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1話

 とある屋敷にて、室内に陶器の割れる音が響いた。赤いドレスを纏い、左腕に長い手袋を付けた少女は、愉悦に唇をゆがめながら床に散らばったカップを見下ろす。


「あーあ、不味い紅茶のせいでカップが割れてしまったわ。さっさと片づけなさい」

「…はい」


 割れたカップに手を伸ばし、指でつまんで片づけようとしている少女の名は、ソニア・リベルト。

 かつては空のような透き通る美しい青髪に、エメラルドのような美しい瞳をしていた。しかし今はそれが陰り、曇り空のように髪は荒れてくすみ、瞳も濁っている。

 割れた欠片を一つ一つ拾っていると、次を拾おうとした手にヒールが降ってきた。


「っ!?」

「あら、ゴミが床に落ちてると思ってふんじゃったわ。お姉さまの手だったわね、ごめんなさい」


 そう言いながら、カップをわざと落とした少女は最後にもう一度義姉の手を踏みつけ直す。さらに、少女はソニアの頭に手を乗せたあと、部屋を出て行った。

 頭に手を乗せられたソニアは、数秒後に糸が切れた人形のように床に倒れ伏してしまった。

 カップを落としたのは、メリア・リベルト。陽光に照らされ美しく光る金髪を持ち、その瞳はルビーを思わせる深紅となっている。

 同じ性をもちながら、義姉と呼ばれたソニアは着古されたお仕着せに身を包み、メリアは最新デザインのドレスを着こなしている。それはどうしてか。


 ソニアはリベルト侯爵家の正当な嫡子だ。しかし、今はそのような立場とはかけ離れた扱いを受けている。

 ソニアの母はソニアが10歳の頃に亡くなった。ソニアと同じ空色の髪を持ち、美しい人だった。

 しかし、流行り病には勝てず、若くして亡くなってしまった。

 すると、父親は喪が明ける前に後妻とその連れ子を屋敷に住まわせた。父親は外に女性を作っていたのだ。

 ソニアの母と父は政略結婚だった。父親はソニアもソニアの母も愛さず、むしろ嫌い、遠ざけていた。そして、ソニアの母が亡くなるとこれ幸いと後妻を呼び寄せたのだ。

 最愛の母を失い、心に大きな傷を負ったソニアにとって、新しい母を受け入れることはできなかった。その結果、ソニアの感情は限界を迎え、魔力暴走を起こした。


 この世界には魔法が存在する。

 体内にある魔力を使い、イメージを自身に適した属性に沿って顕現する力。それが魔法だ。

 火・水・風・土の四大属性のほか、希少属性と呼ばれるものがいくつか存在する。

 さらに、魔法は自身が最もイメージしやすい生物の形を模して顕現される。それは鳥であったり、犬であったり、猫など様々。魔法獣と呼ばれる。

 魔法は生活に役立てる者もいれば、他者を害すること、身を守ることに使うものもいる。

 魔法を使える者は、一般的に魔法士と呼ばれる。

 魔法の力は誰にでもあるわけでもなく、主に貴族に多い。それは、魔法の才能が遺伝的要素を強く含んでいるためだ。だから貴族の間では、高い魔法の才能を持つ者と婚姻を結ぶことが多い。

 魔法の力は国防にも活用され、魔法士を擁する軍隊を各国が有している。


 その魔法の才能が極めて高く、同時に高い魔力を持つものに起きやすいのが魔力暴走だ。

 魔法の扱いが未熟な子どものころに起きやすく、主に感情の爆発によって引き起こされるパターンが多い。

 魔力暴走が起きると、周囲が当人の属性に応じた魔法によって破壊される。

 ソニアの属性は希少属性である氷だ。

 当時、母の喪が明けないうちに玄関ホールで義母と義妹に引き合わされたソニアは、周囲を氷漬けにしてしまった。さらに、義妹であるメリアの腕を凍結させてしまったために、彼女の腕には消えない凍傷跡が付いてしまった。

 魔力暴走を起こしたこと、そして義妹に消えない傷跡を付けた罰として、ソニアは使用人以下の扱いを受けている。

 メリアが付けている左腕の長い手袋は、その凍傷痕を隠すものだ。


 メリアからは陰湿ないじめが繰り返されていた。

 今回もそうだ。メリアはわざわざ紅茶を淹れたことのないソニアに淹れされた。当然美味しいはずがなく、カップを割る口実にしただけだ。カップの片付けも道具を使わせず、手で行わさせる。挙句に踏みつけることで、ソニアの手のひらはカップの欠片で切り傷が出来ている。

 そしてそれ以上に問題なのは、メリアはソニアから魔力を奪っている。

 他人の魔力を奪うことは、法律で重罪とされている。にもかかわらずそれを行っているのは、ソニアの魔力量が多く、メアリの魔力量が少ないから。

 この国の価値観では、魔力が多ければ多いほど、優秀であるとされている。そしてメリアは、ソニアから奪った魔力を披露することで魔力量が多いと周囲に喧伝し、その結果第二王子の婚約者という座についている。

 そしてその魔力強奪を父親が黙認。いや、むしろ後押ししている。

 なぜなら、魔力を奪うためには呪具が必要だが、その呪具を手に入れたのは父親なのだから。


 魔力を極端に消耗すると、衰弱状態に陥ってしまう。最悪、命を落とす可能性もある。さきほどメリアがソニアの頭に手を乗せたのは、魔力を奪うためだ。魔力を奪われたソニアは姿勢を保つことすらできず、床に倒れ伏すしかなかった。


(早く…片付けなきゃ)


 今ソニアがいるのはメリアの私室だ。いつまでも割れたカップを片づけないでいると、戻ってきてどんな折檻をしてくるか分からない。

 これ以上魔力を奪われれば、本当に死ぬかもしれない。

 ソニアは手のひらが切れ、血が流れる指で必死に欠片を拾い集める。部屋を出ると、フラフラした足取りで裏庭のゴミ捨て場へと向かった。

 血を水道で洗い流すと、部屋に戻り、着られなくなった服を裂いて作った布切れで手のひらを覆う。

 ソニアは屋敷の離れの物置に住まわされ、医療品はおろか食事すらまともに与えられてない。食べていいのは使用人の残飯だけだ。


 そんなまともとは言えない生活を強いられても、ソニアは何一つ言えなかった。

 魔力暴走を起こしたことは父親や義母に散々責められ、それは8年経ち、18歳になった今でも続いている。


「魔力暴走を起こすような娘など家の恥だ。貴様は絶対に外に出るな」

「こんな愚かな娘を生んだ女ですから、死んで当然ですわ」


 自分はともかく、死んだ母のことまで貶められるのは我慢ならなかったけど、その原因が自分にある以上、ソニアは何も言えない。

 メリアは腕に負った凍傷痕を隠すために長い手袋をいつも付けており、それをわざとらしくソニアに見せつける。


「お姉さまのせいでお嫁に行けなかったら、責任どう取ってくれるんですか?」


 呪詛のように繰り返し紡がれた言葉は、ソニアの心をずたずたに引き裂いていく。

 そんなメリアは、ソニアから奪った魔力をさも自身の魔力かのように見せつけていた。それによって自分に高い魔法の素質があるかのように演出し、結果第二王子の婚約者の地位に得ている。


 こんな地獄の日々を送るくらいならいっそ…そう思っても、それをメリアは許さない。


「まさか、罰から逃げようだなんて考えませんよね、お姉さま?そんなことをすれば、親子そろって恥知らずですわね。ああ、恥ずかしい恥ずかしい」


 死ぬことすら許されない。ソニアは自尊心は完全に打ち砕かれ、生きる死人のようであった。

 しかし、唐突にそんな日々が終わりを迎えた。


「ソニア、貴様を嫁に迎えたいという手紙が届いた」


 最後に足を踏み入れたのはいつだったか思い出せない執務室に呼び出され、そこでソニアは父に結婚を告げられた。


「相手はフォースター家のクラレンス様だ。なぜ貴様のような屑がフォースター家になど…まったく意味が分からん」

「フォースター家…!?」


 ソニアは母の死後、淑女教育を受けていない。そんなソニアでもフォースター家は聞いたことがあった。

 国内の貴族の中でも最大規模の領地と資産、そして王族に次ぐ権力を有する公爵であるフォースター家。そのフォースター家が、どうして社交デビューもしていないソニアを望むのか、困惑しているソニア自身はもちろん、父にも分からない。


「そもそもどうしてフォースター家がこんな屑の存在を知っているのだ…っ、まさか貴様!外に出ていたのではあるまいな!?」


 突然に矛先が向けられ、ソニアは体をビクッと震わせた。


「い、いいえ、出ていません…」

「嘘をつけ!ならばどうして公爵が貴様など…!」


 父親が手を振り上げる。叩かれると思い、目をぎゅっと閉じた。しかし、いつまで経っても衝撃が来ない。おそるおそる目を開けると、ゆっくり上げた手を下ろしていた。


「チッ…貴様の顔に傷をつけては何を言われるか分からん。命拾いしたな。全く、公爵家が相手では断ることもできん。忌々しい」


 憎々し気にソニアを見下ろし、父は余計なことを嫌ってソニアを叩くのをやめた。

 明日にはもう迎えの馬車が来るという。

 ついにこの屋敷を出ていくことができる。それも公爵家に嫁ぐという形で。

 それなのに、ソニアの心は全然晴れない。何一つ理由が分からない婚姻に、戸惑うしかなかった。

 執務室を追い出され、部屋に戻る途中の廊下で、使用人を引き連れたメリアが待ち受けていた。


「あ~らお姉さま、良かったですわね。結婚できて」


 メリアは愉快そうに笑った。その笑みは、これまで何度も見てきた、ソニアが苦痛に苦しむのを悦ぶ笑みだ。


「知ってますかお姉さま?フォースター家のクラレンス様はそれはもう厳しい方で、あまりの厳しさに使用人が泣いて逃げ出すほどなんですって。どんなご令嬢が話しかけても眉一つ動かさず、冷徹に心を破壊する。雷の魔法を使うことから『雷の貴公子』なんて呼ばれるらしいわ。ああでも、お姉さまならどんなに壊されたっていいですものね。こんな役立たずでゴミの価値も無いのに、壊してもらえるという役目があるなら、本望ですものね?」


 メリアの中では、クラレンスによってソニアが壊されるのは決定事項のようだった。

 クラレンスのことを知らないソニアは、メリアの言葉にフォースター家で過ごすことになる自分を想像する。

 また奴隷のように扱われるのか、いやそれ以上にひどいことになるかもしれない。


(私、壊され…る…?)


 怯えるソニアの表情に満足したのか、メリアはにんまりと笑った。去り際にソニアの手首をつかみ、魔力を奪うと、ソニアにだけ聞こえるように告げた。


「公爵家に行っても、お姉さまの魔力は私の物なんだからね?わかってるわね?ちゃ~んと、帰ってくるのよ」


 その言葉にソニアは顔面を蒼白にした。

 公爵家に嫁いでも、メリアからは逃れられない。

 魔力を奪われ、衰弱した体を引きずって部屋に戻ると、固いベッドに寝転んだ。

 今日は残飯が無かった。朝に焼くのを失敗した黒こげのパンを食べたっきり。空腹なのに、衰弱した体は食欲も起きない。


(私、どうなっちゃうんだろう…)


 もはや何の希望も起きない。公爵家に行ってもきっとヒドイ扱いを受けるんだろう。

 死んだ母の恥さらしにならないように、そう思っていた心は、ほとんど壊れかけていた。


 翌日。迎えに来たのは、公爵家で執事を務めているコナーという男性だった。


「初めまして。私、フォースター家にて執事を勤めております、コナーと申します」

「あ、ソニア・リベルト…です」

「それではまいりましょう、奥様」


 コナーのエスコートで馬車に乗り込んだソニアは、馬車のすばらしさに驚いた。

 馬車は大きく、非常に豪華。座面はフカフカで、侯爵位を持つリベルト家でも見たことが無いほど優れた馬車だった。外装はもちろん内装にも細かな細工が施されており、自分がこんな馬車に乗っていいのかと怪しむほどだ。

 ソニアは、何の支度もされずに屋敷を追い出された。持ってきたのはほんのわずかな着替えと、母の形見の宝石一つ。ほとんどが義母に奪われ、残った一つは価値が無さそうという理由だけで取られなかったものだ。

 今のソニアは何年も着古したワンピースを着ている。色はすっかり褪せて、元の色が何だったのか思いだせないほどだ。

 そんなソニアを見ても、コナーは眉一つ動かさなかった。リベルト侯爵家には公爵家より支度金が払われているはずだが、一切ソニアに使われた様子はなく、支度金の存在もソニアは知らない。

 それをコナーはどう受け取ったのか。

 コナーのエスコートで馬車に乗り込んだソニアは、数時間後にフォースター家の屋敷にたどり着いていた。

 リベルト侯爵家もフォースター公爵家も、王都内にそれぞれタウンハウスを持っている。近い距離で行き来できたのはソニアにとって幸いなのか、それとも地獄なのか。

 メリアはフォースター家の屋敷がどこにあるのか知っていたのだろう。だからソニアに帰ってくるようにと命じたのだから。


「到着しました、奥様」

「あ、はい…」


 コナーのエスコートで馬車を降りる。

 今更コナーに奥様呼びされているのに気付き、ソニアは気まずい思いをしていた。いや、混乱していた。

 昨日メリアに聞かされた情報では、自分はフォースター家でヒドイ扱いを受けると思い込んでいた。

 しかしふたを開けてみればどうだ。豪奢な馬車に乗せられ、しっかりとエスコートされている。これがヒドイ扱いなのだろうか。それとも、ここまで期待を持たせておいて、屋敷の中に入った途端に本性が現れるのではないか。

 馬車を降りた先に現れた屋敷は、宮殿といっても差し支えないほどに大きく、見事だった。壁は白い石で築かれ、コケもツタも一切なく、陽の光を受けて白く輝いている。庭園は見事に手入れされ、季節の花々があちこちで美しく咲いていた。

 門をくぐり、庭園を抜けると屋敷の玄関ホールへとたどり着く。

 そこには大勢の使用人が両脇に並び、そこに道を作っていた。その道の先に白くなった髪を後ろになでつけ、執事服をきっちり纏う老練の執事がいる。


(ど、どういうことなの…?人違いじゃ、ないの?)


 どうして、ただの屑の自分がこんなにも歓迎されているのか。それがソニアにはさっぱりわからなかった。

 コナーにエスコートされて道を進み、老練の執事の前まで行く。執事はきっちり直角に腰を曲げ、頭を下げる。


「ようこそ、フォースター家へ。わたくし、執事長を務めておりますリチャードといいます。屋敷についてご不満あれば、何なりとお申し付けください」

「そ、ソニア・リベルト、です」


 つられて頭を下げる。しかし、それにすぐリチャードは指摘した。


「奥様、我ら使用人に対し頭を下げる必要はありません。今日より奥様はこの屋敷の女主人。堂々となさってくださいませ」

「え、あ……」


 そう言われてもソニアは、ただの使用人…いや、それ以下の扱いを受けてきた。いきなり女主人と言われても、どうしたらいいのかなんて、分かるはずもない。

 こんな立派な屋敷の女主人など、自分には分不相応ではないか。しかしそれを言う勇気も、ソニアには無かった。結局彼女は、口を噤むしかできない。


「ここまでの旅路で疲れたでしょう。今日は一旦お部屋でお休みください」


 リチャードがそう言うと、使用人たちは解散していった。人の塊が無くなったことにソニアはそっと息を吐いた。人に注目されるのは、落ち着かない。


「奥様、部屋はこちらにございます。お荷物はこちらに」


 年かさの侍女と思われる女性に荷物を取られ、着いていく。

 階段を上り、廊下を進むと一つの扉の前で侍女は止まった。


「こちらでございます」

「わぁ……」


 扉を開け、中に入るとそこにあったのは驚きの光景だった。

 部屋の壁は真っ白の壁紙が貼られ、シミは一つも無い。家具はどれもが新品で、見事な光沢を放っている。天蓋付きのベッドはフカフカそうで、テーブルに椅子も見るからに高級品と分かるような装飾が施されている。

 大きな花瓶にはさきほど庭園でみた花々が飾られている。


(素敵……本当に、これが…私の部屋?)


 部屋を見た瞬間、あまりのすばらしさに感嘆の声が漏れてしまった。しかしすぐに我に返ると、こんな素晴らしい部屋はあまりにも自分には分不相応だというのが分かる。

 本当にこれが自分の部屋なのか。実はこの部屋と思わせて違う部屋だったりしないか。

 自尊心が地に着くくらい低いソニアは、この部屋が自分の部屋だとは認められなかった。

 ソニアは案内してくれた侍女の気分を損なわないよう、こっそり、丁寧に尋ねる。


「あの…」

「はい、いかがでしょうか?」

「本当に、これが私の部屋、なんですか?」

「もちろんでございます」


 しっかり断言されてしまった。しかしまだソニアは信用できなかった。


(そうだ、あのフカフカそうなベッドに寝てしまえばきっと…)


 今はまだ部屋の入口に立っているだけ。何とでも言える。でも、きっと自分がこの部屋のどれかに触れれば、きっと「触れるな!」と叱責されるに違いない。そうソニアは考えた。

 ソニアはいつ叱責が飛んでくるのかと、ビクビクしながら部屋の中へ進む。そして、丁寧に整えられたベッドに向かって、飛び込む…ことはできず、そっと触れた。


(ふ、触れちゃった!すごい、見た目通りに本当にフカフカで…こんなに柔らかいお布団があるんだ)


 侍女の反応を試すつもりが、あまりの感触に感動し、つい何度も布団のフカフカを堪能してしまった。気付けば、ずっとフカフカを堪能した部分がちょっとへこんでいる。この状況にソニアは青ざめた。


(やっちゃった…!これは怒られる…)


 そーっと後ろを振り返る。いつの間にかソニアのカバンをテーブルに置いた侍女は、ソニアを慈しむような笑みで見ていた。その反応に、ソニアは首を傾げた。


(怒られない…?で、でもまだ分からないし…)


 上げて落とす。そんないじめをソニアはメリアに何度もやられていた。

 ならもっとやればきっと怒られて、部屋も本当の、物置のような薄暗い部屋に案内されるはず。ソニアは大胆に、ベッドに飛び込んだ。

 バフッという音と共に身体がベッドに沈み込んでいく。そのあまりの柔らかさに、ソニアの体はベッドに埋まっていくようだった。


(こ、これならどうかしら…?)


 ここまですればもう怒られるに決まってる。そう思っていたのに、ちらりと侍女を見ると何も変わってない。どころか、なんだか目元を拭いているような気がする。


(涙ぐんでる?でも、どうして…)


 思ったような反応が得られず、ソニアは混乱するしかなかった。

 本当にこの部屋は自分の部屋で、他の部屋なんかないんじゃないか。そう思い始めた。ベッドから抜け出すと、整えられたベッドはぐちゃぐちゃになっている。その光景に血の気が引いたが、侍女は何も言わない。侍女とベッドを何度交互に見比べても、そのままだった。


 その後、ソニアは侍女に湯あみに連れていかれた。人様に体を洗ってもらうなど初めての体験をしたソニアは、終始緊張しっぱなしだった。だからソニアは気付かなかった。ソニアの体を洗う侍女たちの目が、とても悲し気に満ちていたのを。

 ろくな食事を与えられてこなかったソニアの体はやせ細っていた。とてもではないが、18歳の女性とは思えないほどに。髪や手は荒れ果て、あばらは浮き出ており、手足も細すぎて皮と骨しかないようなソニアの体を、侍女たちは丁寧に磨いた。

 湯から上がると、用意されていた下着と服を着る。しかし、用意されていた服はどれもブカブカだった。ソニアが想定よりもずっと身体が小さいためだ。

 ソニアは着てきた服でかまわないと言ったが、侍女たちは絶対に首を縦に振らなかった。すぐさま仕立て屋が呼ばれ、その中から今のソニアに合うサイズの服を仕立てた。


(私なんかのために…)


 そんな対応をされたソニアはずっと恐縮しっぱなしだった。頭を下げてはならないと何度言われても、クセですぐ下げてしまう。そんな指摘をさせてしまうことにさらに落ち込み、部屋に戻るころには小さい体をさらに小さくさせていた。周囲の違いに気付く余裕も無く、ベッドはすでに整えられていたことにも気付かない。

 丁度その時、執事から呼び出しを受けた。


「旦那様より、執務室に来てほしいとのことです」

「は、はい」


 旦那様。つまり、ソニアにとっての夫となる男性のことだ。

 ここで初めて夫となる男性と顔を合わせることになる。ソニアの中には、フォースター家のクラレンスは冷徹非常で恐ろしいというイメージで固定されている。

 執事の後についていくが、その足取りは不安から重い。

 と、重厚な扉の前で執事が止まった。


「旦那様、奥様をお連れしました」

「…入れ」


 扉が開かれ、中へと案内される。

 左右の壁には、たくさんの本や資料が収められた本棚が並んでいる。正面には来客用と思われる向かい合わせのソファーと、テーブル。その奥にはこの部屋の主が執務を執り行うための席と机。大きく、これもまた重厚な雰囲気を漂わせている。最低限の調度品しかないところが、この部屋の主の意向を表しているようだ。

 そしてその席に座っている男性がいる。それが、ソニアの夫となる人だ。

 夫の目が、ソニアを捉える。その鋭い眼光に、ソニアの緊張は最大に達した。


「…リチャード、それか?」

「旦那様、『それ』ではございません。奥様となられる、ソニア様です」


 ソニアは安心した。ソニアにとっては、『それ』扱いこそが慣れ親しんでしまった扱いだから。

 肩まで伸び、サラリとゆれる黒髪。その髪の間から見下ろす金の双眸。

 雷の貴公子と呼ばれる男は恐ろしく整った容姿をしており、道を歩けば十人中十人の女性が振り返るほどに美しい。

 だが、整った容姿だからこそ、鋭く、冷徹さしか感じない瞳で見られる恐怖もすさまじい。


「ソニア」

「は、はい」


 自分の名を呼ぶ声は低く、それでいて通りがいい。頭を揺さぶられたかのように衝撃を受けた直後、更なる衝撃を受ける。


「君と私は結婚するが、私が貴様を愛することは無い。1年後には離婚してもらう」

「………えっ」


 唐突に告げられた内容に、ソニアは固まった。

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