第32話「サッちゃんのバレンタイン作戦」
その日朝比奈邸のキッチンは静かすぎた。
鍋の湯がふつふつ言う音だけが、戦場よりずっと怖い。
プリズミア《もうすぐイベント:バレンタイン。失敗条件:焦げ・分離・厨房戦域化。》
「厨房戦域化はしません!」と言い返す声が、少し上ずる。
KAIN《制約提示:構造被害ゼロ。火災リスク最小。増殖系結晶の使用禁止。》
「結晶は……使いません……!」
言いながら冷蔵庫の奥にあるケースが目に入る。FOAM-ε。
“使えば楽”が、悪魔みたいに笑っている。
作業台に箱が置かれた。ミナミだ。
箱のラベルが妙に物騒で、思わず二度見する。
「チョコは実験だよ。温度、時間、混入、全部。ね、サッちゃん」
ミナミはいつもの軽さで言って、タクティカル・レンズを持ち上げる。
「いりません!」
反射で拒否するサッちゃんに、ミナミは笑って引っ込めた。代わりに温度計とタイマーを出す。
「じゃあ、普通の科学で勝とう。人力で料理だよ」
プリズミア《普通の科学、最高。地味が最強。》
そこへ、足音。ノアがインカムとメモを片手に入ってきた。目が鋭い。けれど、ボウルを見るとほんの一瞬だけ眉がゆるむ。
「先輩。来客です」
「来客!?」
「黒百合から灰島ツバメと、ロレンス・ウィンダミアです。屋敷警護の経過観察、という名目で」
その名を聞くと、背筋が勝手に伸びる。
灰島ツバメ――数字と想いの境界線を踏み抜いてくる査察官。
ロレンス――外部監査の顔で、黒百合の文脈も知っている男。
ノアは声を落として付け足す。
「先輩は……そのまま続行で。わたしが迎えます」
“そのまま”が許されることが、妙に心強い。
サッちゃんはボウルを抱え直した。
「……はい。任務、続行」
玄関では、灰島ツバメが靴を揃える所作だけで空気を整えていた。
音がしない。視線がまっすぐで、死角を撫でるように見ている。
「今日は査察じゃないわ。経過観察で来たの」
そう言いながら、廊下の角と天井の影を一つずつ拾う。
ロレンスは肩の力が抜けた笑い方をする。
「屋敷の匂いが変わったね。甘い感じがするね」
ノアが即答する。
「厨房です。現在、先輩が“危険物”を製造中です」
「危険物じゃありません!」
厨房から叫び声がする。
灰島はほんの少しだけ口元を緩めた。
「甘味は人を壊すわ。ある意味、危険物ね」
ロレンスが軽く肩をすくめる。
「この家では物も壊れるかもな」
ノアがメモを取りながら本題へ戻す。
「最近変わったことがありました。プリズミアに外部アクセス痕跡の疑いと、屋敷にダスクフロストの息が掛かった者の侵入です」
灰島ツバメは頷く。
「直接乗り込んでくるなんて、ずいぶん物騒ね」
ロレンスは続ける。
「ただ、何もないってことは君たちで解決できたんだろう?」
ノアが顔を上げる。真面目な目だ。
「はい。問題ありません」
一瞬の沈黙。
ロレンスが小さく笑った。
「いいね。……ノアを常駐させて良かったよ。ミナミ博士もいるし
しばらく様子見でいいかもね」
KAIN《注記:内部崩壊は外部侵入より致命。優先度:高。》
ツバメの視線が、キッチンへ一度だけ滑った。
「……料理は誰が?」
「先輩とミナミ博士です」
「なら、手伝うわ」
ノアが一瞬だけ固まる。
「警護相談中ですが」
「この家は過剰戦力よ。今のままで問題ないわ。でも厨房はこのままだと
吹っ飛ぶかも」
キッチンに入ったツバメは、袖をまくって言い切った。
「壊さない。焦らない。盛らない」
サッちゃんはほっとしたように頷く。
“壊さない”が、ここでも合言葉になった気がした。
ツバメは鍋を覗き、温度計を一度見て、即断する。
「火、弱く。湯煎は優しく。溶かすのは八割。残りは余熱で溶かすの」
「余熱で……」
サッちゃんが繰り返す。
「ゆっくり慌てずに」
ツバメの言い方は、料理の話なのに屋敷の運用そのものだった。
ミナミが目を輝かせる。
「テンパリングの哲学だ……!」
プリズミア《哲学、出ました。だいたい美味しいやつ♡》
その時だった。
サッちゃんが混ぜる手を少し早めた瞬間、ボウルの表面が“ざらっ”とする。
艶が、死んだ。
サッちゃんの顔が青くなる。
戦闘では見せない種類の絶望が、目に浮かぶ。
「……固まった!? ご主人様に……!」
ミナミが息を呑む。「シーズ……(分離)しかけてる」
ツバメは焦らない。声だけが低くなる。
「止めて。混ぜるないのよ。まず、呼吸」
サッちゃんが息を吸う。浅い。もう一度。深く。
手を止めるのが怖いのに、止める。
灰島「温度が上がりすぎたのね。ここからは力じゃなく手順を加えるわ」
ミナミ「シード、入れよう。固形チョコを少し、種にする」
サッちゃんが震える指で固形チョコを割りかけて——止まる。
割り方が乱暴になりそうだと、自分で気づいたから。
「……ゆっくり慌てず」
小さく呟いて、落ち着いた割り方に変える。
その“自分で戻れる”ところが、今日の一番の成長だった。
KAIN《監査:適切。力任せの破砕を回避。》
ボウルへ種が落ちる。
サッちゃんは言われた通りに、ゆっくり、ゆっくり混ぜる。
艶が、少しずつ戻ってくる。
ミナミが囁く。
「ほら、戻ってる。やったねサッちゃん」
サッちゃんの肩が、ほんの少し下がる。
「……勝ってる……!」
プリズミア《小事故→立て直し→成功。ラブコメの王道進行だね♡》
型を出す。ハート型。普通の。
サッちゃんが定規を取り出しかけて、やめた。
それが、妙に格好いい。
ツバメがそれを見逃さずに言う。
「角度はいい。今日は温度に勝った。十分よ」
サッちゃんは頷いて、型へ流す。
ゆっくり。落ち着いて。艶を守るように。
廊下の方では、ノアとロレンスの声が途切れ途切れに聞こえる。
警護の話は続いている。だが、キッチンの緊張を邪魔しない距離感が保たれている。
ツバメが静かに言った。
「成功条件は一つ。あなたが壊れないことよ」
サッちゃんは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
許可をもらったみたいだった。
冷却の時間。
待つ時間。守る時間。
サッちゃんは型を見つめすぎて、ノアに咳払いで注意される。
「先輩、視線圧が強いです。固まりません」
「……すみません!」
ロレンスがキッチン入口から覗いて、笑う。
「屋敷のセキュリティ、結局ここだな」
ノアが真顔で返す。
「はい。先輩がご主人様に渡す時が、最大リスクです」
プリズミア《最大リスク=最大尊さ。ログ確定♡》
ABEL《注意:床の滑り。滴下時、転倒リスク上昇。》
ミナミが小声で言う。
「現実担当、仕事しすぎ」
型から外す瞬間。
サッちゃんは息を止めた。
ぱき。
綺麗に外れる。艶がある。割れていない。焦げていない。爆発していない。
そしてさっきの“小事故”が嘘みたいに、ちゃんとチョコの顔をしている。
KAIN《監査:成功。構造被害ゼロ。火災リスクゼロ。》
プリズミア《成功! ここからが本番だよ。渡す時が一番ドキドキする♡》
サッちゃんは両手でそれを持ち、胸の前へそっと寄せた。
盾みたいに。大事なものを守る姿勢で。
「……ご主人様、喜んでくれるかな」
ツバメが静かに言う。
「喜ぶ。だが、味より先に、あなたの顔を見る。そこが一番効く」
サッちゃんは照れて、でも逃げずに頷いた。
ノアがインカムを軽く叩く。
「明日うまく渡せるといいですね」
「ありがとう、ノアちゃん」
「……ご主人様の笑顔、守ってください」
「任せて!」
ロレンスとツバメは玄関へ向かいながら肩越しに言った。
「君たちの“家”は強い。設備じゃない。——人が強い」
「サッちゃん、頑張ってね。でも私は今のサッちゃんなら一人でも作れると思うわ」
サッちゃんはチョコを胸に抱えたまま、深く息を吸った。
「やってみます。ありがとうございます」
「サッちゃん、成長してるね。わたしも応援するよ」
ミナミの目に光るものが。
悪戦苦闘の末、サッちゃんは一人で完成させた。
黒いハートのような塊を。
「出来た…。どうですミナミさん。美味しそうでしょ」
「いや、どうやったらそうなるのよ。味見しなくていいの?」
「さっきツバメさんと作った分は誰かに味見してもらいましょう」
サッちゃんの心は弾んでいた。
「この間サッちゃんに会いに来たレオって子にあげよう。めちゃくちゃ喜ぶと思うよ~。年頃の男の子なんてお姉さんにイチコロよ」
二人の楽しそうな声が厨房に響いていた。
【第32話・完】




