離し、両手を広げて歓喜する。柱に囲まれた封印、その中に真っ白な物体があるのをティエルノは視認した。あれが恐らく、封印されているという風の大精霊シルフィード。どれほど美しい精霊なのだろう。ティエルノは担いでいた鞄を下ろし、そそくさと画材を用意した。
「さあ、ついにご対面だ! リューズ、こっちに来い!」
「ぅ、ぐ……ッ、おやめください、ベネディクト子爵令息……!」
「はっ。継承権もない側妃の娘如きが僕に逆らうのか? お前の血を上手く使ってやると言っているんだ。大人しく従え」
崩れ落ちてしまったリューズの腕を無理やり引っ張り、封印の前へと連れていく。紫の鎖が収束する中央地点、そこには光る円盤が埋め込まれていた。比較的新しいその円盤には、父のものと思われる筆跡で『王家と皇族の血をここに注げ』と刻まれている。この封印を解けるのは、やはりリューズの血しかないのだ。
ティエルノは懐から画材の一つであるナイフを取り出し、リューズの手を引っ張って掲げる。その先が予測できたらしいリューズは抵抗するが、魔道具によって弱らされている状態の抵抗など羽虫よりも弱い。ティエルノは抵抗をものともせずリューズの掌にナイフを当て、ザックリと切りつけた。
「ひぎ……ッ!?」
「リューズ様!」
「なんだ、騒がしいのが来たな。まあ良い、そこで見てろ。今から、風の大精霊シルフィードを解放する!!」
鋭い痛みにリューズが醜い声を上げ、続いて階段を降りてきたミルフォードが悲痛な叫び声を上げる。ティエルノはそれらを意に介さず、リューズの白い掌から溢れる鮮血に微笑む。そしてその手を無理やり引っ張り上げ、錆びついた円盤に押しつけた。
リューズの血が染み渡り、刻まれた溝を満たしていく。ほのかに光る赤は封印の鎖へと伝わり、瞬く間に全てを覆い尽くした。バキ、と鎖から鈍い音が鳴る。バキ、バキバキッ、と音は連鎖していき、やがて大きなひび割れとなった。鎖が千切れ、円盤がひび割れ、柱が崩壊する。大きな地響きの数秒後、顔を上げたティエルノを暴風が襲った。
「ぐえっ!?」
叩きつけるような自然の暴威になす術なく、ティエルノは無様に地下を転がる。全身を地面に打ち付け、鈍い痛みが走った。ティエルノはボサボサになった髪を掻き上げながら、暴風の正体を睨みつけ────息が、止まった。
『あらあら、あらあら。怪我をしたの? 貴女は相変わらずお転婆さんね、マリー』
そこにいたのは、大きな大きな蚕だった。
真っ白な毛に身を包んだ、ふわふわとした威容。黒く細い触角に、柔らかな毛で覆われた二対の羽。固く閉じられた目も相まって、それは酷く神聖に見えた。
到底飛び立てそうな容姿をしていない、風の大精霊。これが、自分の求めていた美の極地。ああ、早く筆を取らなければ。そう思っていても手が震えて、ティエルノはその場から一歩も動けなかった。
ティエルノと違い、吹き飛ばされなかったリューズにシルフィードが近寄る。かと思えば柔らかな頭が傷ついた手に擦り寄り、その傷を瞬く間に癒した。己の手とシルフィードを交互に見て唖然とするリューズに、シルフィードは優しい声で告げる。
『あらあら、あらあら? 貴女、よく見たらマリーじゃないわね。でもそっくり。夕焼けみたいな髪だもの。ねえ貴女、誰?』
「……りゅ、リューズですわ。側妃ローズマリーの娘、リューズ・アルバート=ワーグナーでございます」
『あらあら! マリーの娘なのね! 可愛いわ、可愛いわ! ああでも、大きいわね。赤子の時に祝福を上げたかったわ。残念ね、残念ね』
「……ッ、おい、風の大精霊!」
リューズと会話を交わすシルフィードへ、ティエルノは声を荒げる。そんな世間話をさせるために封印を解いたのではない。まずは大人しくさせて、絵の題材になってもらわなければ。そんな魂胆で声を荒げたティエルノに対し、シルフィードはのっそりと顔を向けて───刹那、全身が固まった。
「─────ひ」
『あらあら、あらあら。お喋りを邪魔するなんて悪い子ね。……あら貴方、見覚えがあるわ。マリーを貶めて、私を封印した酷い男ね。許せないわ、許せないわ!』
「ひぃ……ッ!」
ティエルノの顔に父テノールの面影を感じたのか、シルフィードは全身に怒りを走らせる。膨れ上がる怒気にティエルノはすっかり怖気付いて、筆を取ろうとしていた手で己の頭を庇ってしまった。
どんな状況でも怯まず、キャンバスに収める。ティエルノのこの姿は、己の宣言と矜持への裏切りそのものだった。ミルフォードの持つ魔道具越しにその姿を見た令息令嬢たちが、裏切りと落胆で怒りを生む。だがそんなことを知る由もないティエルノは、本能のままに命乞いを口走った。
「ゆ、ゆる……っ、許して! こ、殺さないでくれぇっ!!」
『嫌よ。貴方のせいで、どれだけマリーが苦しんだと思っているの! 許せないの、許せないのよ!』
「落ち着いてください、シルフィード様! 母はそんなこと望んでいませんわ!」
『ダメよ。マリーの可愛い娘のお願いでもダメなの。この男はここで殺さなきゃ、絶対にダメなのよ!』
「……ッ、シルフィード様!!」
リューズの説得にも耳を傾けなかったシルフィードが、新たな声の呼びかけで動きを止める。のっそりと顔を傾けた方、階段の側に立っていたのはミルフォードだった。
ミルフォードは酷い有様だった。暴風に巻き込まれたか、メガネも杖も飛ばされて全身ボロボロ。白い瞳もシルフィードを見ておらず、明後日の方角に向いていた。無理もない、今のミルフォードは視力を補う全てを奪われた状態だ。この場に存在する誰よりも、弱々しく儚い存在。だがミルフォードは誰よりも強く、シルフィードへと訴えかけた。
「どうか矛をお納めください。ここで暴れられたら、ローズマリー側妃陛下の名誉に傷がつきます!」
『……あら、あら。そうかしら?』
「ええ。……確かに我々は、貴方に許されないことをしました。ですが裁きを下すのは、ローズマリー側妃陛下にお会いしてからでも遅くありません! 陛下の意見は、貴方の中では最優先されるべきことでしょう?」
『それは……確かにそうね! マリーに会えないのは悲しいもの。まずはマリーに会ってからにしましょう! それが良いわ、それが良いわ!』
ミルフォードの必死の説得が響いたのか、シルフィードは上機嫌に触角をぴこぴこと揺らす。かと思えば、役に立たなそうな真白の羽を広げ、一陣の風となって教会の地下を飛び出した。
暴風が吹き荒れ、唯一巻き込まれたティエルノだけが画材と共に床を転がる。壁に頭を打ちつけ気絶したティエルノが、ミルフォードの持ち込んだ魔道具越しに映し出された。そのあまりにも情けない姿に、熱狂的な信者の熱も冷めていく。
封印された風の大精霊の解放、王女への傷害。あらゆる罪禍を積み重ね、それでいて画家としての本懐を果たせなかったティエルノ。そんな彼に群衆の悪意が殺到するまで、さほど時間は掛からなかった。




