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第二章 記録されなかった日々①

第2章に突入しました。


今回の章では、ホアン・カイの死に直面した登場人物たちが、いよいよ“沈黙の内側”に踏み込んでいきます。過去の葛藤や後悔を抱えながらも、真相を求めて動き出す彼らの姿は、静かな決意に満ちています。


第1節〜第5節では、かつて現場にいた人々の証言や資料が明らかになり、学校法人内部に仕組まれていた“構造的な搾取”の輪郭が、より具体的に描かれていきます。


「知らなかった」のか、「知っていて黙った」のか。

その問いは、読む側の私たちにも返ってくるものかもしれません。


人の心に長く残る“後悔”と、それでも向き合おうとする“選択”。

今回の章も、静かに深く沈んでいくような読後感を目指しました。ぜひお付き合いください。

第一節 もう一つの時間割

 郷不二夫は、午後の職業実習が終わった教室に一人残っていた。

 機械工作の教材が雑然と並ぶ実習台のそばで、金属片の音が遠くで響いている。学生たちはすでに帰路につき、管理担当が施錠に来るまでの、わずかな“余白”の時間だった。

 彼はロッカーの奥から、一冊のバインダーを取り出した。

 教員用の旧カリキュラム記録。——法人が義務として保存している公式の時間割と、郷自身が書き溜めていた“実際の授業メモ”が綴られている。

 めくる。

 そこには、ホアン・カイの名前もあった。記載されていたのは“出席扱い”となった日々のメモ。だが、その実態は“出席”ではなく、“現場派遣”だった。

 「授業」ではなく、「工場のライン」。

 「課題提出」ではなく、「製造記録票の提出」。

 ——記録には残っていない。でも、彼の時間は確かにここで潰れていった。

 郷は額に手を当てた。現場での実習を名目に、学生たちは企業に“労働力”として送り出されていた。給料の一部は企業から法人へ寄付金という形で“還元”されていた。

 教える側として、彼はそれを黙認していた。

 「先生は知ってるのに、何もしないんですね」

 かつてカイにそう言われたことがある。痛烈な一言だった。

 ——その通りだった。何もしなかった。

 

 不意に、控室のドアがノックされた。

 開けると、法人本部から来たスーツ姿の男が立っていた。

 「郷先生、常務理事が今、教員との個別面談を実施しておりまして。今から少し、本部の方へお越しいただけますか?」

 郷の背筋がわずかに硬直する。

 “常務理事”という言葉が、空気を変えた。

 

 数時間後、本部棟の応接室。

 革張りのソファに腰を下ろした郷の前に、八代宗明が現れた。理事会の長卓で見かけるときとは違い、笑顔を浮かべていたが、その目はまるで熱を帯びていなかった。

 「郷先生、長年お勤めいただきありがとうございます。今、法人では“より安全な教育環境”の整備に向けて、再編を進めておりましてね」

 「再編、ですか?」

 「ええ。教育の本質に立ち返るべきだと。つまり、教える者が“余計なこと”に気を取られず、与えられた範囲で最良の教育をしていただく。そのために……技術教員の再配置も検討しております」

 郷は目を細めた。これは“異動”という名の排除だ。

 カイの記録を掘り返し、未麻と接触したことが筒抜けになっている。

 「……私は、学生を教えてきただけです。今もそれを続けたいだけです」

 八代の笑みが深くなる。

 「“だけ”という言葉が、時に危険になることもありますよ。たとえば、教育者が政治的な発言をすれば、それは“逸脱”になりますからね」

 「学生が搾取されているなら、それは政治ではなく教育の問題です」

 静かながら、郷の声には明確な意志があった。

 八代はその言葉を数秒受け止めた後、今度は声を低く落とした。

 「この法人で、まだ働きたいとお考えなら……言葉の選び方にはご注意を」

 

 面談を終えた郷が校舎に戻ったのは、すでに陽が落ちた後だった。

 自席に戻ると、机の上に一通の茶封筒が置かれていた。

 差出人はない。

 中には、カイの“個人面談記録”の写しと、法人本部から“問題学生”として報告された日付リスト。

 郷は思わず息を飲んだ。そこに記されていた内容の一つが、明らかな虚偽だった。

 「○月×日:校内で暴言。教員威圧。反省の意思なし」

 ——そんな事実はなかった。

 その日、カイは工場に行っていた。郷自身が送り出した。その記録が、今、歪められている。

 郷は、静かに封筒を握りしめた。

 “記録”は、書く者によって真実にも嘘にもなる。

 ——ならば、自分が、書き直さねばならない。

 

 この日、郷不二夫の中で何かが確かに動いた。

 もう一度、過去を引きずり出す覚悟が、彼の中に生まれ始めていた。


第二節 カイのノートの奥へ

 湯谷未麻は、静かな教室の片隅で一冊のノートを開いていた。李徳近が持っていたコピーだ。

 カイが遺した、その筆跡は、整ってはいなかった。けれど、ページをめくるたびに、彼の時間、思考、そして恐怖がひしひしと伝わってくる。

 「D工 T1 JrB=4.5 JPN時間12.5H」

 意味不明な記号の羅列のように見えるそれらが、単なるメモではないと李は言った。

 「これはね、彼が記憶を“形”にしようとした痕です。直接書けない。監視されていたから」

 李の声は低かった。法人が寮の部屋を“点検”と称して抜き打ちで調査していたことは、現職の今も変わらない。学生たちは私物すら自由に記録できない。だからカイは、暗号のようにして情報を隠した。

 「“D工”はダイコー製作、“T1”はトレーニングライン1、“JrB”はJunior Batch、4.5時間の交代制……」

 未麻は唖然とした。

 「それって、完全に工場のシフト……?」

 「ええ。ここには、“教育”の要素なんて一つもない。ただの稼働記録。カイは、“授業”の代わりに自分が何をしていたか、記録し続けていたのです」

 

 ページをめくると、手書きの簡略地図のようなものが現れた。

 複数の矢印と、円形のマーク。その横には「T社」「S倉庫」「赤橋」といった地名や符号があった。

 「これ、工場の動線かもしれません」未麻が言った。

 李は頷いた。「私の記憶が正しければ、“T社”は法人が10年前から関係していた倉庫業者。“赤橋”はその隣の運送ライン。法人は表向きは無関係を装っていますが……実は学生の“研修先”として、毎年非公式に送り込まれていた」

 つまり、法人が直接契約していない名義で、学生が就労していた可能性。

 未麻は鳥肌が立った。

 「これ、もし証明できれば……」

 「法人が“管理していない場所に学生を送った”責任を問えます。そして、八代常務理事が署名した“実習評価報告書”にも矛盾が出るはずです」

 李の言葉に、未麻の呼吸が浅くなる。

 証拠は、このノートの中に隠されていた。——いや、“生きていた”。

 

 そのとき、教室のドアがゆっくりと開いた。

 事務局の若い職員が顔を覗かせる。

 「湯谷先生……本部から、お呼びがかかっております」

 未麻と李は目を合わせた。

 誰かが、この動きを察知している。

 ノートを鞄に滑り込ませ、未麻は静かに立ち上がった。

 もう、後戻りはできない。


 法人本部に到着すると、未麻はすぐに応接室へと案内された

 そこには人事部長の戸張と広報室の羽田が待っていた。

 空気は重く、形式的な挨拶の後、戸張が切り出す。  

 「湯谷先生。最近、カイくんに関する件で、外部と接触されていると伺っています」  

 未麻は黙って頷いた。  

 「個人の行動が、法人の方針と乖離しては困ります。ご理解いただけますね」  

 羽田が続ける。  

 「もし何かお感じのことがあれば、まずは法人の内部ルートで相談していただきたい。報道や第三者機関との接触は、誤解を生む恐れがあります」  

 それは、暗に“黙っておけ”という通告だった。  

 未麻は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。  

 「私にできることを、私なりに考えます。それだけです」  

 沈黙が数秒続き、やがて戸張が「本日は以上です」とだけ告げた。  

 退室後、未麻は重い足取りで本部を後にした。  

 外に出ると、低く垂れ込めた雲がさらに濃くなっていた。  

 しかし彼女の心には、小さな炎が、確かに灯っていた。



第三節 沈黙を見ていた人々

 午後の相談室は、窓の外に柔らかな光が射し込んでいた。

 池畑健仁郎は、ノートと録音機材を準備しながら、対面の若者に穏やかに目を向けた。

 彼の名はファルーク・ナシル。バングラデシュ出身の元留学生で、かつて問題となった「研修プログラム」の一環で法人の系列校に所属していた人物だった。

 「話すのは、ちょっと……怖い。でも、カイさんのこと、忘れたくない」

 ナシルは、日本語でゆっくりと話し始めた。抑揚のない言葉の裏に、何重にも重なった躊躇いがあった。

 「夜の作業、毎日9時間。でも、出席カードには“午前授業出席”って……書かれてた」

 「それ、誰が記録してた?」

 「事務の先生。でも、確認するのは“技術の先生”」

 池畑は即座にメモを取った。技術の先生——つまり、郷不二夫の可能性が高い。

 「郷先生、怒らなかった。でも、何も言わなかった。先生も、たぶん困ってた」

 ナシルはそう言って、視線を落とした。

 

 その後も、池畑は複数の元学生と面談を重ねた。

 「作業中にケガをしたけど、“学生扱いだから労災にならない”と言われた」

 「寮の電気代が毎月1万円以上だったけど、理由は教えてもらえなかった」

 「先生に相談しても、“黙っておいた方がいい”って……」

 証言の多くは、“直接的な暴力”ではなく、“構造による従属”の中での沈黙だった。

 

 その夜、池畑は録音を聞き直しながら、自分のメモにこう記した。

 ——沈黙は、罪ではない。

 ——でも、沈黙を仕組んだ者がいるなら、それは罪だ。

 そして、もう一つ。

 学生たちの話に、何度も繰り返し登場した名前があった。

 「郷先生は、最後に目を見て“ごめんな”って言った」

 「他の先生と違って、手を出す代わりに、手を引いてた気がする」

 彼は“見ていた”。

 ただ、それを言葉にできなかっただけだ。

 

 池畑はスマートフォンを手に取った。

 未麻から届いたメッセージが表示されていた。

 ——カイのノート、重要な記録がある。

 ——郷先生にも繋がってる。会えない?

 

 画面を見つめながら、池畑は静かに頷いた。

 沈黙の中にこそ、見えない真実が潜んでいる。

 だからこそ、今——掘り起こす価値がある。


第四節 リストの底に

 花木雅夫は、製薬会社のデスクに座ったまま、法人から送られてきた「教育提携事業」の報告資料を再び開いていた。

 表紙には立派なロゴと“国際共育パートナーシップ”の文字。だが、中身は数字の羅列と曖昧な実習報告がほとんどだった。

 「実習成果評価:優秀」「学生満足度:95%」——耳障りの良い文言ばかりが並んでいる。

 だが、花木はその中に、どうにも腑に落ちない項目を見つけた。

 「受入企業協力金」という名目で、提携企業から法人に送金されたとされる金額。

 一人あたり月額5万円。受け入れ学生数は、年間延べ1187人分。

 「……1187人?」

 法人の実習課程の在籍学生は、全学年合わせても300〜350人程度のはずだった。

 花木はスプレッドシートに数値を打ち込みながら、別の帳票と照合を始めた。

 入学者数、在籍者数、退学者数……それらの推移と“協力金”の総額が一致しない。

 つまり、法人は——

 “実在しない学生”、あるいは“複数企業に同一学生を割り当てた”ことにして金を受け取っている可能性がある。

 

 花木はさらに深掘りした。提携先企業の中に、一つ気になる名前を見つけた。

 「ジアース・テック合同会社」

 登記情報を調べると、代表者名が見覚えのある姓だった。

 ——八代。法人の常務理事・八代宗明と同姓。住所も八代の個人資産として所有されている都内の一室と一致する。

 花木の背筋が、ゆっくりと冷たくなる。

 「裏で、自分の会社を通して協力金を還流させている……?」

 法人への“寄付金”として入った資金は、補助金と混在し、文科省への報告では“国際教育事業支出”に計上されている。

 これでは外部からは見抜けない。完璧な“資金洗浄”だった。

 

 花木はプリントアウトした帳票を、封筒に入れて丁寧に封を閉じた。

 表書きには、こう書いた。

 「公益通報資料(匿名提出用)」

 

 その夜、花木は池畑と未麻に連絡を取った。

 ——資金の流れを押さえた。

 ——法人と企業の癒着を示す文書、手に入れた。

 ——八代理事が直接動いてる可能性が高い。

 メッセージを送り終えたあと、ふと窓の外を見ると、マンションの向かいのビルから誰かがこちらを見ている気配がした。

 目を凝らすと、すぐにその影は動いた。

 姿は見えなかったが、確かに“何か”が、見ていた。

 ——動き出したのは、こちらだけじゃない。

 花木は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。

 ここから先は、正面突破しかない。


第五節 配置転換

 法人本部の面談室。

 郷不二夫は、午前の実習を終えたばかりの作業着のまま、人工照明の下に座っていた。

 時間厳守で通された面談室には、すでに常務理事・八代宗明が腰掛けていた。濃紺のスーツにネイビーのネクタイ、机上には“業務評価面談シート”のファイルが整然と並んでいる。

 「郷先生、お忙しいところありがとうございます。今期の再配置について、法人の方針をお伝えします」

 八代の口調は、あくまで丁寧だった。

 だが、その言葉の端々から、否応なく“強制力”の気配が滲んでいた。

 

 「技術課程の教育内容を一層効率化するため、実習指導教員の構成を若返らせる方針です。ついては、郷先生には教育課程開発室への転属をお願いしたく……」

 「……つまり、現場から外せと?」

 郷は低い声で返した。

 八代の笑みが、微かに動いた。

 「いえ、郷先生の知識は教材設計などで大いに活かされるはずです。“教える”という行為は、必ずしも対面授業だけを意味しませんよ」

 まるで“名誉ある転進”のような物言いだった。

 だが、実際にはそれは——学生と接触させないようにするための隔離措置だった。

 

 「私は、学生と向き合いたいだけです。それを邪魔される理由は?」

 郷の目に、明らかな怒りが宿っていた。

 八代は、まるで予想していたかのように、一枚の紙を取り出した。

 「最近の実習評価アンケートで、“特定の教員が政治的な話題を持ち出していた”という記述がありました。もちろん名指しではありませんが、リスクを回避するのは組織の務めです」

 ——嘘だ。そんな記述は改竄できる。

 そして何より、それを書かせたのは誰だ?

 

 郷は口を結び、数秒沈黙した。

 やがて、静かに言った。

 「私は、ホアン・カイという学生を教えていました。彼は“教育”の名の下で働かされ、そして死んだ。私は、もう二度と、あのような沈黙を選びません」

 八代は、ほんのわずかだけ表情を崩した。

 「——なら、覚悟してください。組織というのは、個人の信念より遥かに強いものです」

 

 そのまま面談は終了となった。

 郷は廊下を歩きながら、自分の中で何かが確実に“折れた”ことを感じていた。

 折れたのは意志ではない。

 ——迷いだった。

 

 職員室に戻ると、ロッカーの上に茶封筒が置かれていた。差出人はない。

 中には、一枚のコピー紙。

 「退寮措置報告ホアン・カイ:問題学生リスト掲載・八代印」

 その下には、小さくこう書かれていた。

 「原本はまだ“消されていない”」

 郷はその紙を握りしめ、目を閉じた。

 常務理事の“暴走”が、ついに個人を超えて組織全体を覆い尽くし始めている。

 ならば、自分がその記録を“声”に変えねばならない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第2章前半では、「過去の声」を拾い集めるという意味で、非常に重要なパートでした。

中でも、郷や李徳近といったキャラクターたちの“沈黙の理由”が少しずつ語られ始めることで、物語は単なる告発劇ではなく、個人の内面と重なる“群像の葛藤”として深まっていきます。


制度、構造、労働、そして教育。

それらに対して、一人ひとりがどう向き合い、どんな選択をしてきたのか――。


次回以降は、さらに内部資料や証言が加わり、追及の歩みが加速していきます。

引き続き、静かな怒りと、ささやかな希望を携えた物語をお届けしてまいります。

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