第29話「朝比奈邸・勉強会と、嵐の付き人」
朝の教室は、だいたい戦場だ。
銃弾は飛ばない。爆発もしない。――代わりに、英語長文がじわじわ心を削ってくる。
「来週は小テスト週間だ。提出物もあるからな。落とすなよー」
担任の声が、黒板の文字より先にユウトの胃に届く。
英語は嫌いじゃない。単語も文法も、努力すればちゃんと応えてくれる。
ただし長文、お前は別だ。ページの後半に行くほど意味が蒸発するのは仕様なのか。
ユウトが机に肘をついたところへ、背後から妙に整った声が降ってきた。
「朝比奈くん。君の眉間は、すでにテスト前の顔になっている」
振り返ると、嵐山レオ。
背筋は直線、笑顔は標準装備、存在感は気圧配置。いるだけで空気が“整う”のに、整い方がうるさい。
隣のメグミが、前を向いたまま小声で言う。
「ユウト、覚悟して。嵐が“優しさ”を装うときが一番厄介よ」
「装ってないさ。僕はいつだって誠実だ。自分に対しても」
「そこが厄介って言ってんの」
レオはユウトのプリントを一瞥し、まるで天気予報みたいに言い切った。
「英語長文。苦手なのかな?」
「……うるさい。顔に出すな」
「出てる。苦手分野に入ると、君は自己肯定の光量が落ちる。僕は自己肯定感の光量に敏感なんだ」
「敏感になるなよ」
レオは得意げに胸に手を当てた。
「放課後、勉強会を開こう。僕が教える。君は助かる。僕は美しい」
「最後の一文は要らない」とメグミが即座に切る。
ユウトは反射で断りかけて、ふと先日の“跪き事件”を思い出した。
レオはサッちゃんに絡む。絡むのは確定しているなら、校内で自由行動させるより、朝比奈邸に呼んで監督下に置いた方が被害は少ないだろう。たぶん。
理性はそう言った。胃は泣いていた。
「……分かった。場所は、うちでな。リナの条件を飲めよ」
レオの目が少しだけ輝く。
「条件、いいね。ルールがあると燃えるからさ」
「燃えるな。勉強しに行くんだよ」
放課後の朝比奈邸。
門の前に黒塗りの車が静かに止まり、レオが降りた。その半歩後ろに、黒い手袋の男が続く。所作が完璧すぎて、背景に溶けこむタイプだ。
「嵐山家執事の黒崎と申します。本日は坊ちゃまの送迎と学習補助で参りました」
レオが涼しい顔で言う。
「僕は努力家だから、環境整備にも投資するんだ」
「努力の方向性が企業だな……」とユウトが言い終える前に、玄関が勢いよく開いた。
「ご主人様! 勉強会と聞いて参上しましたっ!」
サッちゃんが飛び出してくる。目がキラキラしている。勉強会なのに。
レオの表情が明るくなる。だが今日は跪かない。距離も詰めない。ルールを守っている。偉い。怖い。
「サーシャ嬢。今日も素晴らしい。学ぶ姿勢そのものが美しい」
「えへへ……ありがとうございますっ!」
その“えへへ”が、なぜかユウトの胸の奥をむずむずさせた。
むずむずするな。今日は英語だ。英語をやれ。
そこへリナが現れる。シンプルなカーディガン姿でも、“しっかり者の圧”は減衰しない。手にはトレーとティーカップ。もう勝ってる。
「勉強会の運用ルールを先に言うわ。
1.騒がない。2. 感情で進めない。3. 記録は本人同意の範囲。4. 破壊しない」
「最後おかしくない?」
「この屋敷では必要よ」
テーブルの上で、金属箱がカチャリと鳴った。
《プリズミア:レオさんやっほー‼わたしに会いに来てくれたのよね‼》
「申し訳ないけど、今日は勉強会に来たんだ、プリズミア嬢」
《プリズミア:残念、でもわたしはいつでも大歓迎よ》
「あんまり余計な事言うなよプリズミア」
《プリズミア:ご主人様ちょっと妬いてる?》
「うるさい」
地下からミナミの声が飛ぶ。
「わたしの“学習効率3倍装置”使う?」
「却下」とリナが即答した。
「うわ、即死判定」
黒崎は静かにお茶を準備し、何も言わずに壁際に立つ。完璧な執事の顔。
それが“普通”のはずなのに、この家では、普通が一番怪しく見える。――いや、疑心暗鬼になるな。英語だ。英語。
勉強会は意外なほど普通に始まった。
悔しいけどレオは教えるのが上手い。説明が論理的で、例示が適切で、声がやたら聞き取りやすい。腹立つくらい優秀だ。
ユウトが引っかかっていた段落が、レオの数行で急に読めるようになる。悔しい。助かる。悔しい。
「朝比奈くん。長文は“構造”だ。主語と動詞をまず抜く。次に接続詞。感情は最後」
「悔しいけど、わかりやすい」
サッちゃんも真面目に参加しているのに、時々致命傷を出す。
「ご主人様! この ‘however’ は “ハウエバー” なので、たぶん強いです!」
「強いって何」
「強い逆風です!」
「逆風は間違ってないけど意味が違う」
サッちゃんがしょんぼりする前に、レオが柔らかくフォローする。
「いい視点ですね、サーシャ嬢。接続詞は風向きだ。君は直感で掴んだ」
「えへへ……!」
その“えへへ”に、ユウトはペンを握り直した。強く。無駄に。
リナは淡々と場を整える。
「レオくん、例文は短く。サッちゃん、褒められても暴走しない。ユウト、眉間を解放」
「眉間を解放って何」
「固すぎる。肩も何もかも」
プリズミアが余計な追記をする。
《プリズミア:朝比奈ユウト、眉間皺指数:高》
「指数を増やすな」
笑いが起き、空気がほどける。
“普通”だ。普通の勉強会だ。たぶん。――今のところは。
その時廊下の端では
黒崎が、静かに廊下の奥へ歩いていた。
お茶を運ぶでもなく、掃除をするでもなく、ただ迷わずに。家の構造を探っている歩幅だ。
突き当たりの小部屋。配電盤とルータのある場所。
鍵はかかっているはずだった。だが黒崎の指先が扉の縁をなぞると、錠が一度だけ乾いた音を立てて外れた。
――音が小さすぎる。
丁寧というより、習慣。
黒崎は黒い手袋のまま、胸ポケットから薄い端末を取り出した。名刺より薄い。爪より冷たい。
配線束へ当てた瞬間、霜のような光が這う。被膜を舐め、床へ落ち、廊下に薄い膜を作る。
踏めば滑る。踏まなくても、足音が狂う。
「……坊ちゃまには、不要な刺激を見せたくないからな」
独り言にしては淀みがない。
次の端子へ手を伸ばした、その時。
「そこまでだ」
影が立った。ノアだ。
普段は融通が利かなくて残念なのに、今は目の焦点が一点に固定されている。相手の喉じゃない。手元だ。
「貴様の動きは、屋敷の運用ルールにない」
黒崎は驚かない。顔色も変えない。
目線だけを上げ、ノアの姿勢を測る。
「護衛ですか。黒百合の」
「質問はこちらからだ。貴様、どこの息だ」
黒崎は返事の代わりに、端末の縁を指で弾いた。
霜の膜が濃くなり、床が“氷”になる。空気まで冷える。呼吸が一拍遅れる。
ノアが踏み込もうとして――足先がほんの一瞬滑った。
「っ……!」
そこを黒崎が逃さない。
黒崎は一歩も急がず、ノアの死角へ滑る。狙いは首じゃない。ノアの腰の小物袋。回収の手。仕事の手。
(綺麗すぎる……!)
ノアは滑りを“失敗”で終わらせなかった。
体勢を沈め、その勢いのまま半回転。黒崎の手首にだけ、ピンポイントで当て身を入れる。
乾いた音がする。
端末が床に落ちた。
黒崎の指が一瞬痺れ、動きが止まる。止まるが崩れない。
反撃は最小。黒崎はノアを殴らない。視界を奪うだけ――袖口から粉末状の霜を散らす。
白い粒が舞う。目に入れば終わり。
ノアは息を止めて煙玉を投げた。
……投げたはずが風向きが悪い。自分が一番吸った。
「げほっ……!」
残念。実に残念。
だが、その咳き込みの中でノアは“やるべきこと”だけをやった。
黒崎の足元へ、薄い線。
砂鉄を撒き、微細な抵抗を作る。踏み込みに半拍の遅れを生む、忍びの雑な罠。
黒崎の動きが、半拍だけ遅れた。
その半拍で十分だった。
ノアは端末を拾い、即座に懐へ入れる。奪うのではなく回収。勝つのではなく阻止。
欲張らない。欲張ると表の平穏が壊れる。
黒崎が低く言う。
「……こんなところで邪魔されるとは。黒百合の忍び」
「ここは常駐だ。手を出すことは許さん」
ノアは距離を詰めない。追わない。追えば黒崎の撤退戦に巻き込まれる。
黒崎は端末を失ったことを悟り、ほんの僅かに肩を落とす。落とすが、それすら演技みたいに綺麗だ。
「風の噂です。――“ダスクフロスト”が近い」
ノアが目を細める。
「朝比奈邸にちょっかいをかけないことだ」
黒崎は返さない。
返す代わりに、廊下の灯りが一瞬だけ揺らぐ。霜の粒が舞い、視界が白いノイズになる。
そして黒崎は消えた。扉が閉まった音すらしない。
冷えだけが残る。
ノアは咳を飲み込み、端末を一瞬だけ確かめた。表面に薄い刻印。
――D.F.
(笑えない。ロレンスに連絡しておくか)
端末を懐にしまい、衣服の埃を払う。
顔はいつも通り真面目。目だけが冷たい。
「……次は、足を滑らせない」
何事もなかった歩幅で、ノアは戻っていった。
勉強部屋では、“普通”が続いていた。
ユウトが設問を一つ解き、珍しく正解する。
「……よし」
サッちゃんがぱっと顔を上げる。
「ご主人様、できましたっ! すごい!」
「……たまたまだ」
「たまたまでも、すごいです!」
その言い方が、素直すぎてずるい。
ユウトは視線を逸らし、ペン先をトントンと鳴らした。落ち着け。英語だ。
黒崎が戻ってきた。
何も言わず、レオの背後に立つ。さっきまでの冷たさは完全に仕舞われている。執事の顔だけが残る。
レオは一ミリも疑わない。
ただ、いつもの微笑みで言った。
「黒崎、時間管理をありがとう」
「はい、坊ちゃま。滞りなく」
ユウトは、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
根拠のない違和感。だが今は、問題文の方が目の前にある。
リナがカップを置き、淡々と宣言する。
「休憩終わり。次の段落。ユウト、主語を抜く。サッちゃん、“逆風”は忘れる。レオくん、褒めすぎない」
「褒めすぎないのは難しいな」とレオが言い、サッちゃんが赤くなる。
ユウトの胸の奥が、またモヤッとする。
モヤッとに名前を付けたら負けだ。そう思うのに、付けたがっている自分がいる。
レオは距離を守ったまま、サッちゃんに言う。声がまっすぐで、余計に厄介。
「サーシャ嬢。僕は君が好きだ。――それは変わらない」
サッちゃんが固まる。
ユウトのペン先が止まる。
リナだけが運用の顔で空気を整える。
レオはユウトへ向き直った。
「朝比奈くん。君が主人で、君が彼女を守っていることも理解した。
それでも――僕は僕のやり方でサーシャ嬢を好きでいる。それだけは譲れない」
名台詞が、綺麗に落ちた。
サッちゃんは赤くなる。ユウトは焦る。プリズミアが《尊い》と言いかけて沈黙する。
ユウトは一拍置いて、平坦に返した。
「……勝手にすれば。
ただし、うちのルールは守れよ。廊下で跪くのは禁止。家で嵐を起こすのも禁止だ」
レオは微笑む。
「了解。僕は嵐だが、屋根は飛ばさない」
リナが即座に締めた。
「結論。勉強会は継続ね。来訪者は事前認証。同行者の扱いは――今後、追加の確認が必要になるかもね」
“かも”が、リナの最大限の警戒だ。
だが彼女はまだ何も知らない。見ていない。気づいていない。
それでいい。今は“普通”が勝つ回だ。
プリズミアが、最後に一度だけ言った。
《プリズミア:本日の学習です。勉強は、恋と一緒に来る》
「最悪の教材だな」とユウトが苦笑すると、サッちゃんが小さく笑った。
夜はいつも通り騒がしく、そして少しだけ前に進んでいた。
廊下の奥、誰にも見られずに回収された端末だけが、冷たく沈黙していた。
【第29話・完】




