12話
「………」
氷の向こうで、クラレンスの唇が動いている。だが、何も聞こえてこない。爆音を防ぐためにと張った氷の壁が、声も遮断してしまっているようだ。
(旦那様がいるってことは、もう大丈夫ということ…よね?)
多分もう安全なんだろう。しかし、そう思っても、ここにいるのは自分だけではない。ソニアは振り返って、王妃を見た。
「どうかしら、ソニアさん」
「あの、旦那様…えっと、フォースター公爵が、います」
「あら」
そう言うと、王妃は嬉しそうに声を上げた。
「何か言っているのかしら?」
「えと、氷龍の外に張った氷が声も防いでしまうせいで、聞こえないんです。解除しても、いいでしょうか?」
「公爵がおられるなら、もう安全だということでしょう。解除してください」
「わかりました」
王妃の許可も得たことで、ソニアは再びクラレンスに向き直る。
クラレンスは自分の声が届いていないことに気付いたようで、何かジェスチャーで意思の疎通を図ろうとしている。
ソニアもクラレンスに離れてほしくて、ジェスチャーで離れるようにと、手のひらを前に向けて両手で前に押すアクションを見せる。それを見てクラレンスも同じ手の動きを取った。多分、伝わってないようで、クラレンスは首をかしげている。
(違う、旦那様、そうじゃなくて…)
氷の壁を解除したとき、おそらく氷の欠片が飛び散るかもしれない。それでクラレンスにけがをさせたくないので、離れてほしいのだが、なかなか伝わらない。
「どうしたの?」
さっきから何か妙な動きをしてばかりのソニアに、王妃がたまらず声を上げた。
「その、旦那様に離れてほしいのですが、伝わらなくて」
「…そう、分かったわ」
すると王妃も前に出て、ソニアの隣に並ぶ。
クラレンスは王妃の姿が氷龍の中にいることに驚いている。
王妃はそんなクラレンスに、シッシと犬を追い払うようなジェスチャーをして見せた。
(お、王妃様、そんな……)
どうしたらいいんだろうと悩んでいたソニアは、そのジェスチャーに驚き、クラレンスも目を見張っていた。だが、意図は伝わったようで、クラレンスは後ろに引いてくれた。
「ありがとうございます、王妃様」
「いいのよ。さっ、これで解除できるわね?」
「はい」
意識を氷の壁に集中する。さっきクラレンスがどけてくれたように、氷龍の上にはまだまだ瓦礫が乗っている。氷龍は残しつつ、氷の壁だけ解除する。
失敗しないよう、意識を壁だけに集中させた。
次の瞬間、氷の壁に亀裂が入り、バキィンと音を立てて壁が崩れた。魔力で出来た氷は、水に戻ることもなくそのまま消えていく。
「ソニア!」
氷の壁が無くなったことで、やっとクラレンスの声が届いた。
わずかな時間しか離れていないのに、その声はずいぶんと久しぶりに聞こえる。
「旦那様!」
「無事か?」
「はい、みなさんも無事です」
「ああ、王妃様もおられるようだな」
「ええ、フォースター公爵。夫人には命を救われましたわ」
王妃も前に出て、無事を知らせる。
「よかった…陛下も大層心配しておりましたから」
「陛下も、無事なのかしら?」
「もちろんです。ただ、渡り廊下が崩れてしまい、こちらに来ることができなくなってしまっていますが」
「…?それでは、旦那様はどうやってこちらに?」
「跳んできた」
「そ、そうですか…」
サラッと言われ、ソニアはどう返していいか分からず、苦笑するしかなかった。
「この氷の龍は…誰が?」
「私、です」
「ソニアが…?」
ソニアがもじもじしながら答えると、クラレンスは驚いていた。当然だろう、数年もの間魔法を使ってこなかったのが、いきなり魔法を使ったのだから。
「…すごいな。これは、操れるか?」
「もちろんです」
ソニアはとぐろを巻いた氷龍の首だけを動かした。
ぐねっと動いた様に、クラレンスは驚くしかない。
その様子に、王妃はいいことを思いついたように声を上げた。
「ソニアさん、この龍で瓦礫はどけられるかしら?」
「多分、大丈夫です」
ソニアは氷龍の首を動かすと、口を開かせて瓦礫を咥えさせる。重そうな瓦礫を氷龍が持ち上げ、そのまま違う場所に落とした。ドスンと、重い音が響く。
その動きに、クラレンスは乾いた笑いを浮かべた。
「……こんなに精巧で、その上精密な動きができるとか、とんでもないな」
「そう、なんですか?」
「ああ。私など足元にも及ばないくらいにな」
クラレンスにそう言われても、ソニアにはピンとこなかった。
これなら問題ないと判断したのか、クラレンスは立ち上がる。
「私は陛下たちに皆の無事を伝え、崩れた渡り廊下を渡るすべを考える。ソニアはそれまでに、瓦礫をどけて出られるようにしてくれるか?」
「はい」
クラレンスが渡り廊下側へと歩いていくのを見て、ソニアはどんどん瓦礫をどけていく。頭上の瓦礫はどうなっているか見づらいので、適当に氷龍の口を開かせて噛ませる。何か咥えたら、持ち上げて外にどける。
それを何度も繰り返すうちに、段々氷龍の中は明るくなっていった。
渡り廊下の先では、王妃の無事を喜ぶ陛下の声が上がり、それに王妃も涙ぐんでいた。
あらかた瓦礫をどけ終え、氷龍もとぐろを巻いた状態をほどいていく。
ようやくソニアたちは、外に出ることができた。
しかし、後宮の惨状に王妃も侍女たちも声を無くしている。
「…本当に、ソニアさんがいてよかったわ。ありがとうね」
「いえ、当然のことを、したまでです」
ソニアの言葉に、王妃は首を横に振った。
「いいえ、だってあなたは巻き込まれただけなんだもの。私が今日ここに呼ばなければ、あなたは命の危険に合うことは無かった。私のせいだわ」
「そんな……」
王妃が責任を感じることなんかない。ソニアがそう言おうとしたところで、代わりにクラレンスが言ってくれた。
「いいえ、悪いのは襲撃者どもです。やつらが来なければ、こんな事態にはそもそもならなかった。王妃様には一片の責任もありません」
「…ありがとう、フォースター公爵。そう言ってもらえるなら、私も助かるわ」
クラレンスの言葉に王妃が納得してくれたようで、ソニアはホッとした。
外に出ることはできた。しかし、渡り廊下を渡るための方法に難儀しているらしく、渡り廊下の先では何かを持ってきては使えないかと試行錯誤している。
それを見てソニアは、もしかしたらと氷龍を見た。
氷龍を宙に浮かべると、ソニアはそっと氷龍に跨る。
「ソニア…?」
ソニアの行動を、クラレンスは不思議そうに見つめた。
(これで、いけそう、かな?)
跨ったまま、ソニアは氷龍を動かす。当然氷龍に乗るソニアも動く。
その様子に、クラレンスは手で顔を覆った。
「魔法獣に乗るとか……規格外にもほどがあるだろう」
「旦那様?」
「…いや、何でもない。それで、それならいけそうか?」
クラレンスが恨みがましく、いやどちらかといえば羨望と嫉妬が混じったような独り言は、ソニアには届かなかった。
気をとり直したクラレンスは、目の前で魔法獣に乗る妻を見やる。
「はい。ちょっと冷たいですが、渡るだけなら大丈夫かと」
さらにソニアは、氷龍の首を立て、まるで馬に跨っているかのようにした。その首に腕を回せば、安全性は高まりそうだ。
「…これは、私も乗って大丈夫か?」
「あ、はい、大丈夫、だと思います」
クラレンスの申し出に、ソニアは驚きつつも答えた。
早速クラレンスが氷龍にまたがり、ソニアの後ろに腰を下ろした。クラレンスの体重がかかっても、氷龍はびくともしなかった。
(瓦礫をどけられるだけのパワーがあるからもしやと思ったが、まさかここまでとはな)
さきほどから驚くしかないクラレンスだが、今はそれを一旦置いておくことにした。
「よし、ソニア。まずは我々が試しに先に戻ろう。その後に、王妃様や侍女たちを運ぶようにするぞ」
「はい」
ソニアは氷龍を進ませ、崩れた渡り廊下を進んでいく。足元に何もない状態を浮いて飛んでいくのはお尻がヒュッとすくむ感覚がする。けれど、クラレンスがしっかりと後ろから支えてくれたので、安心できた。
向こう岸では、飛ぶ氷龍に誰もが唖然としている。無事に足場がある場所まで到着すると、まずはクラレンスが、ついでソニアが氷龍から下りた。
「…すごいな。このような魔法があるのか」
氷龍を前に、国王が驚きを隠せない。
それにクラレンスはソニアの肩を抱いて答えた。
「世界でただ一人、ソニアだけが使える魔法です」
その言葉は誇らしげで、ソニアもうれしくなった。
「じゃあ、今度は王妃様をお連れします」
そう言ってソニアは氷龍を後宮側へと向かわせる…ところで国王から待ったがかかった。
「わしが乗る」
「えっ?」
「わしが王妃を迎えに行く。よいな?」
国王の真剣な顔に、ソニアはどうしたらいいか分からず、クラレンスを見た。クラレンスはうなずき、そっとソニアに耳打した。
「国王は王妃が無事なのか、とても心配しておられた。だから、なんとしてでも自分が迎えに行きたいんだ。その気持ちを汲んでくれるか?」
「…はい、分かりました」
クラレンスの言葉に、ソニアは温かい気持ちを感じた。
ただその場で待つことを良しとはしない。自ら迎えに行きたい国王の気持ちに、王妃がいかに愛されているか、ソニアは羨ましくなった。
国王を乗せて氷龍は飛ぶ。無事に王妃のもとまでたどり着くと、二人は熱い抱擁を交わしていた。
そして、ソニアたちのときと同じように、氷龍の首側に王妃が、その後ろに国王が乗り、二人は戻ってきた。
残った侍女たちも次々と氷龍に乗って戻ってきた。そして最後の一人が床に足を下ろすと、その瞬間割れんばかりの歓声が上がった。
「フォースター公爵夫妻万歳!」
「すげぇ!魔法でこんなことができるなんて!」
その場にいた騎士や魔法士、衛兵たちは国王と王妃をそれぞれ救ったソニアとクラレンスを、惜しみなく賞賛した。
それにクラレンスは動じず、ソニアはちょっと恥ずかしいような、場違いなような複雑な気持ちになり、クラレンスの陰にそっと隠れた。
その後、ソニアはクラレンスと共に屋敷に戻ることになった。
王宮は色々大変であり、とてもではないが王妃とのお茶会を再開できる状態ではない。
お茶会は中止となり、ソニアは屋敷に戻ることに。クラレンスもソニアの付き添いで一旦戻ることにした。
帰りの馬車の中、ソニアはふっと王宮を見返す。一部は損壊し、崩れた様が見えた。
「…すごい、被害が出たんですね」
「ああ。だが、幸いにも死者は確認されていない。これからの事後処理と復旧は大変だが、皆と力を合わせていけばなんとかなるだろう」
「はい……」
そっと、クラレンスの手がソニアの手を握る。
いつもの、温かく、安心するクラレンスの手。その手が、今まで張り詰めていたソニアの緊張の糸をプッツリと断ち切った。
ソニアの口から、思わず息が漏れる。
「はぁ……」
「疲れただろう。今は休んでいいぞ」
「です…が…、旦那様も……疲れ…て…」
そうしているうちも、どんどんソニアの意識は沈んでいく。
体にも力が入らないようで、本人は気づいていないが、だんだんクラレンスによりかかるようになっていた。
「すー…すー……」
「おやすみ、ソニア…」
完全に寝入ってしまったソニアを、クラレンスは優しいまなざしで見つめた。
(今日は大変な一日だったからな。事情聴取に始まり、王妃とのお茶会、襲撃者の乱入、魔法の行使……疲れるのは仕方ない)
今日のことをクラレンスは振り返っていた。その中で、ソニアが顕現した氷龍。それは、クラレンスの過去の記憶にある氷龍と酷似していた。違うのは、サイズ感だけ。
(大空のような髪色、青い瞳……そして、氷の龍の魔法獣。まさか……ソニアが彼女だったとはな)
考えればすぐわかることだと、己の頭の悪さが嫌になる。
そもそも彼女と出逢ったのは、彼女の祖父の屋敷なのだ。なら、その血縁であるソニアがいたとしてもおかしくない。
当時のつまらない意地。絶対に己の力だけで見つけたくて、誰にも言わなかった。だが、その答えがこんなにも近くにいたと思うと、言わなくてよかったと思うところでもある。
リチャードにはどんなに呆れられるか、マリーには何を言われるかたまったものではない。
(…問題は、今後どうするかだ)
ソニアとは1年で離婚するという約束をしている。
当然、もう今は離婚などする気はない。
クラレンスはこれから自分が何をすべきかを考える。
離婚するという約束の撤回。
ソニアに自分の気持ちを伝える。
受け入れてもらえるよう、ソニアに尽くす。
ただ、やはり心配なところがある。それは、最初にソニアを拒絶したことだ。
(言うべきではなかった。…いや、今更後悔しても仕方ないことだ。なんとか挽回するしかない。だが、自分の言ったことが、こんな形で返ってくるとはな)
一度拒絶しておきながら、今度は愛してるなどと言ったところで、ソニアは受け入れてくれるだろうか。疑われて終わりかもしれない。
幸いというか、ソニアはクラレンスに悪い感情は抱いていない…と思う。
今こうして肩にもたれかかって安心しきったように寝入ってるのが証拠だ。それに、クラレンスから手を握っても、振りほどくようなことはしない。
(過去は変えられん。受け入れてもらえるよう、努力するしかないな)
安心しきったソニア。その寝顔を前に、クラレンスは新たな誓いを心に打ち立てた。