第36話「体力テスト・プロトコル:倒れるのは仕様外、抱えるのは許可済み」
朝比奈邸の朝は、リナの“短い紙”から始まった。
水分(先)
塩分(少)
糖分(後)
盛らない(厳守)
「……体力テストだよ?」
「体力テスト“だから”よ。倒れると苦情が出る。苦情は——」
「はいはい、コスト」
「そう」
キッチンにはバナナが二本、ヨーグルト、塩タブレット、ペットボトル。
“準備万端”の静けさがある。
サッちゃんがジャージ姿で現れ、元気よく敬礼した。
元気が、少しだけ空回りしている。
「ご主人様! 本日、体力テスト! 私が護衛——」
「護衛いらないよ。走るだけだから」
ノアがインカムを指で叩き、淡々と言う。
「本日、学校側から“外部安全運用支援”の正式依頼があります。校長決裁。須賀先生が現場責任者です」
ユウトが嫌な顔をする。
「須賀先生、門番だろ」
「門番です」
プリズミア《門番強い♡ でも今日は“公式”だから殴られないよね》
KAIN《注意:殴らない》
ABEL《提案:入構手続の完全順守。名札の表記が重要》
その「名札」が、地雷になるのは確定している。
ユウトはそういう予感だけ当たる。
出発前。玄関。
リナがバナナを一本、サッちゃんに差し出した。
「先に食べて。糖分は後じゃなく“倒れる前”に入れる」
サッちゃんは一瞬だけ固まって、笑顔で受け取った。
「はい! ……後で食べます!」
言い方が妙に速い。
ユウトは引っかかった。リナも引っかかった。
「今」
「……ご主人様の準備が先です!」
サッちゃんは即答し、ユウトの靴紐を見て、鞄を持って、タオルを確認して——動きが忙しすぎる。
戦場の癖だ。
“任務前は軽くしておく”。
それに加えて今日のルールが混ざってしまった。
リナが目を細める。
「軽くは装備の話。摂取は必要」
サッちゃんは頷くが、目が泳いでいる。
バナナは結局、ポケットに入ったままだった。
プリズミア《隠しバナナ♡ かわいいけど危険》
ユウト「危険って言えよ、最初から」
校門前。
須賀カオリが腕を組んで立っている。
「話は通ってる。だが書類が雑なら入れないぞ」
リナは来賓バッジで通過。
問題はサッちゃんの名札だった。
サッちゃん(役務:メイド)
須賀の眉が露骨に動く。
「話は通ってる。だがその肩書は通ってない。学校にメイドは来ない」
サッちゃんが慌てて言いかける。
「せ、先輩です! 戦闘——」
「言うな」ユウトが即切る。
「その単語は校門で封印しろ」
リナが無言で書き換える。
サッちゃん(役務:外部協力員)
須賀は頷く。
「よし。入れ。……余計なことをするな」
サッちゃんが元気よく返す。
「はいっ!」
ユウトは内心で思う。
(余計なことの火種、今日ずっと持ってそうだな……ポケットに)
体育館。
視線が刺さる。メイド(ではない)がいる。
メグミが“さらり”で空気を切る。
「外部安全運用支援に協力員の方に来てもらっています。学校の苦情ゼロのため。以上。みんな張り切って~」
「説明が業務資料なんだよ。助かるけど」
レオが猫耳を付けて手を挙げる。
「つまり僕は今日——」
須賀「猫耳は禁止」
レオ「えっ、僕の人格——」
須賀「人格も禁止」
プリズミア《須賀先生、強い♡》
ユウト「強いな」
握力。上体起こし。長座体前屈。
進行は順調で、レオだけが順調に死んでいた。
ただ、サッちゃんだけが、少しだけ変だった。
握力の時、手を握る前に一瞬だけ目を閉じた。
上体起こしの時、息を吐く回数が必要以上に多い。
長座体前屈の時、立ち上がる瞬間にほんの少しだけフラつく。
ユウトは気づく。
気づいたが、声を掛けるタイミングがない。
サッちゃんは笑ってしまう。
笑って誤魔化す時の笑顔だ。
リナは視線で見抜いている。
「……朝、食べた?」
サッちゃんは小さく頷こうとして、失敗する。
頷きが浅い。つまり——
「……後で、です」
リナが短く目を閉じた。
「後でが来ない顔」
地獄はシャトルランで来る。
ピッ、ピッ、ピッ。
音が速くなる。尊厳が削れる。
レオが飛ばす。
「芸術は疲れない!」
十数本で芸術が崩壊する。
須賀「校内で死ぬな」
レオ「死んでません……」
ユウトも走る。
息が上がる。脚が重い。
“やめたい”が顔を出す。
コース脇でサッちゃんが拳を握りかけて、開く。
殴らない。応援する。
「ご主人様、目線は前——」
そこで言葉が止まる。
サッちゃん自身が息を吸い損ねたのが、ユウトにも分かった。
「……っ」
サッちゃんが一歩、よろけた。
ユウトの視界に“異常”が刺さる。
「サッちゃん!」
サッちゃんは大丈夫と言おうとして、言葉が出ない。
顔が真っ白だ。
そして——膝が落ちた。
体育館の空気が止まる。
“あのサッちゃんが”という静けさが、重い。
プリズミア《倒れるのは仕様外——》
リナ「黙れ」
ユウトはコースを外れ、サッちゃんの横に滑り込んだ。
肩に手を置くが、揺さぶらない。目と呼吸を確認する。
「聞こえる? サッちゃん。目、開けられるか」
サッちゃんが小さく頷く。
頷ける。意識はある。
須賀が即座に叫ぶ。
「全員止まれ! 歩け! ラインの外!」
ノアが動線を切る。
「離れて。通路を空けて。見ないで前へ」
メグミが無表情で空気を整える。
「囲むとパニックが増えるから。散って」
(全員、仕事が早い)
ユウトはサッちゃんの背中に手を入れ、上半身を“支える”。
抱えるでもない、放すでもない。
ちょうどいい角度を探す。
「息、合わせよう。吸って……吐いて……」
サッちゃんの唇が動く。
「……ご主人さま……」
呼べた。
それだけで、ユウトの心拍が落ちる。
守る対象が、まだここにいる。
リナがしゃがみ込み、速い声で刺す。
「朝、何も食べてないね」
サッちゃんが弱々しく返す。
「……盛らない、って……」
「盛らないは“虚勢”。あなたは“燃料”」
言い切って、リナが糖タブレットを出す。
「噛める?」
サッちゃんが頷き、ゆっくり口に入れる。
ABEL《提案:水分は意識が安定してから。糖分は少量で》
KAIN《推奨:体勢安定、周囲クリア、過換気抑制》
ノアが保健室へ走る。
「担架、要請します」
サッちゃんの目が少しだけ戻る。
そして、申し訳なさで揺れる。
「……任務、失敗……」
ユウトは即答した。
「失敗じゃない。倒れる前に止めた。守れた。十分だ」
サッちゃんの目が丸くなる。
守る言葉が、ちゃんと刺さった顔だ。
ここでレオが最悪のタイミングで言う。
「僕も抱えられたい!」
須賀「黙れ」
レオ「はい……」
笑いが落ちて、空気が少し戻る。
救護の邪魔をしない範囲の笑いは、正しい。
正直レオに救われた。
担架が来る。
ユウトは最後までサッちゃんの手を離さない。
担架に乗せる直前、サッちゃんが小さく指を握る。
「……ご主人様……」
「ここにいる。大丈夫」
サッちゃんはそれで、ようやく息を抜いた。
須賀が短く言う。
「続行はしない。今日はここまで。……外部協力員」
サッちゃんがいない場所を見て、須賀は続ける。
「倒れたのは失点。だが現場対応は合格だ」
リナが頷く。
ノアが頷く。
メグミが記録を閉じる。
ユウトは息を吐く。
プリズミア《ユウト、救護で主人公ポイント加点♡》
ユウト「加点とか言うな」
保健室。
サッちゃんはベッドで回復し、顔色が戻っていた。
ユウトが入ると起き上がろうとして、ユウトの目で止まる。
「ご主人様……迷惑を……」
「迷惑じゃない。俺の役目だ」
サッちゃんが小さく笑って、すぐ真面目に戻る。
「……抱えてくれた時、安心しました」
ユウトは言葉に詰まる。
これは運用じゃない。
「……焦った」
それだけ言って、視線を外す。
サッちゃんが小さく言う。
「……嬉しいです」
盛らない。さらり。
でも、落とさない。
プリズミア《進展ログ:一段♡》
KAIN《同意:進展は一段》
ユウト「ログにするな!」
【第36話・完】




