第一章 沈黙の再会②
第6節から第10節では、いよいよ「内側の証言者」たちの存在が浮かび上がり始めます。
かつて黙ってしまった教師、問題を抱えながらも声を上げられなかった支援者、そして苦悩の末に沈んでいった学生たち——彼らの断片的な記憶や記録がつながり、真相の輪郭が少しずつ見え始めます。
ホアン・カイという一人の若者の死をきっかけに、封じられていた痛みが動き出す。
見えなかった「構造」の輪郭が、今ようやく輪郭を持って姿を現す。
目を背けてきた沈黙の意味、その先に何があるのか。
今回のパートでは、物語の中核にある「沈黙と告発」のテーマが、より強く浮かび上がってきます。
第六節 再会の兆し
湯谷未麻からのメールを受け取ったとき、花木はデスクの前で社内ミーティング資料の修正に追われていた。
本文は短く、まるで風に乗って届いた小さな声のようだった。
「話せますか? 私たちの“前”について」
花木はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。
“前”という言葉の意味はすぐに理解できた。あの学校法人での日々、ホアン・カイ、そして……沈黙していた自分たちのこと。
すぐに返信を送った。「会おう。池畑にも声をかけてくれ」
その言葉に迷いはなかった。
三日後の午後。神田の喫茶店で、三人は再会した。
入り口のベルが鳴った瞬間、未麻の胸は高鳴った。あの頃と変わらない花木の歩き方。すこし遠慮がちな、でも確かな足取り。続いて、やや肩をすくめるように入ってくる池畑。
並び合う姿は、妙に懐かしく、そして今は頼もしく見えた。
「久しぶりだな」
池畑が照れくさそうに言った。
「ほんとに……何年ぶり?」
未麻が笑ったが、その声には緊張も滲んでいた。
コーヒーが届き、沈黙が数秒流れた。
最初に口を開いたのは、花木だった。
「ホアン・カイの死、偶然とは思えない。いや、あいつの死を“偶然”って言葉で片付けたら、俺たち、何も変わってないことになる」
「私もそう思ってる」
未麻が頷く。「実は、今の学校に、彼のことを知ってる人物がいるの」
「誰だ?」池畑が身を乗り出した。
「李徳近さん。中国出身で、元法人で長く教員や生活指導をされてた。今は契約で、私たちとは別の分校にいるけど……カイとも関わりがあったはず。三人とも、覚えてるでしょ?」
「もちろん。あの人がいなかったら、俺、学生支援やれてなかった」
池畑が即答する。「生徒からも教職員からも慕われてた。だけど、法人の上層部からは、あまり好かれてなかったな」
花木も頷いた。「外から来た人間で、“おかしいことはおかしい”って平気で言える人だった」
「それと、もう一人」未麻が言葉を継ぐ。「郷不二夫先生。カイが最後に通っていた職業課程の担当教員。あの学校の“技術者養成”コースって名目の、労働提供コースね」
「郷先生も、まだ残ってるのか?」
花木の声に、ほんのわずかな驚きが混じった。
「ええ。ただ……彼も何かに怯えてるように見える。学生には優しいけど、法人に逆らうようなことは言えない立場なのかもしれない」
3人の間に、また少しの沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは池畑だった。
「俺が李さんに連絡してみよう。福祉関係の研修で何度か顔を合わせてる。協力してくれるかもしれない」
「私は、郷先生に会ってみるわ」
未麻の瞳が強く光っていた。「カイが何を訴えようとしていたのか、きっと知ってる」
「俺は、法人と提携を持ちかけてきた企業の情報を調べる。製薬会社として協働する前に、裏を取る必要がある」
3人は視線を合わせた。かつて、それぞれの理由で背を向けた過去に、今、初めて正面から立ち向かおうとしていた。
「再び沈黙することだけは、したくない」
そう言ったのは花木だった。未麻は、ただ黙って頷いた。
喫茶店の外では、夕暮れの空が曇天に染まり始めていた。
光のない空の下、三人はそれぞれ、闇の奥へと歩き出す準備を整えていた。
第七節 沈黙の綻び
翌日、池畑健仁郎は古びた研修施設の外階段を上がっていた。都下にある中規模の専門学校分校。そこに、李徳近は嘱託という形で生活相談員として勤めていた。
「……池畑先生?」
控え室のドアを開けた瞬間、懐かしい声が聞こえた。李徳近は背筋を伸ばし、相変わらず品のある眼差しで池畑を迎えた。歳は取ったが、内に秘めた強さは微塵も衰えていなかった。
「お久しぶりです。……突然で、すみません」
「いいんですよ。あなたが来るなら、きっと何かあったと思ってました」
李は静かに湯を沸かし、二人分のジャスミン茶を淹れた。
湯気が立ちのぼる中、池畑はホアン・カイの死を伝えた。李の表情がわずかに曇る。
「……あの子は、最後まで“誰かに見られてる”と怯えていました。夜中、何度も寮を抜け出して、私のところに来たんです。“このままだと消える”と」
「誰かに脅されてた?」
「正確には、“働かなければ帰れない”と。つまり、自分が“商品”のように扱われていることを、彼は理解していたんでしょう。私も、それ以上深く踏み込めなかった……すまない」
池畑は首を横に振った。「先生がいてくれたから、彼は最後まで希望を持てたんだと思います」
李はしばらく沈黙していたが、やがて机の引き出しからファイルを一冊取り出した。
「これが、あの子が残していったノートのコピーです。原本は持ち出せませんが……中に、作業場の実態や“郷先生”とのやり取りも記録されています」
一方、湯谷未麻は、法人の分校が運営する技術訓練施設を訪れていた。午後の実習が終わったばかりで、生徒たちがゆっくりと控室に戻っていく。
郷不二夫は、その中央で一人一人に声をかけていた。相変わらず丁寧な姿勢。だが、目の奥にどこか怯えの色が見えた。
「……先生」
未麻が声をかけると、郷は一瞬戸惑ったように表情を曇らせた。だが、すぐに穏やかに笑った。
「湯谷先生……今の法人じゃ珍しいですね、昔の人が来るなんて」
「郷先生。ホアン・カイの件、何かご存じじゃないですか?」
郷の顔が強張った。周囲を確認するように視線を巡らせると、小声で言った。
「……ここでは話せません。私の家に来ていただけますか」
その夜。
都内の小さなマンションの一室に、未麻は通された。郷の部屋は質素で、床には古い作業靴が整然と並べられていた。
「私は……あの子に、何もしてやれなかったんです」
郷は静かに語り始めた。法人の“職業訓練”の名目の下、生徒たちは契約書も交わされず、提携企業に労働力として送り込まれていたこと。事故が起きても「研修中の不注意」とされ、労災すら申請されないこと。カイは、その実態をノートに記し始めていたという。
「だから、あの子は狙われたのかもしれません。私がそう思ってるだけかもしれませんが……組織は静かに排除するのが上手いんです」
その頃、花木もまた、自社の提携先として学校法人の名が含まれる資料を読み返していた。データの中に、「就労支援型インターンプログラム」と記されたスライドがある。
——教育ではない。搾取だ。
花木は未麻と池畑に、今すぐ会うべきだと連絡を入れた。
三人の調査が、ついに法人の内部に食い込もうとしていた。
だが、それを察知した者が、静かに動き始めていた。
第八節 動き出す闇
夜の喫茶店に、再び三人が顔をそろえた。テーブルの上には、それぞれが持ち寄った資料と記録が並ぶ。ホアン・カイが遺したノートのコピー。郷不二夫が語った“研修制度”の裏側。法人と製薬会社の間で交わされていた協定文書。
花木がノートPCを開いた。「この法人、今や“産学連携”を名乗って医療・介護・製造分野に外国人労働者を供給してる。しかも、就労ビザじゃなく“教育機関の留学ビザ”のまま。労基も、入管もすり抜けてる」
「明らかに制度のグレーゾーンを利用してますね」と池畑。「いや、グレーどころか、もう真っ黒に近い」
未麻は静かにノートを見つめていた。「カイは、この構造そのものに気づいてた。そして、潰された」
「俺たちが掴んだ情報を、メディアか議員に出すことも考えるべきだ」と池畑が口にした瞬間、花木のスマートフォンが震えた。表示されたのは非通知番号。
「……失礼、少し外す」
花木は携帯を耳に当て、喫茶店の外へ出る。すぐに、相手が話し始めた。抑揚のない、録音のような声。
「あなたの動きは把握しています。これ以上、過去をほじくるのはお互いにとってよくないでしょう。ご自分の立場を考えたほうがいい」
ぷつり、と通話が切れた。
花木は無意識に背後を見た。誰もいない。だが、空気の質が変わっていた。
その頃、未麻の元にも変化が起きていた。
出勤すると、事務局から呼び出しを受けた。
「最近、SNSや学生間であなたの名前が話題になっているようです。法人としての立場を尊重した言動をお願いします」
それは明確な警告ではなかったが、仄めかすには十分だった。
「話題……というのは、何か問題が?」
「あなたが過去に勤めていた法人の名前や、ある学生の死について言及しているという声があります」
内部の誰かが監視している。彼女の行動がどこかで“報告”されている。それを肌で感じた未麻は、背筋を正しながら答えた。
「私の行動が問題になるのなら、正面から話しましょう。責任は取ります」
一方、池畑の元には、職場の上長から突然の辞令通知が届いた。
「次の契約更新については見送りの方向で調整中です。理由は人員再編……とだけ申し上げておきます」
明らかにタイミングが不自然だった。彼はすぐに理解した。
——自分たちの調査が、“誰か”の耳に入ったのだ。
その夜、三人は再びメッセージを送り合った。
“相手は動き始めた”
“だが、だからこそ、確信に近づいている”
翌朝、郷不二夫の部屋に郵便物が届いた。
差出人不明の茶封筒。中には、一枚の印刷物。
コピーされた業務日報。そこに記されていたのは、ホアン・カイが「無断欠勤」扱いにされた日付と、校内で“再三の指導”が行われたという記録。そして、最下部に小さく書かれた一文。
「退寮措置・報告済(外部者対応不可)」
郷は震える指でそれを握りしめた。
——外部者対応不可。
つまり、それは“消された”ことを意味していた。
闇は、静かに、確かに、こちらを睨み返していた。
それでも三人は、それを正面から見つめ返し始めていた。
第九節 声を上げる者たち
未麻は校舎裏の非常階段に身を潜め、スマートフォンを握りしめていた。相手は、都内の外国人支援団体の代表。かつて学生の窮状を共に訴えようとした同志でもあった。
「あなたの話、録音していいかしら?」
「構いません。記録はすべて、外部調査機関に預けます。——そろそろ、誰かが声を上げなきゃいけないんでしょう」
その言葉が、胸に静かに染み込んでいく。
未麻は迷いを振り払うように、法人の規則で禁じられた“記録保管用USB”を、胸ポケットに押し込んだ。
その日の午後、池畑健仁郎は、行政書士としての立場を使い、元学生数名に正式なヒアリングを開始していた。彼らは皆、法人の「研修先」から逃げ出した経験を持つ若者たちだった。
「日本語、わかる。でも契約書、よくわからない。働くとき、先生言った。“これは勉強、仕事じゃない”」
「けど、仕事だったんですよね?」
「うん。夜12時まで、毎日。先生に言ったら、“我慢しなさい”って」
記録は、整理され、証拠として成形されていく。池畑の目は、職業人として冷静だったが、その奥には怒りがあった。
花木雅夫は、その夜、自宅の書斎で取引先企業のリストと法人の提携記録を見比べていた。
書類の中に、明らかに“法人職員”ではない名義で、外注業務を請け負っている会社名を見つけた。代表者は、法人理事の親族。所在地は架空のシェアオフィス。
——これは完全な利益供与だ。
花木は、企業コンプライアンス監査を請け負う外部の法律事務所に、匿名で情報提供を始めた。
「第三者による調査が必要です」
そのメッセージに添付されたのは、郷不二夫から受け取った内部資料と、法人の会計資料の抜粋だった。
同じ夜。
郷不二夫は部屋の明かりをつけたまま、李徳近に電話をかけていた。
「……あなたの言う通りでした。私は、学生の前では“いい先生”でいたかった。でも……今、初めて思ったんです。本当に守るべきものを間違えていたのかもしれない」
李の声が、静かに返ってきた。
「間違いは、気づいたときから直せばいい。私たちは、それを若い人に教える立場でしょう?」
週末、三人は都内のとある小さな会議室に集った。そこには、外国人支援団体の代表、フリージャーナリスト、そしてある野党系の若手議員秘書の姿もあった。
「まずは、これが証拠です」
未麻がテーブルの上に資料の束を置く。池畑は音声記録とヒアリング記録、花木は法人と外部企業の関係を示す構造図を差し出す。
議員秘書が言った。
「これは、文科省と入管庁、両方の監督責任が問われる案件になります。——準備は、いいですか?」
花木が小さく頷いた。
「俺たちは、あのとき黙った。でも……今は違う。今度こそ、声を上げる」
夜の街を歩きながら、三人はそれぞれの思いを胸に抱えていた。
過去は消えない。失った命も、戻らない。
だが、同じ過ちを繰り返さないために、誰かが声をあげねばならない。
その声はまだ小さく、かき消されそうなほどだったが——
確かに、社会の中に届き始めていた。
第十節 目覚めの朝
朝の光は、どこか遠慮がちだった。薄曇りの空から射し込む陽が、部屋の隅々を静かに照らしていた。
花木雅夫はいつもより早く目覚め、書斎の椅子に腰を下ろした。机の上には、昨夜まとめた報告書のコピーが置かれていた。誰かに押しつけられた義務ではない。自分が、自分に課した責任だった。
メールの受信ボックスに未麻からの一通が届いていた。
——「お疲れさま。今日からが本当のスタートかもしれないね」
短いが、芯の通った言葉だった。
一方、池畑は自宅近くの公園を歩いていた。朝の空気はまだ冷たく、犬の散歩をする老人が挨拶を交わしてくる。いつもの景色。けれど、心の奥にある“重し”が少しだけ軽くなった気がした。
携帯が震える。支援団体の若手スタッフからだった。
「池畑さん、前に相談していた元留学生、また連絡きました。“今なら話せる”って」
「……わかりました。迎えに行きます」
彼は歩みを止めなかった。目の前の小さな一歩が、過去の沈黙を一つずつ崩していく——そんな気がしていた。
そして、未麻。
学校の教室。朝の陽射しが白いカーテン越しに広がる中、彼女はホワイトボードに「今日のことば」と書いた。
その下に、静かにこう綴る。
「こえを だす ゆうき」
誰もが最初は怖い。間違えるのが怖い。嫌われるのが怖い。
でも、それでも声を出すことからしか、何も始まらない——それを、彼女は生徒たちに教えたいと思った。
その日、全国紙の社会面の片隅に、ある小さな見出しが掲載された。
「留学生転落死を巡る環境実態、教育関係者らが調査要望」
世間にとっては、ただの小さな記事。だが、真実は時に、こうしたかすかな声から始まる。
そして、三人はそれぞれの場所で、それぞれの一歩を踏み出していた。
かつて、沈黙の中で交わすことのできなかった視線が、今、確かな意思として結び直されていた。
目覚めたのは、社会ではない。
彼ら自身だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回の5節では、物語の鍵を握る人物たちが再登場し、過去の出来事が少しずつ接続されていきました。
特に印象深いのは、「いい先生」であろうとして沈黙してきた者の苦悩、そして自分の無力さと向き合う場面です。
人は、正しさをわかっていても、常に声を上げられるわけではありません。
だからこそ、声を上げようとする決意には重みがあります。
次回以降、真相解明とともに「今、どう動くのか?」が焦点になります。
登場人物たちが「再び声を出す」場面に、ぜひ注目していただけたらと思います。




