第四章 裏切りと灯火②
第4章もいよいよ後半へと入りました。
ここからの展開は、「痛みと赦し」が大きなテーマとなります。
第6節から第10節では、それぞれの登場人物がこれまでの選択と向き合い、過去の“沈黙”や“決断”がどう影響を及ぼしてきたのかを深く掘り下げていきます。
「裏切り」とは、本当に誰かを傷つけたことだけを指すのか。
「灯火」とは、誰かにとっての救いであり得るのか。
読者の皆さまにとっても、「自分ならどうするか」を自然と考えさせられるような章になっていれば幸いです。
第六節 ことばの奥に
未麻は帰国後、ノートのデジタルコピーをプリントアウトし、教室の隅に座って一枚ずつめくっていた。
翻訳されたベトナム語の文面をなぞるたびに、胸の奥がじわじわと締めつけられていく。
そこにあったのは、カイの「声」だった。
だが、それはただの証言ではない。
言葉にならなかった想いの、層のような積み重なりだった。
“ことば”というものが、時に人を守り、時に人を黙らせる。
未麻は、教えていた日本語の授業を思い出していた。
動詞の活用、敬語、接続詞。
けれど、カイのノートには、それらの技巧とは無縁の“生きた文”が並んでいた。
——“なぜ、だまっていたのですか。先生たちは、しっていました。”
未麻は、その一文を声に出さずに読んだ。
喉の奥に、見えない棘が刺さるようだった。
教えることが、時に“使えない言葉”を増やしていたのではないか。
覚えさせた敬語や慣用句は、本当に彼らの自由に繋がっていただろうか。
李徳近にノートを見せたとき、彼は黙ってしばらくページを眺め、やがて静かに言った。
「彼は、“声を使ってはいけない世界”にいたのです。だから、母国語でしか本当のことが書けなかった」
未麻は、その言葉を反芻しながら、自分の授業ノートを開いた。
そして、真っ白なページの一番上に、マーカーでこう記した。
「教育とは、“ことばを教える”ことではない。
“ことばを使っていい”と思わせることだ。」
カイが言いたかったこと。
それを汲み上げるには、日本語では届かない場所にまで踏み込む必要がある。
翌週の授業。
未麻は、黒板の前に立ち、生徒たちにこう問いかけた。
「もし皆さんが、言いたいことを自分の言葉で言えないとしたら、それは“日本語が足りないから”でしょうか? それとも、“言ってはいけない空気”のせいでしょうか?」
教室には静寂が落ちた。
だが、その沈黙の中に、誰かの目がゆっくりと動いた。
未麻は微笑んだ。
「どちらも、間違っていません。でも、それを“声に出していい”と教えるのが、私の授業です」
カイのノートは、彼の死を伝えるものではなかった。
それは、「ことばの再起」の証だった。
未麻は、翻訳を終えた全記録のデータを花木と池畑に送りながら、一行だけ書き添えた。
「彼のことば、私たちの“今”にしていいですか?」
それが、過去に向けた償いではなく、未来に繋ぐ意志であるように。
それが、教育というものの、ほんとうの“種火”であるように。
第七節 帰還と再結束
午後の陽が傾きかけた頃、池畑健仁郎は神田の喫茶店の窓際席に座っていた。
手元には、未麻が送ってきた翻訳済みの“第二のノート”の抜粋と、法人との金銭取引に関する会計資料。
それらは、静かに、しかし揺るぎない重さで彼の前に並んでいた。
扉が開き、郷不二夫が入ってくる。
以前よりもやや痩せたように見えたが、その目は決して沈んでいなかった。
「……すまなかった。少し迷ってたんだ」
郷は、腰を下ろすと、ぽつりとそう言った。
「迷って当然です。命を見送った者が、簡単に腹を括れるわけじゃない」
池畑の声には、非難の色はなかった。
むしろ、自分もまた同じ深さを通ってきた者の響きだった。
そこへ、未麻が現れた。
手には、ベトナムから持ち帰ったノートの原本のコピー。
「カイの声は、翻訳されても、輪郭を保っていた。
それはもう、“証拠”じゃなく、“証言”になっていたわ」
未麻のその言葉に、郷が静かに頷いた。
「俺も、やるべきことが分かった。逃げていたのは……自分自身だった」
最後に現れたのは花木雅夫だった。
小さな紙袋を手にしている。
「法人と関係する外部企業、三つ。理事親族の名義で作られた“外注会社”と、実態のない口座が絡んでいる。裏は取れた」
彼が取り出したのは、法人の会計構造図と資金移動の明細。
「“協力金”の名目で、実質的に搾取した額は、少なく見積もっても年間数千万円。これを公にするには、手順が要る」
「訴訟だな」
池畑の言葉に、三人の視線が交差した。
「記者会見を開こう。あくまで、“教育現場の声”として」
郷の提案に、未麻が頷いた。
「私は、カイのノートを読み上げるわ。“この声は消せなかった”って、世の中に言いたい」
「俺は法的な整備に入る。証拠を整理して、弁護団を編成する」
池畑が言い、花木が続けた。
「企業の反応も読まないといけない。今は一部が静観してるが、メディアが動けば引き潮は早い。俺の肩書きも使う」
それぞれが、かつての“沈黙”の向こう側に、ようやく自分の位置を見つけ始めていた。
「“やり直し”じゃないわ。“やり続ける”の」
未麻のその言葉に、郷が初めて微かに笑った。
「そうだな。やるしかない。もう、黙っている理由が、何一つない」
喫茶店の外では、夕陽がビルの隙間から漏れていた。
短い陽の名残が、まるで照明のように四人を包んでいた。
かつて、失いかけた信頼が、再び交差していた。
今度は、声を上げる者として。
第八節 帳簿の穴
都心の雑居ビル。花木雅夫は、知人の紹介で借りた会議室の一角にいた。
テーブルの上には、法人が公開していた「国際教育連携事業」の年次報告書、そして内部資料として手に入れた“未公開会計データ”が並べられていた。
スプレッドシートに打ち込まれた数字は整然として見えた。
しかし、その秩序の中に、彼は明確な“ほつれ”を感じていた。
法人が、海外インターンプログラムの名目で受け入れていた留学生数。
公開資料では、年間約300人。だが、協力企業から法人へ支払われた「教育協力金」の総額は、延べ1,180人分——
数が合わない。
花木は、一つひとつの企業名と受入学生数の内訳を照らし合わせていった。
そして、三つの企業が、明らかに不自然な額を拠出していることに気づいた。
「ジアース・テック合同会社」「メディックスアジア」「K国際キャリア支援」——
いずれも法人と“業務提携”とされていたが、法人側の契約書上には不明瞭な位置づけだった。
登録住所を調べる。
ジアース・テック——代表者名「八代康伸」。
法人常務理事・八代宗明と同姓であり、登記住所は都内のワンルームオフィス。法人の旧理事宅と同一住所であることも確認された。
花木は手元のペンを置いた。
全てが繋がった。これは、ただの名義貸しではない。計画的な資金還流構造だ。
外注名義で受け取った協力金を、別法人名で法人に「寄付」として流し戻す。
その資金は“国際教育費”という名目で再分配され、帳簿上は“収支均衡”に見せかけられていた。
つまり、制度を使って、合法の仮面をかぶせた搾取とマネーロンダリングが行われていた。
そのとき、花木のスマートフォンに池畑から連絡が入った。
「帳簿、進んでるか?」
「ああ。数字が語ってる。“存在しない学生”の数が、法人の実績を膨らませてた。
企業はその“数”に金を出し、法人はその金で理事に報酬を戻す」
「郷からも連絡が来た。“退寮措置”とされた学生たちの数、実は法人内部で“除籍者”とは別枠で処理されてたらしい。
——帳簿の穴は、“記録”と“存在”のズレだった」
花木はノートに一行、赤ペンでこう書いた。
「搾取は、制度の外ではなく、“制度の裏”で起きている」
この構造を暴くには、帳簿だけでは足りない。
記録、証言、そして“声”。
それらを束ねてこそ、闇は可視化される。
花木は、外部監査法人の匿名通報窓口に文書を投函した。
A4用紙三枚分の分析と、関連資料の目録。
「公益通報・要監査案件——国際教育協力金の不適切流用に関して」
その投函が、どこまで届くかは分からなかった。
だが、ようやく“数字が語り始めた”。
記録を消そうとする者たちに対し、今度はこちらが“記録で語る”番だった。
第九節 証明の鍵
池畑健仁郎は、支援団体の一室でスプレッドシートと睨み合っていた。
机の上には、カイのノートの複写、法人の帳簿写し、そしてベトナム語から訳された記録の抜粋が広がっている。
目的はただ一つ。“つながり”を証明すること。
カイのノートに記されていた一連の数字列——
たとえば、「JRB=4.5」「T1→赤橋=12.5H」「D工=週5/夜間」——
一見すると暗号のようだが、それぞれが作業時間、勤務場所、シフト構成を表していた。
そして、それらの時間配分が、法人の帳簿に記載された“協力金支給日”と驚くほど一致していた。
「12.5時間稼働」
「夜間枠」
「Tライン1班」
「赤橋通過(=法人非公式倉庫)」
——それぞれが、“架空ではない”という証拠だった。
「これは偶然じゃない……」
池畑は唸るように呟いた。
彼は花木に通話をつないだ。
「花木、例のデータ。ノートの記述と協力金のトランザクションが一致した。
“作業時間に基づいて金が動いてる”。つまり、カイは実態を“記録”してたんだ」
電話越しに一瞬の沈黙があり、やがて花木が言った。
「それが、搾取の“設計図”だったということか……」
記録の中には、法人が「教育実習」と称した工程の詳細な図解も含まれていた。
配線工程、ラインの交代スケジュール、IDタグのナンバー。
未麻から届いたベトナム語の原文には、さらにこう書かれていた。
「出席簿に“学校名”と“作業所名”が書いてある。どちらが本当?」
問いかけに答えた者はいなかった。
だが、今やこの記録が、問いではなく告発になっていた。
池畑はすべての資料を整理し、訴訟チームに送るための証拠リストを作り始めた。
ファイルのタイトルは、自身が迷わずこう記した。
「KAI_log_001:沈黙が語ったもの」
その夜、グループチャットに郷からメッセージが届いた。
「明日、記者クラブに提出する声明を最終化する。
タイトルは『記録が語る声について』。
誰かの“意見”じゃなく、これは“事実”であり“証明”だ」
4人の間に、重たい確信が生まれていた。
“誰かが語らなければ届かなかった記録”が、
今、“記録そのものが語る”段階に入った。
それは、失われた声が、沈黙の壁に穿った最初の“穴”だった。
第十節 灯火、再び
深夜のオフィスビル。その一室で、ノートパソコンに光が灯っていた。
画面に映るのは、白地に浮かぶシンプルなロゴと、タイトル。
「RECORD:語られなかった声の記録サイト」
未麻が静かにエンターキーを押すと、サーバーが応答し、サイトは正式に公開された。
記録。証言。写真。音声ファイル。
法人の帳簿とカイのノートとの照合資料。
退寮された学生たちの名前を伏せた証言テキスト。
支援団体が収集した手記。
そして、“あの夜の録音”——偽の告発者がメディアに出る直前の通話音源も。
あらゆる“沈黙を破る材料”が、今この場に集まっていた。
だが、これは単なる暴露ではない。
「語るべき記録を、“遺す”場にする」
それが、4人が出した結論だった。
記録は、告発のためだけにあるのではない。
誰かが“生きていた”という痕跡。
誰かが“声を出そうとした”という証。
それが共有されることで、初めて“記憶”に変わる。
郷は、記者クラブに提出する声明文を読み上げていた。
「この国の教育制度が、留学生という“立場の弱い人間”を利用し、搾取と黙認の構造を作ってきた。
我々は、それを制度批判として語るのではなく、“個人の存在の記録”として提示する。
このサイトに掲載された記録は、すべて実在する個人が遺したものだ。
それらは、誰の主張でもない。ただの事実だ」
花木は、法人の系列企業にかかわる資金構造図を添えて、監査機関への再提出を準備していた。
池畑は、訴訟準備の最終整理に入り、専門家との法的チェックを重ねていた。
未麻は、ノートをサイトに掲載する前に、カイの母に短くメッセージを送った。
「息子さんの記録が、いま、日本で“声”になろうとしています」
やがて届いた返信には、こうあった。
「ありがとう。あの子が、黙らずにいたことが、救いです」
夜が明ける頃、サイトの閲覧数が急速に伸び始めた。
SNSで拡散され、フォーラムで議論が始まり、一部メディアが「教育制度と記録の問題」として取り上げ始めた。
4人は、それぞれの場所で静かに画面を見つめていた。
コメント欄には、留学生だった者からの書き込みが寄せられていた。
「私も記録してました。送ります」
「読んで、泣きました。自分がいたことが、ようやく証明された気がします」
「“ことば”を持つことが、こんなに心強いなんて知らなかった」
その一つひとつが、灯火だった。
誰かの中に宿り、消えかけていた“証”が、再び燃え始めていた。
郷が最後にチャットに打ち込んだ。
「ここから先は、“声を出す人”の時代だ。
記録は、そのためにある」
そして、次章の幕が上がる。
——告発の刃が、ついに制度そのものへと切り込まれていく。
第4章の後半をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のパートでは、信じていたものが揺らぐ中で、それでも誰かを想い、何かを残そうとする“静かな闘い”を描いています。
表面的な正しさではなく、心の底に沈んでいた言葉にならない感情——その機微を丁寧にすくい取ることを意識しました。
信頼の綻び、孤立の予感、揺れる決意。
それでも、諦めずに「誰かの声」を残そうとする姿に、ほんの少しでも灯火のような希望を感じていただければと思います。
次章では、ついに過去と現在をつなぐ“核心”に手が届きます。
読んでくださるあなたの存在こそが、物語の支えです。