2:果報は寝て待て
「─────はっ!?」
叫んだ勢いのまま起き上がり、オルガの腕が宙を掻く。夜明け前の冷たい空気が肌を撫でて、薄く真白な雲が遥か下を通り過ぎていった。オルガは人に化けた尻の下に敷いている純白の鱗を眺め、その下で微かに揺らめく水面が通り過ぎていくのを認識して、大きく息を吐いた。
なんだ、夢か。
「どうしたんだ、オルガ? 何か変な夢でも見たか?」
「……あ、姉貴」
「うん? お姉ちゃんだぞ〜。どうかしたか?」
ドラゴンにしては間延びしていて、まるで威厳のない柔らかな声が耳をくすぐる。その声の主は、今ちょうどオルガを背中に乗せて運んでいる白い龍────姉のスイレンだ。
姉とは言ったものの、血の繋がりはない。何なら種族も、魔法の属性も違う。共通点として挙げられるのは、ドラゴンであるということだけだ。オルガは西洋竜だし、スイレンは東洋龍。表記すら違う有様だった。
ひんやり心地いいスイレンの鱗をぼんやりと撫でながら、オルガは思考する。先程の夢は、一体何だったのだろうか。
「なあ、姉貴。変な夢を見たんだけど……」
「変な夢? どういう夢だ? 内容によっちゃ、吉夢かもしれないぞ」
「アタシが悪役令嬢になって、聖女をいじめた罪で断罪されて婚約破棄される夢」
「……なんて?」
「アタシが悪役令嬢になって、聖女をいじめた罪で断罪されて婚約破棄される夢」
一言一句違わずに繰り返したオルガに、スイレンは何とも言えない反応を返す。その反応も無理はない。なにせ、妹がいきなりロマンス小説みたいな夢を見たと言い出したのだから。
ドラゴンであるオルガには悪役令嬢も聖女も婚約破棄も何もかも馴染みのない言葉だが、それが人間の庶民とやらの間で流行っている物なのは知っている。以前、人間の商人としてある国で暮らしていた時、あり得ないほどに流行したロマンス小説の中で頻出していた単語だったからだ。
オルガとスイレンは、各地を転々として生き長らえている異色のドラゴンだ。ドラゴンは通常、少ない群れで固まって生きる。だがさまざまな事情───迫害されただとか、食いっぱぐれただとか、喧嘩しただとか、縄張り争いに負けただとか───で、たった一匹で生きていくことを選択するドラゴンも少なくはない。オルガもスイレンもその内の一匹であり、二匹で旅をする内に気づいたのである。下手に山や渓谷に移り住んで魔物と縄張り争いをするくらいなら、人間に紛れて生きる方がよほど安全だと。今は次なる新天地を目指して、海を渡っているところだった。
「う〜ん……ロマンス小説の読みすぎじゃないか? ほら、前立ち寄った人間の国で流行ってて、お前もよく読んでただろう?」
「アタシも、最初はそう思ったんだけど……夢の中でアタシを断罪した聖女が、アタシの失くしたガーネットのネックレスを持ってたんだ」
「ガーネットの……ああ! 随分昔に贈った柘榴石のやつか。それなら、もしかすると予知夢を見たのかもなあ」
「予知夢?」
結びつかない単語に首を傾げるオルガに、スイレンは揚々と頷く。悪役令嬢になって聖女に断罪される夢が、予知夢。さっぱり意味が分からない。オルガはドラゴンであって悪役令嬢ではないし、ましてや夢の中で呼ばれていたセレナなんて名前でもない。あれがもし予知夢ならば、オルガはセレナとかいう人間の少女になりすまして、聖女から断罪されるということになるが───なんだそりゃ。
困惑するオルガに、スイレンは見えてきた大陸を見下ろしながら言う。
「実はあの柘榴石には、未来予知の魔法を込めていてな。お前に何かあった時にばっちり回避出来るよう、念の為に込めたんだが……その魔法が、今になって発動したのかもしれん」
「未来予知って……肝心のガーネットは、どこにあるか分からないんだぜ? それとも……あの大陸のどっかにあるって言いたいのか?」
「ああ。僅かだが近くに反応を感じる。あの柘榴石は魔力を込めると魔法が発動するから、誰かが起動させたのをオルガも一緒に見たってとこだろうな」
「それ、本当か!? だとしたら、すぐにでも取りに行かないと……!」
「まあ待て。このまま乗り込んだら騒ぎになる。どこかで適当な馬車を見繕って……そうだな、あの国に行くか」
日が昇り、雲が晴れ、眼下に国が広がる。強固な城壁に囲まれた、いかにも国ですと言いたげな土地が、オルガとスイレンを見上げていた。