10:埋もれ木に花が咲く
セレナの父親、ストライド・ルミエールは、社交界で爪弾きにされた一人だった。婚約者は当然おらず、売れ残りだと揶揄される存在であった。
何も、ただ理由なく婚期を逃したわけではない。そこにはれっきとした、忌避されるだけの原因があった。学生時代に起こした、女性問題である。
当時の竜の愛し子───当代の王妃である、レイチェル・ノワール子爵令嬢を巡る泥沼の愛憎劇。婚約者がいる立場でありながらレイチェルにうつつを抜かし、夜会のエスコートも贈り物でさえも彼女に捧げたストライドは、当然ながら婚約破棄を言い渡された。しかもそれが卒業パーティーのタイミング、十八歳になろうかという時期だったために、ストライドと婚約してくれる令嬢は現れなかった。当然の話である。誰が好き好んで、婚約者以外の女にうつつを抜かすような男と婚約するものだろうか。浮気者に娘を嫁がせる親が、一体世界のどこにいると言うのか。
だがそんなストライドにも、婚約の話が持ち上がった。ストライドと友人であり、レイチェルを巡る愛憎劇の当事者である一人───当代の王が、王命を乱発して婚約話を無理やり持ってきたのである。当人たちから見れば素晴らしい友情の話になるだろうが、巻き込まれて勝手に婚約を決められた令嬢からすれば迷惑な話である。その巻き込まれた哀れな令嬢の名は、サテラ・アルジェント。隣国の強国である帝国皇族の血筋に連なる、やんごとなき身分の御方であった。
サテラは隣国、アルコル帝国の初代女帝の遠縁である。何代も前の皇女が臣籍降下し、王国に輿入れした一家の子孫だった。故に、エルフの血を継いでいる存在でもあった。他ならぬ帝国の初代女帝が、エルフの娘だったからである。
眩いプラチナブロンドの髪に、少し尖った耳。人間とは異なる特徴を持った妻に、人間としか触れ合ってこなかったストライドは嫌悪感を抱いた。自分の都合で何の利もない婚約をさせておいて随分な話だが、バルクン王国には基本的に人間しかいないこともあって、ストライドの嫌悪は凄まじいものであった。当然、母の血を色濃く継いだセレナのことも忌み嫌い、やがて王都に愛人を作って家に帰らなくなった。
セレナの味方は、母のサテラしかいなかった。しかしサテラは生まれつき体が弱く、病を拗らせて段々と弱っていった。自然とセレナは領地に棲みついた精霊たちと関わるようになり、周囲の人間に忌避されるようになっていった。だが、そんなセレナにも転機が訪れた───エイドリアンとの出会いである。
驚くべきことに、エイドリアンの母親は帝国からの輿入れで、ドワーフの娘だった。父親のフランシス・フォーリィ伯爵が一目惚れしたためで、エイドリアンは人間とドワーフのハーフにあたる。奇しくもセレナと状況が似ていた。そして、エイドリアンの母親であるアドリアーナ・フリードとサテラは顔見知りであり、顔合わせの場がセッティングされたのである。あんな父親が持ってくる婚約話なんてロクなものじゃない、というサテラの判断によるものだった。
結果として、お見合いは上手くいった。セレナの見ていた世界に、エイドリアンが理解を示したためである。それまで孤独で、このまま閉じていくと思っていたセレナの世界に、新たな理解者が現れた。父親のように忌み嫌うわけでもなく、ただ寄り添い理解して微笑んでくれる存在は、セレナにとって初めてのちゃんとした異性であった。
『すごいや! セレナは、精霊さんと仲良くなれるんだね! みんなと精霊さんを繋ぐ、素晴らしい力だよ!』
全てを包み込む可愛らしい少年の笑みに、セレナは全てを持って行かれた。要するに、一目惚れしたのである。
そのまま、婚約話はトントン拍子に進んだ。政略結婚という目で見ても双方に利のある話で、フォーリィ伯爵家は異論を示さなかった。嫡男にあたるエイドリアンの兄は辺境伯家に婿入りする話が持ち上がっていたし、将来当主となるであろうエイドリアンにとっても、セレナは最適な結婚相手だった。
セレナはとても喜んだ。あの優しい少年と堂々と手を繋いで、同じ時間を共有できるなんて。嬉しくて、飛び跳ねてしまいそうで、こんな時間がずっと続けば良いと思っていた─────その矢先、母のサテラが亡くなった。病ではない。王宮に顔を出した帰り道、馬車ごと川に落ちて亡くなってしまったのだ。
『精霊たちが車輪にイタズラをしたんだ。悲しい事故だった』
父は言った。それは嘘だと、セレナは気づいた。
だって、だって。優しい母が、そんな目に遭うはずがない。セレナと同じように、サテラも精霊と仲が良かった。精霊は素直であけすけで、悪意を持たない。正当な理由がない限り、車輪にイタズラなんてしないのだ。何より、事故現場付近の精霊がこう噂していた。
『馬がいきなり川の方に走り出したのよ。可哀想にね、可哀想にね』
『御者に強くムチを打たれて、苦しそうに走り出していたわ。可哀想にね、可哀想にね』
『止めようと土の壁を作ったのに、それを乗り越えて行っちゃったのよ。川に用事があったのかしら。可哀想にね、可哀想にね』
セレナにとって、精霊は父親よりも信用できる存在だった。故にセレナは、父親への不信感を一層強めた。
母が死んでから、父は活力に溢れた。王都に囲っていた愛人とその間に出来た息子を屋敷に招き入れ、後妻と跡取りにした。父と後妻夫人はそれはそれはもう仲睦まじく、二人に育てられた弟のシリウスもまた、この上なく幸せそうだった。セレナは一層厭われた。離れの屋敷に閉じ込められ、簡素な食事を与えられる日々。使用人は誰一人味方にならず、セレナは一層精霊たちにのめり込んでいった。
それでもセレナが挫けなかったのは、エイドリアンがいたから。彼と結婚して家を出れば、この苦しさともお別れだと思っていたから───なのに、なのに!
『セレナ、紹介する。こちらが今日からお前の婚約者になる、第一王子のウォルター殿下だ』
父親はエイドリアンとの婚約話を無理やり破棄して、王太子との婚約を取り付けてきた。
前述した通り、父は現王妃との女性問題で、社交界から白い目を向けられていた。それは現王も同じであり、その息子の婚約話はなかなか持ち上がらなかった。第一王子となれば引く手数多なはずなのに、誰も彼もが警戒して手を引いていた。そんな折、セレナが光の魔力を発現。これ幸いと、現王は旧知の頼みで父に婚約を願ったのだ。その願いは聞き届けられた。セレナの意思を無視して。
セレナは悲しかった。エイドリアンが褒めてくれたこの力が、人と精霊を繋ぐと言われたこの力が、よりによってエイドリアンとの仲を引き裂く原因になるなんて。大事な大事な思い出を穢されたようで、セレナは三日三晩泣き暮れた。
だが父も、継母も、弟でさえもセレナの心を考慮せず、王太子妃教育という名目で王宮に閉じ込めた。邪魔者がいなくなった屋敷で、三人は幸福な家族として愛を育んだ。セレナは厳しい教育の日々に追われ、心をすり減らしていった。そんなセレナに、父親はこうも言ったのだ。
『お前には、王妃になる以外の価値はない。もし竜の愛し子に選ばれないようなことがあれば、即座にお前とは縁を切る』
セレナの味方はいなくなった。王宮には精霊すらいなくて、教育係は虚ろなセレナの扱いに困り果てている。もういっそ、このまま消えてしまおうかと。そこまで思い詰めたセレナの心を救ったのは、やはりエイドリアンであった。
彼は精霊術の一種である扉渡り───空間転移魔法を使い、王太子妃の部屋の扉と自身の屋敷の庭を繋いでみせたのである。
『ご、ごめんね、勝手なことして……でも、セラが苦しそうだってノエルに聞いて、居ても立っても居られなくて……母上と父上には、お許しをもらったから』
そう、遠慮がちに言うエイドリアンが、セレナにとっては救いの光に見えたのだ。
扉渡りは高度な術でありながら、王国において研究が進んでいない。つまり王宮の警備システムには引っかからず、セレナが部屋を抜け出していることに誰も気づかなかった。セレナはそれを良いことに、エイドリアンと秘密の逢瀬を重ねた。
精霊の棲まう庭を散策し、召使たちが喜び勇んで用意した紅茶やクッキーを食べて、他愛もない話をする。そのささやかで短い時間が、どれだけセレナの心を支えたか。その時間のおかげで、セレナの心は壊れることはなかった。この人と幸せになりたい、だなんて可愛らしい希望を抱くほどだった。その時は幸福だった。そして、そのセレナの笑顔こそが、セレナが笑ってくれる時間こそが、精霊たちにとって何よりの幸福だったのだ。




