第30話「リナの本領:家計監査と“ごほうび予算”」
朝比奈邸の朝は、だいたい二種類に分かれる。
「事件が起きる朝」と、「事件の後始末が残る朝」だ。
そして今朝は、後者だった。
リナはダイニングの席に静かに座り、テーブルに領収書を綺麗に並べていた。紙の角がきっちり揃っているだけで、空気が一段引き締まる。台所の隅でユウトがインスタントコーヒーを淹れながら、胃のあたりをさすっているのが見えた。
「……それ、怒ってるやつ?」
「怒ってないわ。監査してるだけ」
リナは抑揚のない声で言い、ペン先を軽くトントンと紙面に落とした。
そこへ、サッちゃんが勢いよく入ってきた。エプロンを着けたまま、腕まくりをしている。
「よしっ! 節約します! 今日から朝比奈家は“質実剛健”です! まずは電気代! 全部消します!」
「朝ごはん作ってる途中で全部消すのは、質実剛健じゃなくて遭難よ」
リナは淡々と止める。
サッちゃんがむっと頬を膨らませる。
「でも! リナさんがそんな怖い顔してるってことは、お金が……!」
「怖い顔じゃない。平常運転。――ユウト、全員呼んで。ミナミもノアも」
「はいはい……朝比奈家、緊急招集っと」
ユウトが廊下へ声を飛ばすと、地下ラボからミナミが顔を出し、屋根裏から忍びの気配でノアが現れた。ノアは足音が無いのに存在感だけがやたら大きい。長身で凛としているのに、寝癖が一本だけ天に向かっているのが惜しい。
「呼びましたか。……敵襲ですか?」
「家計襲来よ」
リナが言うと、ノアが一瞬だけ真顔で頷く。
「なるほど。私が斬ります」
「斬らなくていい」
ミナミは椅子の背に肘をつき、ニヤニヤしていた。
「へえ、監査かぁ。リナさんって“数字で人を黙らせる”才能あるよね」
「黙らせたいわけじゃない。健全運用に戻したいだけ」
そのとき、キッチンの隅にホログラムがふわりと立ち上がる。
《家計監査モード起動。支出傾向:急上昇。原因:修繕・実験・牛乳》
KAINの淡々とした報告に、サッちゃんが目を丸くした。
「ぎゅ、牛乳も!?」
ユウトが小さく手を挙げる。
「……あれ、俺も悪いと思ってる。最近みんな頑張ってるし、つい買い置き増やして」
ミナミが即座に乗る。
「ユウト、牛乳は正義。タンパク質は裏切らない」
ノアが腕組みをして、うんうんと頷く。
「任務には栄養が必要です」
「ほら、正当化の合唱が始まった」
リナは一枚の紙を持ち上げた。そこには丁寧に項目分けされた一覧がある。まるで業務報告書だ。
「現状。固定費と変動費が分離できていない。突発支出のたびに財布が殴られてる。――あと、ミナミ。工具と素材の“試作”が多い」
「科学の進歩には犠牲が必要だよ?」
「犠牲にされるのは家計よ」
リナは視線だけで黙らせ、次にノアを見る。
「ノア。忍具の補充、なぜ“高級手裏剣セット”なの」
ノアがきりっと胸を張った。
「見栄えが良いので」
「忍びが見栄えを気にしないで」
サッちゃんが手を挙げる。
「リナさん! じゃあ、こうしましょう! 節約の基本は“交渉”です! わたしが電力会社に――」
「拳で交渉する気でしょ」
「しません! しませんよ!? ……たぶん」
ユウトが即座にストップをかける。
「たぶん、の時点でダメだ」
リナは一息ついて、紙を一枚めくった。
「結論から言う。今日から運用ルールを決める。朝比奈邸は“住居”じゃなくて、半分基地で半分修羅場。なら、家計も基地運用にする」
テーブルの中央に、リナが小さな封筒を置く。
「“ごほうび予算”。月に一回、少額だけ“幸福に使う費用”を、最初から確保します」
一瞬、全員が固まった。
サッちゃんが小さく首を傾げる。
「えっ……節約なのに、ごほうび……?」
「節約だから、よ。締めすぎると反動で爆発する。朝比奈邸は、爆発が一番高くつくの」
ミナミが吹き出した。
「確かに。爆発は修繕費に直結するもんね」
ノアが珍しく素直な顔で頷く。
「理解しました。士気は戦力」
リナは淡々と続ける。
「固定費は固定費として管理する。修繕費は“積立”。実験費は“上限設定”。食費は“週次管理”。そして、最後に――この封筒。ごほうび予算は、誰かのために使ってもいいし、自分のために使ってもいい。ただし、用途は“みんなが笑えること”」
サッちゃんが目を輝かせた。
「じゃあ、みんなで銭湯行けます! 牛乳も飲めます!」
「それは良い。が、銭湯でのれんを伸ばすのは禁止」
「えっ、なんでですか!」
「説明しない。禁止」
ユウトは思わず笑ってしまい、すぐに咳払いで誤魔化した。
「……リナ、助かった。正直、俺一人じゃ回らない。こういうの」
リナの手が一瞬だけ止まった。表情はいつものまま――のはずなのに、視線がほんの少しだけ泳いだ。
「業務です」
そう言ってから、リナはわずかに口元を引き締めた。逃げ切るには、感情がちょっとだけ前に出ていた。
サッちゃんが、にやにやしながらユウトの方へ体を寄せる。
「ご主人様、今、リナさん照れてましたね?」
「……見てない。俺は何も見てない」
「見てましたよ」
「見てないって」
リナが咳払いを一つ。
「……話を戻すわ。今日の“ごほうび予算”の初回運用。試験的に、今週だけ小額を先出しします。用途は――」
そこへ、玄関の方から呼び出し音が鳴った。固定電話の番号表示が光る。
リナが受話器を取る。
「はい、朝比奈邸です。……大崎会長。お世話になっております」
一同の空気が、すっと“町内会モード”に切り替わる。朝比奈家のもう一つの戦場だ。
受話器の向こうから、張りのある声が聞こえる。
「おう、椎名さんか! いやぁ助かるよ。年明けから行事が立て込んでてな。節分と、バレンタインと――人手が足りん!今回もみんなの力を貸してくれないかな」
リナは即座にメモを取り始める。
「節分は会場設営と導線管理、バレンタインは商店街企画の安全運用と――関係各所調整。承知しました。優先順位を整理して、今日中に担当割りを提示します」
サッちゃんが横で、小声で燃え上がる。
「豆まき……! 拳で豆を――」
リナが無言で睨む。
「……投げます。ちゃんと、投げます」
ノアがひそひそと囁く。
「豆は暗器として有効です。任せてください」
「任せなくていい」
ミナミが面白そうに頬杖をつき、口だけ笑う。
「バレンタインは、絶対トラブル起きるね。甘い香りは結晶……じゃなくて、プリズミアの変な反応を呼びそう」
《提案:甘味イベントに備え、“恋愛感情擬似波形”の監視閾値を引き上げます》
プリズミアの声が、《》でダイニングに響いた。箱の中のAIが、妙にやる気を出している。
ユウトが天井を仰いだ。
「……平穏って、どこで売ってるんだろうな」
リナは受話器を置き、全員を見回した。
「ということで。次の案件が来た。朝比奈邸は、忙しくなる。だからこそ――家計は整える。士気も整える。やるわよ」
サッちゃんが勢いよく立ち上がり、拳を握った。
「はいっ! わたし、節約も行事も、全部守ります!」
「拳じゃなくて、財布を守って」
「財布も守ります!」
ノアが真顔で頷く。
「了解。護衛対象:家計」
ミナミがにやりと笑う。
「じゃあ私は、ごほうび予算で“皆が笑えるもの”を一つ作ろうかな。危険じゃないやつ。……たぶん」
「たぶん、はもう禁止」
リナの一言で、全員がなぜか背筋を伸ばした。
その瞬間だけは、朝比奈邸の全員が同じことを思った。
――この家の秩序は、リナが作っている。
そして、その秩序があるから、今日も笑って生き残れる。
《家計健全度:上昇予測。幸福度スコア:微増。――なお、節分・バレンタインにより乱高下見込み》
プリズミアの淡々とした予測に、ユウトは小さく笑ってしまった。
「……乱高下、か。まあ、いつも通りだな」
リナは最後に封筒を指で軽く叩く。
「いつも通りで終わらせない。“いつもより少しだけ良い運用”にする。――それが私の仕事」
「業務です、って言わないんだ」
ユウトがぼそっと言うと、リナは一瞬だけ目を伏せた。
「……業務よ」
でもその声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
【第30話・完】




