29:王女の前の昼盗人
ここ数日、ティエルノの描く絵が話題になっていた。奇跡の再来、神童の帰還、竜珠の賜物などなど。
「分かっちゃいたが、まさか本当に盗むとはな」
校内の壁に飾りつけられた額縁を見て、オルガは口元を隠しつつ悪態をついた。
ティエルノ。リューズの婚約者であり、セレナの仇の一人。どうにかして没落させたい一人ではあったが、正直取っ掛かりを作りにくい相手だと思っていた。シリウス、アマデウスは婚約者と過去のやらかしを引っ掻き回して堕とせたが、ティエルノにはこの手が通じない。ティエルノは、失態を失態だと思わない人間だったのだ。
絵の才能は本物、しかし他の全てにおいて失格。それがティエルノの総評だった。ティエルノの周りには絵画だけを目当てに集まった人間が数多くいて、中にはティエルノ自身の性格に惚れ込んだ令嬢も少なくなかった。傍若無人で傲岸不遜、だがしかしそこが良い。人間の性的嗜好は摩訶不思議なものが多いが、これはその最たる例だ。故にティエルノはどんな我儘な振る舞いをしても、どんなに無礼な物言いをしても好意的に受け止められ、取り巻きが盛り上がって愛情を深める始末だった。これではいくら悪評を広めたところで痛くも痒くもない。
だからオルガは釣り糸を垂らすことにした。ティエルノを支えている絵画の才能、皆に慕われる画家としてのカリスマ。それを全て土台からひっくり返すために、敢えて餌を与えたのだ。物を盗まれたミルフォードには、少し申し訳ないのだが。
「しばらく様子見で……人気が絶頂期に入るまで、ちゃんと待たねえとな」
オルガは取り繕うことも忘れて、獲物を待つ肉食獣のように鋭い笑みを浮かべた。
───そして、オルガの予想に反し、絶頂期は案外早く訪れた。ティエルノは学園内に在る精霊たちを次々に描き散らし、その絵の売り上げで多大な利益を獲得した。ティエルノのサロンは連日大人気で、良縁を狙う下位の貴族令嬢たちがこぞって裸婦画の練習台になった。まだ婚約前なのに裸を見せるなんて人間の間でははしたないことのはずだが、相手が枢機卿の息子ということもあってか、親兄弟はそれを黙認していた。たかが子爵令息のサロンだと言うのに、まるで教会に集う信者のように人が群がっていく。狙うなら、今しかない。
「まあ待ちたまえ。僕にも自由というものが……ん?」
昼下がり、休憩時間。キャンバスを立てかけ、令嬢たちに囲まれ持て囃されているティエルノの前にオルガは歩み出た。とは言っても、ティエルノの元に行くわけではない。ただ自然と、さも偶然かのように前を横切るだけ。だがティエルノは目を見開き、セレナの姿をしたオルガをじっと見つめた。
オルガはそのまま足を止め、庭園の中、ふらふらと辺りを見渡す。最近はセレナの評判が上がってきたこともあってか、表立って罵ってくる人間は少なくなった。その土台があるからこそ出来る作戦だ。立ち止まったオルガへ、ひらひらと風の精霊が集まってくる。そよ風が吹き、戯れるその様はまさしく絵画。時折視線を差し向ければ、ティエルノが絵を描きたくてウズウズしていた。
そうだ、描け。衝動に負けてしまえ。ギザ歯の生え揃った口元だけは見せないように立ち回っていると、いよいよ我慢ならなくなったティエルノがバッグに手を突っ込んだ。
「こんな素晴らしい題材を前に! 我慢などできるものかッ!!」
そう言って、ティエルノはコルネイユ家の紋章が入った黒い革のメガネケースを取り出した。中に収まった、青い宝石の装飾がついた魔導メガネに、一部の令息令嬢がどよめく。ミルフォードから盗んだものだと気付いたのだろう。だがティエルノに近い令嬢たちはまるで気づかず、「眼鏡も似合っていますわ!」「素敵な装飾ですわね!」と褒めそやしていた。
魔導メガネを掛け、ティエルノが精霊と戯れるオルガを正しく認識する。ティエルノはそのまま画材をひっくり返して筆を取り出し、一心不乱に描き始めた。精霊を見つめるほどに青い宝石が輝き、その正体に気付いた令嬢たちは更にどよめく。意味を理解できない令嬢たちも流石に状況は理解できたのか、ティエルノからそっと距離を取った。
やがてティエルノの周囲に空白ができ、気付かないティエルノだけが興奮気味に筆を取る。そのティエルノの紫色の目がこちらを向いた瞬間、オルガは敢えて顔を上げた。こちらを見つめる目線に、ティエルノがドキッと心臓を跳ねさせる。だが、その目線が自身に向いていないことに気づくと、興味津々と言った様子でその先を追った。オルガが見つめている先、それはティエルノの僅か後ろ。筆を取ったまま振り向いたティエルノは、刹那、背後に立っていた人影に絶句した。
なぜなら、そこにいたのは。
「ごきげんよう、ベネディクト子爵令息。ご壮健でなにより。ところでその魔導メガネ……コルネイユ家と我が母上の生家ワーグナーの共同制作物、その試作品と見受けられますが、どこで手に入れられたのです?」
夕焼けの如く燃える髪に、王家の証である碧緑の瞳。それらを怒りに染め上げた魔導メガネの贈り主、リューズだったからだ。




