第38話「予兆:フロスト・プレート」
朝比奈邸の朝は、年度末らしく“紙”で始まった。
プリント、封筒、提出控え。机の上に積まれた未来の残骸を、ユウトは指で揃えるだけ揃えて、結局開けられずにいた。
「……春休み、か」
口に出すと軽い。
でも、軽い言葉ほど、現実は重い。
リナがコーヒーを置く音は、相変わらず現実そのものだった。
「“休み”って言葉に騙されないで。春休みは稼働が増える。イベントも増える。支出も増える」
「休みの定義、壊れてない?」
「壊れてるのは世間よ」
プリズミア《春休み=稼働増。リナ、正しい♡》
ユウト「お前はいっつもリナの肩を持つな」
廊下の奥から、ジャージ姿のサッちゃんが飛び込んできた。勢いだけで室内の空気が一段明るくなる。
「ご主人様! 春休みです! つまり“外出任務”が増えます!」
「休みの話をしてるのに、任務になるのか……」
「はい!」
即答が怖い。
怖いが、最近のユウトはそれに救われることも知っている。
サッちゃんが机の紙の山を見て、首を傾げた。
「ご主人様、悩んでます?」
「ちょっとだけ。……“次”って、急に来るな」
サッちゃんは一瞬だけ言葉を探して、ちゃんと“人間の言葉”で言った。
「未来はわからないです。だから、今日のご主人様を守ればいいです。私、得意です」
リナが小さく頷く。
「いい助言。盛らない、さらり」
そこへ、玄関が開く音。
“余計なことの予感”は、だいたい足音でわかる。
ミナミが段ボールを抱えて入ってきた。段ボールの角がピシッと揃っている。中身が怖い。
「春休みってさ、家事の工数が上がるじゃん。だから――」
ミナミは箱を机に置き、胸を張る。
「“省エネ春休みパック”持ってきた」
ノアが後ろから入ってくる。インカム、メモ、視線。完全に安全側の人間。
「ミナミさん。申請は?」
「まだ」
「却下です」
「即死!?」
リナが淡々と追撃する。
「却下じゃない。保留。申請が通れば採用」
ミナミ「春休みの意味が……」
サッちゃんが段ボールを覗き込み、目を輝かせた。
「わあ! 便利そう!」
ノア「便利は事故の入口です」
サッちゃん「えっ」
ミナミ「えっじゃない。そこは“便利は正義”って言ってほしい」
プリズミア《便利=正義(※ただし事故る)♡》
KAIN《注記:便利は正義ではない。管理対象である》
ミナミ「監査が厳しい!」
ユウトは笑いそうになって、笑わずに済ませた。
この家のコメディは、だいたい運用から生まれる。
笑いが落ちた、その瞬間だった。
KAIN《警告:外部からの微弱電波を検知。屋敷周辺で周波数ホッピング。既知パターンと完全一致せず》
リナの表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
ノアの目が、完全に“任務”の目になる。
サッちゃんの背筋が、反射で伸びる。
ユウトだけが、一拍遅れて現実に戻る。
「……また?」
プリズミア《また♡ 春休み前に“また”だね♡》
リナ「煽らないの」
ノアがすぐに動いた。玄関、ポスト、塀際。視線が“人”ではなく“設置点”を追う。
数十秒で戻ってくる。手袋の指先に、米粒みたいな薄いシール。
「見つけました。……微小タグです」
ユウトの喉が一瞬だけ鳴った。
黒崎線。あの不快な記憶が、短い電流みたいに走る。
「黒崎か?」
ノアは首を振る。
「似ていますが、別です。貼り方が違う。…中継点を意識した位置取りです」
リナが静かに言った。
「生活圏に“混ぜる”のが上手いタイプね。」
ノアがタグをひっくり返す。裏面に、薄い霜みたいな白い粉。
サッちゃんが一歩近づき、匂いを嗅ぐ前に止まる。
最近のサッちゃんは、止まれる。
「……冷たい匂い」
声が低い。冗談じゃない温度。
リナは断言しない。
「冷却系。ダスクフロスト線“か”同系統」
KAIN《補足:検知した周波数は冷却系駆動ノイズと部分整合。確度:中〜高》
ABEL《提案:屋外導線の制限。玄関アンカー固定の確認。非常時集合手順の復唱》
ミナミが小声で言った。
「春休み、楽するどころじゃないやつ?」
リナ「今は予兆。でも備えはしておかないと」
その時、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
日常の音が、いきなり“罠の音”に変わる瞬間がある。いまがそれだ。
ノアが先に動く。
「私が出ます。皆さんは下がって」
サッちゃんが即座に言う。
「ノアちゃん、私が——」
ノア「先輩、行かせてください」
サッちゃん「……はい」
ノアがモニタを見る。宅配。制服。伝票。普通。
“普通”が一番怖い。
ドアチェーンのまま受け取り、段ボールを玄関の床に置く。
箱の角が、妙に綺麗だ。ミナミの箱と同じくらい綺麗で、だから嫌だ。
リナが一歩前へ。
「差出人は?」
ノア「商店街の印刷所名義。イベントチラシの納品とあります」
大崎会長案件に見える名義。
この街の“日常の顔”を被れる名義だ。
ノアが伝票を見つめて、短く言う。
「……伝票番号が不自然。中継が一回多い。印刷所が使わない配送ルートです」
ミナミが口を開く。
「混ぜたね」
リナ「混ぜたね」
KAIN《警告:箱内部から微弱な温度降下を検知。通常貨物と不整合》
サッちゃんの目が細くなる。
「……冷たい」
リナが手順を切る。
「開封は屋外。玄関前。ノア、距離・遮蔽・記録」
ノア「はい」
プリズミア《距離、遮蔽、記録。大人の遊びじゃない♡》
リナ「遊びじゃない」
ノアがカッターを入れる。刃は浅い。丁寧。
箱が開いた。
中身は、チラシの束。猫の日の残り香がする、春の商店街の企画書。
そして、その底に――薄い銀色の板が一枚だけ入っていた。
板の表面に、霜が張っている。
春のはずなのに。
ノアが即座に透明の遮蔽袋を広げる。
その前に、KAINの声が落ちた。
KAIN《物証を確認。物証ID:FROST-PLATE-01。通称:フロスト・プレートを提案》
ミナミ「名前ついた」
リナ「管理しやすい。採用」
フロスト・プレートの角に、レーザー刻印があった。
雪の結晶のようなマークと、短い英数字。
“合図”だ。読めなくても分かる。見せるための情報。
ユウトの背中が冷える。
見せるための合図は、だいたい“脅し”の前段だ。
サッちゃんが息を飲んだ。
「……見覚えがある」
ユウト「いつ?」
サッちゃん「黒百合の戦域で……似た温度の板を見たことが……」
リナは断言しないまま、結論だけを置く。
「“挨拶”ね。居場所を知らせろ、っていう」
KAIN《推定:受動型ビーコン。温度差と微弱電波で“存在”を知らせる誘導物》
ABEL《提案:即時廃棄ではなく、逆追跡が可能。隔離し、意図的に微弱漏洩を管理する運用が妥当》
ミナミが珍しく真顔になる。
「……温度と電波、私が解析に回れる。遊びじゃなく」
ユウトは頷いた。
「頼む。今回は“楽したい”じゃなくて、“終わらせたい”」
ミナミ「了解」
ノアがフロスト・プレートを遮蔽袋に入れ、封をする。
動きが迷いなく、早い。学生の顔じゃない。潜入の顔だ。
サッちゃんはじっと玄関の外を見ている。
視線の先は、誰もいないはずの道路。
だが彼女には“いない”が“安全”に見えていない。
ユウトは、その横顔を見てしまった。
不安と怒りと、何より「また巻き込むかもしれない」という恐怖が混ざった顔。
春休みの前に。
また、あの顔をさせるのか。
ユウトは小さく言った。
「盛らない。けど、見逃さない。そういう春休みにしよう」
リナが頷く。
「同意。今日から“春休み戦時運用”に切り替える」
プリズミア《戦時運用、開幕♡》
KAIN《記録:春休み編、開始》
サッちゃんが、声を絞るように言う。
「ご主人様。……私、守れます。今度は、守れます」
ユウトは答えた。
「うん。守る。……一緒に」
春のはずなのに、玄関前の空気は冷たかった。
でも、その冷たさが“終わりの始まり”だと、全員が理解していた。
【第38話・完】




