30:才余りありて識足らず
「これは一体どういうことですの? ティエルノ様」
喧騒とは無縁の静かな廊下で、ほのかに圧を宿した可憐な声がそう問いかけてくる。ティエルノは丁寧に梳かされた緑色の髪に手を通しつつ、面倒臭そうに振り向いた。
眼前、白い制服にたわわな身を包んだ聖女メローぺは、度し難い物でも見たような顔でティエルノを見上げている。きっと清廉潔白を謳う聖女のことだ、ティエルノの現状が信じられないのだろう。その顔を絵画に収められたらどれだけ良いか、と場違いなことを考えながら、ティエルノは大きくため息を吐いた。
「何のことかね」
「最近噂されている窃盗疑惑についてです。ミルフォード様から魔導メガネを盗んだというのは本当ですか」
「ああ、それか。事実だよ。あんな盲目には勿体無い代物だったから、僕が最大限活用させて貰ったんだ」
「それならば正規品の発売を待てば良かったでしょう? なぜ自ら評判を貶めるような真似を……!」
「? あの盲目が僕の役に立つ道具を持っていると、そう教えたのは聖女だろう。僕はそれに従っただけだ。何が悪い」
全く反省の色を見せないティエルノに、メローぺは絶句して目を見開く。絶望、いや、付き合いきれないとでも言うような呆れの顔。いつもの慈母の微笑みからは想像もつかない、いかにも人間らしい俗物の表情だ。メローぺにはそちらの方がよほど似合っている。一度描かせて欲しい。
状況を考えず、ただ己の欲に従うだけのティエルノに、メローぺは目を伏せる。だが何かを決意したかと思うと、また聖母の笑みを浮かべて囁いた。
「私は知っていますよ、ティエルノ様。貴方は聡明で天才で、だからこそ誰にも理解されない。貴方の傲岸不遜とも言えるその態度は、誰とも触れ合えなかった孤独の裏返し……きっと人に触れ、心を知れば、貴方は更なる高みへと行けるはずです」
「は? 何を言ってるんだ。僕は現状に満足している。孤独なんて、感じた試しがない」
「いいえ、ティエルノ様。貴方はそんな人じゃない。貴方はもっと、他人から愛されるお人柄になれるはずです。窃盗を働くなんて、貴方らしくない」
「らしくない? はっ、知り合って一年も経っていないお前に何が分かる。お前は、理想像を僕に押し付けたいだけだろう。シリウスも、アマデウスも、お前は見ちゃいない。お前が見ているのは、お前自身が抱いた理想像だけだ」
ティエルノの的確な指摘に、メローぺは何も言えず押し黙る。ただ印象をそのまま言ってやっただけなのだが、ここまで効果覿面だとは。
メローぺの極彩色の瞳には、誰の姿も映ってはいない。彼女が映しているのは理想像、その極彩色のフレームを通して見た人物像だけだ。正しい道筋だのあるべき姿だの言い張って、その型に相手を押し込めようとしている。シリウスもアマデウスも、ウォルターすらもそれに気付かず聖女の言いなりになっているのだから滑稽な話だ。
黙り込んだメローぺを見て、ティエルノはこれ以上の収穫が期待できないことを理解する。このままメローぺと無意味な言い争いを続けるくらいなら、他の題材を探しに行くべきだ。あの魔導メガネはリューズに奪われてしまったし、また一から捜索せねば。ティエルノは長い緑髪を靡かせ、くるりと踵を返した。
「これ以上は無駄だな。失礼する」
静けさに満ちた廊下から出て、喧騒に包まれた学園内へと姿を現す。堂々と振る舞い歩くティエルノに、行き交う令息令嬢はひそひそと噂した。よくも堂々としていられるわね、だの。王女殿下を敵に回すなんてどうかしてる、だの。最近はリューズやセレナの味方も多くなってきて、正直息苦しい。魔力を持たない凡愚も、理解されない精霊憑きも、身の程を弁えて大人しくしているべきなのに。反吐が出る。
あの窃盗疑惑の一件以降、ティエルノの取り巻きは一気に減少した。一時期あれだけ持て囃していた令嬢たちは距離を置き、侮蔑を込めた視線を送ってくるばかり。サロンも人が来ないものだから裸婦画が描けず、それどころか娘を題材にした裸婦画を即刻破棄せよとの申込が後を絶たなかった。後から同意を翻すなんて躾がなっちゃいない。黙認していたのはそっちだろうに。
だがここまで堕ちても尚、ティエルノには信奉者がいた。ここまでして絵画に命を捧げるなんてお美しい、という熱狂的な支持者がまだわんさかいた。己の情熱を理解してくれるなんて、まだまだ世俗も捨てたものではない。そう、この熱を理解できない凡愚などいらない。ただ理解者がいれば良いのだ。
ティエルノはあらゆる罵詈雑言もどこ吹く風と言った様子で学園内を練り歩き、絵の題材を探す。すると、ティエルノに向けられる悪意の声に混じって、どこからともなく世間話が聞こえてきた。
「ねえ、ねえ、ご存知? 教会の地下にいる、風の大精霊さまの噂」
「ええ、ええ、知ってるわ。真白の羽にふわふわの体の、大きな大きなシルフィード様でしょう?」
教会の地下にいる、風の大精霊。
興味をくすぐるその内容に、ティエルノは足を止めて聞き耳を立てる。風に乗ってどこからか流れてくるその噂は、ティエルノに聞かせるように流暢に語った。
「あんなにお美しい方は、この世のどこを探してもいないわ。どうしたら会えるのかしら」
「ダメよ、ダメよ。だって封じられているもの。あの封印は、帝国皇族と王家の血がないと開かないのよ」
「まあ! そんなの無理じゃない。マリー様でもきっと不可能よ」
「そうね、そうね。ああでも、マリー様の娘さんなら、開けるんじゃないかしら」
皇族と王家の血を引く者。マリー、側妃ローズマリーの娘─────ティエルノの婚約者、リューズ・アルバート=ワーグナー。
思わぬ人物へと辿り着き、ティエルノは口を覆う。そうか、あの凡愚な王女を使えば、絶世の大聖霊に会えるのか。今まで何の役にも立たない足枷だと思っていたが、まさか利用価値があったなんて。今すぐに連れて教会の地下に向かわねば。枢機卿である父に聞けば、封印の場所も分かるはず。この真っ白なキャンバスを埋めるに相応しい、荘厳で美しい大精霊。会わなければ気が済まない。
「このキャンバスを埋めるためにも────あの凡愚に、声をかけねばな」
魔導メガネの恨みもある。これで清算してやろう。
ティエルノはあまりにも傲慢な思いを、それと気付かぬまま抱えて笑った。




