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サイドストーリー10 灰島ツバメ監査覚書 「秤は嘘をつかない──それでも」

私は前夜、いつものように道具の点検を終えた。

白手袋の替え、無音スリッパ、繊維判定ルーペ、表面温度計、香りサンプラー。どれも私の“秤”だ。秤は嘘をつかない。人の好意が揺れても、数値は揺れない。そう教えられて、そうやって勝ってきた。


――そして、朝比奈邸の玄関ベルを押した瞬間、秤は初めてノイズを拾った。


「ご来訪ありがとうございますっ! 本日は全身全霊でおもてなしをっ!」


金髪のメイド、サーシャ嬢。通称サッちゃん。元《黒百合》。

玄関で一礼する仕草は、ぎこちなくも真っ直ぐだ。背後のスピーカーが即座に応じる。


KAIN《来客認証完了。手順0:壁を壊さない。手順1:天井を壊さない。手順2:床を壊さない》


優れた手順だ、と頷いた三十秒後――リビングの天井材が「こんにちは」と顔を出し、青年(朝比奈ユウト君)の「おいぃぃ!」が木霊した。

評価:手順は完璧、実行者が元気。


一、掃除査察――地震計が要る


私は静音掃除機で埃の層を薄紙のように剥がし、抗菌クロスで手触りを“ガラスの音”に揃える。

ハウスダストは基準値の1/100。掃き目のピッチは均一、毛足は立てない。ここまでが教科書。


対するサーシャ嬢は、見たことのない回転兵器めいた掃除機を肩に担ぎ――


「テッケン回転掃除機、発進っ!」


床は揺れ、柱は唸り、天井の一部が再び「こんにちは」。

私は持参の名刺(耐衝撃仕様)を胸ポケットでそっと押さえた。


KAIN《損害推定額:230万円(※うち“プライスレスな心”を含む)》


……その内訳、基準書に載せてはだめ。


だが、壊す手が怯えではなく守るための本能で動いていることも、私は見逃さなかった。


二、料理査察――温度が育てるもの


私のやり方は単純だ。出汁を組み立て、温度を刻み、火を育てる。

低温で火入れした鶏肉は中心温58℃を維持し、スープは香りの層が静かに重なる。


彼女は火を殴って従わせる。トマトは太陽黒点、ナスは隕石。

――けれど、皿の端に置かれた唐揚げだけが、やけに正確だった。油温の揺れが小さい。衣の水分がうまく抜けている。対象は、朝比奈君。理由は、見れば分かる。


秤はこう記す。「味のバランス:私が勝ち」「視線の温度:彼女が勝ち」。


三、洗濯査察――“待つ”という筋力


私は繊維の向きと紫外線量を読み、風を選んで干す。香りはラベンダー一滴、しわ率0.2%。

彼女はアイロンで布を炭にした。私は反射的に手を伸ばす。


「温度は、待つためにあります」


サーシャ嬢は素直に目を丸くし、こくりと頷いた。頷きの角度だけは、エリートのそれだ。


四、夜――秤に映らないもの


客間に戻って記録をまとめる。数字は私の味方だ。

けれど、天井の欠片から差す夕陽の下で、ふと迷いが生まれる。完璧は安心を生む。では、不器用に溢れた想いは何を生むのだろう。


廊下の向こうから笑い声がした。青年の、そして彼女の。秤が小さく揺れた気がした。


五、翌朝・弁当判定――敗因と納得


私は彩り・衛生・栄養の三拍子がそろったお手本を作った。

彼女はタコさんウィンナー二十、形の甘い卵焼き、唐揚げ山盛り。数値で測れば、私の勝ちだ。


それでも朝比奈君は、少しだけ迷ってから、彼女の弁当を選んだ。

私の口が先に言った。


「……完敗、ですね」


敗因は明白だ。正解ではなく、あなたに向いた弁当だった、ということ。


六、置き土産――“待つ”のレッスン


滞在の終わり、私は台所に小さなカードを置いた。

《炎を使わない煮込み》――温度と時間と、待つことの練習。IHとタイマーの使い方、蒸気の逃がし方。どれも秤で説明できるが、最後の一行だけは数字にしなかった。


「守りたい人が一口目を笑うなら、それが正解」


彼女はカードを両手で抱え、胸の前で大事そうに持った。

私は工具箱から表面温度計を一本抜き、そっと渡す。


「あなたの拳は十分強い。火は、これで育ててあげてください」


「……はいっ!」


その返事は、なぜだか少し震えていた。


七、非公式覚書(提出せず、私的保管)


サーシャ嬢は“壊す力”を持つが、同時に壊れない日常を作りたいと本気で願っている。


朝比奈君は、正解ではなく誰かを選べる。家事の現場では、それが最強の資源になる。


私は、秤が示さない値を少しだけ信じられるようになった。


最後に一行、線で囲った。


結論:秤は嘘をつかない。けれど、人の台所には秤に載らない分が、たしかに存在する。


玄関を出ると、青いスポーツカーが無言でライトを一度だけ瞬かせた。

背後のスピーカーが、控えめに報告する。


KAIN《本日の構造被害、想定内。笑顔指数、上昇》


私は小さく笑い、白手袋を外した。完璧は続ける。

それでも、ときどき――誰かの“不器用な正解”に負けてみるのも、悪くない。


— 了 —

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