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第一章 沈黙の再会①

この物語は、ある「教育機関」で起きた事件をめぐる群像劇です。


“外国人留学生の転落死”という一報から始まる第1章では、かつて彼を担当していた関係者たちが、それぞれの立場で「沈黙」と向き合い始めます。


かつて見て見ぬふりをしてしまった教師たち、支援しきれなかった福祉関係者、逃げたと思っていた過去が再び目の前に現れる人々——彼らの胸に去来するのは、後悔と怒り、そして問いです。


「自分は、見ていたはずなのに、なぜ声を上げなかったのか?」


これはフィクションですが、現代社会で実際に起きている構造と地続きの物語です。

読んでくださる皆さんの胸に、何かが届けば幸いです。

第一節 静寂の朝


 この学苑では、ルールに従わない者は“消される”。


 それは、生徒たちにとって常識であり、日々の空気のように当たり前のことだった。

 それでも――ときどき、息が詰まりそうになることがある。

 

 窓の外では、霧雨が舗道に細い線を描いていた。

 花木雅夫は、出社前のルーチンのように、コーヒー片手にスマートフォンを滑らせていた。

 大した内容もないSNSのタイムラインを横目で流していたとき、指がふと止まった。


 地方紙のニュースサイトに、小さな見出しが表示されていた。

 「外国人留学生転落死 都内マンション屋上から 自殺の可能性も」


 その一文が、心の奥を鈍く叩いた。なぜか、目が離せなかった。 


 記事の冒頭には、大学名と氏名が記されていた。花木の眉がわずかに動く。

 その名前を、彼は知っていた。かつて、自分が担当した留学生の一人。日本語の語彙もままならず、不安そうな目で空港ロビーに立っていた、あの青年の顔が、にわかに鮮やかによみがえる。


 しばらく画面を凝視していた。記事はまだ短く、事実以上の情報はなかった。警視庁は事件性を排除せず調査を継続しているという。大学側は「本人に精神的な不安は見られなかった」とコメントしていた。


 花木はスマートフォンを裏返し、カップを口元に運んだ。ぬるくなったコーヒーの苦味が、妙に喉に残った。


 その名前を見た瞬間、記憶の底から突き上げてきたのは、後悔だった。

 自分は、何を見落としていたのか――それとも、見ようとしなかったのか。



第二節 記憶の底から


 その名を、花木雅夫は忘れていなかった。いや、忘れようとしていたのかもしれない。

 ——ホアン・カイ。

 ベトナムからの留学生で、2年前、花木がまだ学校法人の海外事業部に所属していた頃に来日した学生のひとりだ。空港での出迎えから、入寮の手続き、日本語クラスの振り分け試験まで、最初の3日間はほとんど付きっきりだった。

 その記憶が、妙に鮮明だったのは理由がある。

 カイは当初から、日本での生活に不安を隠さなかった。言葉の壁だけではない。寮の部屋に入った途端、布団を広げもせずにぽつんと座り、花木に向かってこう言ったのだ。

 「先生、日本、こわいです」

 たどたどしい発音だったが、その言葉の輪郭は今も耳に残っている。何が怖いのか訊ねると、彼は曖昧に首を振るばかりだった。

 花木はそのとき、「留学生特有のホームシックだ」と自分に言い聞かせた。過去にも同じような例はあった。数週間もすれば、新しい環境に適応していく。そう、思っていた。

 だが、ホアン・カイは違った。

 半年後、教務担当から「カイが授業に出ていない」と報告が入った。学費の納入も滞りがちで、生活費の支援についても、彼の国の家族と連絡が取れないという。生活支援室との面談でカイが語った内容は、花木の想像を越えていた。

 「紹介されたアルバイト、ぜんぜん休めない。日本語、使わない。契約、ない。でも、怒られる」

 それは教育機関が仲介するにしてはあまりに異常な労働環境だった。深夜の工場勤務。名ばかりの“研修”。使い捨てられるような外国人労働者の現実。

 花木はすぐに上司に報告した。だが、返ってきたのは冷めた声だった。

 「彼が勝手に選んだ先だろう? 学校としての責任はない」

 あのとき、彼は声を荒げるべきだったかもしれない。あるいは、もっと具体的に証拠を集めるべきだったか。しかし、誰かが見ていた。周囲は常に静かで、誰も声を出さなかった。彼もまた、沈黙を選んだ一人だったのだ。

 その後、カイは突然、学校から姿を消した。除籍処分とされたが、事務的な手続きで済まされ、それ以上を追う者はいなかった。

 ——彼は、生きて帰ったのか。そう思ったこともある。

 ——そして今、その答えが、最悪の形で突きつけられたのだ。

 花木は再びスマートフォンを手に取り、カイの名前を検索した。SNSの投稿、ニュース、誰かのコメント。断片的な情報が無数に広がっている中で、一枚の画像に視線が釘付けになった。

 古びたアパートの屋上。ブルーシートに覆われた場所の奥に、警察官とカメラマン。周囲を囲む視線の波。

 その画像を、彼はどこかで見たことがある気がした。

 いや——気のせいではない。以前、ある学生が「カイが住んでいた」と話していた建物だった。

 逃げるように姿を消した若者の最後が、あの場所だったのか。

 喉の奥が焼けつくように乾く。

 罪悪感というには生ぬるく、責任感というには手遅れだった。

 それでも、何かをしなければならない。そうでなければ、自分もまた、あの法人の一部として終わる。

 ——この件に、もう一度、向き合わなければならない。



第三節 揺らぐ心


 授業が終わった直後の教室は、誰もいなくなると驚くほど静かだった。

 湯谷未麻は、ホワイトボードの前で一息つきながら、胸元のスマートフォンが震えるのを感じた。軽く手に取ると、通知欄にニュースアプリの速報が表示されていた。

 「外国人留学生の転落死 都内で発見 自殺か」

 その瞬間、胸の奥が冷たく凍るのを感じた。記事を開き、本文をなぞるように読み進める。——名前があった。ホアン・カイ。間違いない。かつて、彼女が前の学校法人で教えていた学生だった。

 ほんの数ヶ月前、カイは未麻の現在の勤務先に転校を希望して願書を提出していた。今の学校法人は、前の法人よりは比較的まともだった。少なくとも、露骨な使い捨てや不正の温床ではなかった。未麻は、あのとき彼にこう言った。

 「うちの学校なら、少しは安心して学べるはずよ。一緒に、がんばろうね」

 その言葉が、今は嘘になったように響いていた。

 未麻は職員控室に戻ると、書類棚の中から願書の控えを取り出した。そこに記されていた「志望動機」は短く拙かったが、痛切な言葉が並んでいた。

 「前の学校では、勉強できなかった。仕事ばかり。先生たち、みんな、目をそらす。」

 その一文を指でなぞるようにして、未麻は小さく息をついた。

 ——なぜ、もっと早く彼を受け入れてあげられなかったのか。

 ——なぜ、自分もあのとき、声を上げなかったのか。

 思い出したくない記憶が、静かに波紋のように広がる。

 あの法人で働いていた頃。湯谷未麻は、理想に燃えていた。外国人学生の架け橋になることが、自分の使命だと信じていた。だが、日々目の当たりにするのは、制度という名の“抜け道”で搾取される学生たちと、それに加担する大人たちだった。

 そんな中で、花木雅夫の姿勢は異質だった。彼は理知的で冷静ながら、学生一人ひとりを丁寧に見ていた。未麻は、その姿に強く惹かれていた。けれど、それ以上に、口に出すことのできない感情があった。

 ——彼は、自分と違って、前に進める人だった。

 だからこそ、何も伝えずに終わった。その思いも、花木が突然退職してからは、記憶の中に閉じ込めたままだ。

 しかし今、その名前が、こうして同じ場所に戻ってきた。

 彼女の胸の内に、何かが再び揺れ始めていた。それは、過去を悔やむだけの後悔ではない。再び立ち上がるべき時が来ているという、警鐘のような感覚だった。

 その夜、未麻は久々に、父・湯谷孝一と食卓を囲んだ。無口な人だが、ニュースを見ていたらしい。

 「お前、あの学生のこと……関わってたか?」

 「昔、少しだけ。教えてた。どうして?」

 父は味噌汁の椀を置き、表情を変えずに言った。

 「生活安全部が軽く動いてる。事件性は低いって話だが……おかしな話も出てるらしい」

 「どんな話?」

 「黙っておけって言われてる。でも、警察の人間が“妙だ”って感じるときは、大抵……妙なんだ」

 その言葉が、未麻の心の奥を鋭く刺した。

 父はそれ以上何も言わず、箸を持ち直した。未麻はその背中を見ながら、長年感じていた距離と、奇妙な信頼の混じった感情を思い出していた。

 食卓に、静寂が戻った。だが、未麻の中では、確かに何かが動き始めていた。



第四節 福祉の現場で


 池畑健仁郎は、相談室の窓を開けた。湿気を含んだ初夏の空気が、埃のこもった空間に流れ込む。壁に掛けられたカレンダーの日付をぼんやりと見つめながら、まだ若い相談者が椅子の背に身を沈めるのを確認した。

 「労働時間、いつも夜中まで。日曜もない。ビザ、こわれる。どうすればいい?」

 たどたどしい日本語だった。ベトナム人男性、22歳。技能実習から逃げ出して、今はシェルターに身を寄せている。池畑は慎重に言葉を選びながら、行政書士としての職責で対応方針を頭の中で組み立てる。

 ——就労資格外活動か。監理団体が機能していない。就業先との契約書もない。

 「まずは状況を整理しよう。一緒に書類を見ながら、今できることを考えよう」

 平坦な口調でそう告げたが、内心はざわついていた。この数ヶ月、こうした相談が明らかに増えている。特に、ある“出身校”を名乗る若者たちに、奇妙な共通点があった。

 学校名。履歴書に書かれたその文字列に、見覚えがあった。

 ——自分がかつて勤務していた、あの学校法人だった。

 当時、彼は教務と学生支援の間をつなぐ調整役を担っていた。福祉の現場で学んだ知識と行政書士資格を持つことで、法的な支援も行っていたが……それが“邪魔”とされる空気も感じていた。

 「君は、学生を守りすぎる」

 「現場のことは現場に任せた方がいいよ」

 そう言われたのは一度や二度ではなかった。口出しをすれば「面倒な奴」、黙っていれば「協調的」。結果、どちらを選んでも自分は浮いた。だが、それでも目を背けたくないものがあった。

 支援先の団体から一報が入ったのは、その夕方だった。

 「例の子……ホアン・カイ、亡くなったって」

 一瞬、受話器が冷たくなった気がした。

 「……死因は?」

 「報道じゃ自殺。でも、うちに来たとき、彼が言ってたよ。“学校の寮はもう信用できない。あれは学校じゃない”って」

 池畑は電話を切ったあと、机に突っ伏すように腕を置いた。冷静を保っていたつもりだったが、手が微かに震えていた。

 ——ホアン・カイ。

 名前を口の中で転がす。数年前、法人内で話題になっていた問題学生の一人だった。真面目で気弱、ただ日本語が伸びず、出席も途切れがちになり、最後は音信不通。

 当時、彼の処遇を巡って教務部と事務局が対立していたことを思い出す。池畑は、そのどちらにも納得がいかず、独自に学生支援室のスタッフと連携して彼を探そうとした。

 しかし、ある日を境に、彼のファイルはシステムから“消えた”。それを咎めたとき、管理職が吐き捨てるように言ったのだ。

 「いない学生に時間を使う余裕はない」

 ——本当に“いなかった”のは、誰だったのか。

 机の引き出しから、あの頃自分が個人で保管していた学生リストのコピーを取り出す。そこには、ホアン・カイの名前と、仮登録の寮住所が記されていた。その横に、小さく手書きのメモ。

 「深夜労働? 法人関与か? 再調査要」

 自分が記した字だった。それは、当時の自分が“気づいていた証拠”でもあった。

 池畑は、デスク脇のPCを立ち上げると、連絡先一覧を開いた。

 その中にある、ふたつの名前にカーソルが止まる。

 湯谷未麻。花木雅夫。

 ふたりと顔を合わせるのは、何年ぶりになるだろうか。だが、今こそその時かもしれない。

 闇は消えたのではなく、ただ形を変えて生き続けている。

 それを断ち切るためには、沈黙のままではいられない。



第五節 交差する記憶


 あの時、誰もが気づいていた。

 けれど、誰も口に出せなかった。

 学校という看板の裏で何が行われていたのか、その全容は今も霧の中だが、三人の胸には、確かな輪郭を持った記憶が刻まれていた。

 

 ——花木雅夫。

 外資系製薬会社の国際事業部で働く今も、ふとした拍子にあの学生たちの顔が浮かぶ。報告書をめくっていた手を止めると、先ほど読んだ記事の画像が脳裏に重なった。

 過去を振り払うように退職し、企業という異なる土壌に身を置いたつもりだった。だが、法人との“提携”をにおわせる取引先の名が、つい先週、耳に入ったばかりだった。

 「貴社の海外インターン枠、某学園グループと組んで……」

 その一言が、胸の奥に張りついたままだ。

 逃げたつもりの場所に、また別の形で過去が追いついてくる。

 それなら——今度は、逃げるまい。そう、心の中で呟いた。

 

 ——湯谷未麻。

 教室の机を一つひとつ片付けながら、未麻はホアン・カイの願書を再び開いていた。彼が選んだ志望動機は、拙いながらも、彼自身の“居場所を求める声”だった。

 「日本で、まなびたい。ほんとうの、がっこうで」

 それは皮肉だった。前職の学校法人は、“ほんとうの”学校などではなかった。

 誇張でも、恨みでもない。制度の歪みと利益の論理が、教育という名の下に積み重なっていただけだ。

 もう一度、その現実と向き合う時が来た。

 自分自身の、過去の後悔とも。

 

 ——池畑健仁郎。

 支援団体との調整を終えた帰り道、池畑はスマートフォンの連絡先に視線を落とす。

 花木。未麻。あの二人に再び会うことを考える日が、まさか本当に来るとは思っていなかった。

 過去の法人で、自分たちは完全に同じ立場ではなかった。

 だが、見ていたものは似ていた。感じていた不信感も、同じだったはずだ。

 当時、未麻が花木に向けていた視線にも気づいていた。だが、それは何も生まれぬまま、組織の闇に飲まれて消えた。

 今なら、言えるかもしれない。

 「俺たちは、間違っていなかった」と。

 

 ——そして夜。

 それぞれの手元に、同時に同じ名前が浮かび上がった。

 花木のスマートフォンには、かつての学内資料から取り出した学生のリスト。

 未麻は、授業準備の合間に、手元の願書を見つめる。

 池畑は、支援記録のファイルに残した走り書きを眺める。

 ホアン・カイ。

 彼の死を、偶然で終わらせてはならない。

 過去に背を向けた者として、その代償は、あまりに重い。

 

 誰かが声を上げなければ、次はまた別の誰かが沈んでいく。

 それは、かつて教えた教え子かもしれないし、今目の前にいる学生かもしれない。

 その夜、未麻はついに一通のメールを送った。

 宛先は二人。花木雅夫、池畑健仁郎。

 件名は短かった。

 「話せますか? 私たちの“前”について」



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


第1章の前半では、主人公たちが「過去」と再び向き合い始めるきっかけとして、ホアン・カイという一人の若者の死を描きました。


この章は、謎解きというよりも、“なぜ声が届かなかったのか”“なぜ黙ってしまったのか”という沈黙の構造を掘り下げるパートです。


次節以降では、過去を掘り起こしながら、より具体的な真相に迫っていきます。

「教育」の名のもとに何が隠されていたのか、そしてそれに抗おうとする人々の姿を、じっくり描いていきます。


引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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