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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

もう一度あなたに逢えたなら・・・

あなたしか残らなかった

作者: ミーミル

この物語には、誰も笑顔にならない結末が待っています。


愛されなかった少女が、どう生き、どう壊れていったのか。そして、その手を最後まで離さなかった“誰か”が、どれほどの代償を払ったのか。


もしあなたが、誰かを「愛したい」と思ったことがあるのなら、この物語はあなたの胸に静かに傷を残すかもしれません。



※本作には暴力・監禁・精神的描写を含みます。苦手な方はご注意ください。


エーデルシュタイン家の館は、春でも冷たい空気が流れていた。


クラシックの音楽が常にどこかで流れ、廊下に花は飾られているけれど、そのどれもが機械的だった。

美しく、整っていて、完璧すぎて――少しもあたたかくなかった。


私の名前は「紫乃・フォン・エーデルシュタイン」。

でも、父の名前はどこにもない、「エーデルシュタイン」は母のものだった。


私は、“母の姓”を名乗らされた。

それが、この家の最初の嘘だった。


「この子には“名門の血統”としての見栄えが必要なのよ。母方の姓のほうが、箔がつくでしょう?」


母がそう言ったとき、父は何も言わなかった。

ただ、無表情でウイスキーグラスを揺らしていた。


両親の仲が良いところなど、一度も見たことがない。

朝食の席で顔を合わせることも稀だった。


母は“外交の顔”だった。どんな賓客にも完璧な笑顔で応対し、礼節と品位の権化のような女。

けれど、その笑顔がわたしに向けられることはなかった。


「あなたは、私の鏡でいなさい」


それが、母からの唯一の教育だった。


父は、“裏の顔”だった。

手段を選ばない。敵は潰し、味方すら捨てる。

汚職と謀略の噂が絶えない実業家あるいは政治家で、私の知る限り、愛という言葉を一度も使ったことがない。


「強くなれ。感情は弱者の贅沢だ」


そう教えられた。


私は“愛される子”ではなかった。

私は“飾られる子”であり、“使われる子”だった。




人形のように笑い、空気のように気配を消すこと。

正しい言葉を選び、間違った人間と関わらないこと。


家庭教師たちは私にそう仕込んだ。

彼らは、完璧な答えだけを褒め、少しでも感情を見せると「未熟」と叱った。


私は、そうして育てられた。


“優しさ”とは、相手を傷つけない装い。


“友情”とは、必要なときに手を取り、不要になったら手を放す計算。


“恋愛”とは、血統と資産の天秤で決まる取引。


それが“この世界”の常識だった。




私は、愛される方法を知らなかった。

だから誰かを愛する方法も、知らなかった。


けれど、外の世界は私に“完璧な優等生”を求めた。

私はそれに応えた。

誰にも怒らず、誰にも近づかず、笑顔だけを与える存在。


誰からも好かれ、誰にも心を許さない


それが完成したとき、私は“孤独”を恐れなくなった。

いや、恐れることすら忘れたのかもしれない。


あるいは本当は孤独を恐れていたかもしれないが、それ以上に恐ろしいものがあったからかもしれない。


「紫乃は人を寄せ付けないよね」とよく言われた。

たしかにそうだろう。

でも、正確には“寄せ付けなかった”のだ。


必要がないから。

価値がないから。

利益がないから。


人付き合いは投資と同じ。リターンのない相手に時間は使わない。

笑顔も、優しさも、贈り物も――すべてが取引の一環。

そうやって生きてきた。




だから、沙羅に初めて会ったときも、心が動いたわけではない。獲物が飛び込んできたのを喜びはしたかもしれないが・・・



私の家は、“一位”だった。


エーデルシュタイン家。今や日本一の財閥。売上も資産額も、どの指標を取っても、名門七家の誰よりも上にある。


けれど、それは「成り上がり」の一位だ。


七家とは――長い歴史を持つ伝統的な財閥貴族の集団。旧華族を起源に持ち、政財界、皇室、宗教界に根を張っている。彼らの血筋は何代にもわたり国家と共にあった。二位から八位までがこの七家で占められているのは、偶然ではない。


そのなかに突然割り込んだ“八つ目の家”。それが私たちエーデルシュタインだ。


海外資本、外資系手法、敵対的買収、そして“混血”による血統の刷新。

わたしたちは、この国の財閥社会の常識をことごとく踏み越え、ただ数字の力で頂点に立った。


だから、嫌われている。


笑顔の裏で、誰もが私たちを“異物”と見なしている。


……だからこそ、私は完璧でなければならなかった。


優雅で、清廉で、知的で、非の打ち所がないこと。

“混じりもの”が七家に並ぶには、それしかない。


父もまた、それを理解していた。


常に笑みを崩さない男だったが、目の奥には焦りが宿っていた。

一位であることの孤独。七家連合の“見えない包囲網”。


表では友好を装いながら、裏ではじわじわと市場を削り取ってくる七家の連中に、父はただ一人で立ち向かっていた。


「紫乃。おまえは、勝たねばならん」


幼いころから、何度も言われた言葉。

わたしが立ち止まれば、背後から一気に飲み込まれる。


だから私は、立ち止まらない。


息をするように完璧であり続けた。

微笑み、礼を尽くし、首席を守り、誰も寄せつけず。


そうしなければ、“落ちる”から。


だから――私には、恋なんて無縁だった。

愛も、信頼も、そういう甘い感情に浸る余裕なんてなかった。


それなのに。


あの日。


ただ、いつものように音楽室でピアノを弾いていただけだった。


完璧な音を紡ぎ、完璧な姿勢で、誰にも届かない旋律を繰り返していた。


そこに――獲物は、自ら飛び込んできた。


彼女の家は、名門七家の一角。

表面上は没落寸前でも、かつての“ブランド”として使える。

当時、私は父の経済界工作を下支えするために、学園内での政治的影響力を求められていた。


つまり、友達が必要だった。

親しみやすく、従順で、無害で、適度に人気のある子。


――沙羅は、条件を満たしていた。



「その曲、“白鳥の湖”ですよね。とっても綺麗……!」


あの春の日、音楽室の扉の影から出てきた沙羅に、私はほんの少しだけ目を見開いた。

演技だったけれど、それも演技だと悟らせないのがわたしの特技だった。


心など、使わなくていい。

感情は、面倒な軋轢を生む。

表情だけで人は操れる――ずっと、そう信じていた。


わたしは十六歳にして、財閥の実務部門に“影響力”を持つようになっていた。

名義上は母の親族の庇護、実際には父が裏から押し込んだ。


「お前は、上に立つべき女だ」


父はそう言って、何の説明もなく口座に“自由に使える資金”を送ってきた。


母方の祖父の死をきっかけに開かれた非公開会合。

席次も知らされていなかったはずの私に、突然“決済権”が与えられたとき、誰もが驚いた。


けれど、わたしは驚かなかった。


これは――父の仕業だ。




父は、卑しい家の出だった。

下層の出で、血統も権威も持たない。

それでものし上がった。誰より汚く、誰より頭を使って。


その過程で、何もかも削り取った男。


「エーデルシュタインの姓を名乗れ。お前には“家の顔”が必要だ」


それが、父が私にかけた最初の“愛”だったのかもしれない。


でも、当時の私は理解していなかった。

いや、理解したくなかったのかもしれない。


「私はあなたの娘であっても、あなたの道具じゃない」


そう心の中で吐き捨てていた。

なのに、父が差し出したものは――いつも、“力”だった。


金、地位、権限。

そして、私が「裏切られない」ための防弾の盾。


・・・実は、父は金と権力以外の愛を与えようとしてくれたことがある。


私が十歳の誕生日を迎えた朝、部屋の机に小さな箱が置かれていた。

紅茶の葉だった。黒と金の缶に収められた、質素で地味なパッケージ。

飾り気のないそれは、他の贈り物――宝石や香水とは明らかに異質だった。


私はすぐに思った。


(ああ、これは……使用人が用意したのね)


名ばかりの祝福。父の名前で届けられていたけれど、そんなはずはなかった。

父が私に“個人的な贈り物”をするなんて、想像もできなかった。


だから、手もつけずに棚の奥にしまった。

それっきり、忘れたふりをした。


――けれど。


それは、父の選んだ贈り物だった。




父がかつて貧民街で育ったことを、私は後になって知った。

母方の親戚に侮蔑されるのを嫌って、口にすらしなかった過去。


そして、あの紅茶――


それは父が幼い頃、初めて温かいと感じた“安物の葉”だったらしい。

貧しい隣家の老女が、分けてくれたもの。


父にとって、紅茶とは「誰かに与えられた、初めてのやさしさ」だったのだ。


――それを、彼は私に贈っていた。


自分が受け取った“やさしさ”を、

せめて一度だけ、娘に渡したかったのだろう。


贈った言葉もない。洒落たブランドでもない。

ただ、幼い頃の父が「おいしい」と思った、あの茶葉を。




私は、それに気づかなかった。それを知った時には、私はもう遅かった。


わたしはずっと、金で囲われただけだと信じていた。

あの箱を開けようともせず、見向きもせず――


でも、いま思えば。

父は、あれが精一杯だったのだ。


わたしに手を伸ばす方法を知らず、

けれど、何かを贈らずにはいられなかった不器用な男。


父は、私を愛していなかったのではない。

「どう愛せばいいかを知らなかっただけ」だったのかもしれない。




それでも、私は――

その一杯を、飲まなかった。


いや、“飲めなかった”のかもしれない。


愛される自分を、受け入れることができなかったから。


そしてきっと、父もまた。

その茶葉が一生開かれぬまま棚にしまわれていることを、

薄々分かっていたのだろう。


けれど、それを責めるような目を、一度も向けなかった。




あの小さな紅茶缶は、今でも私の記憶の片隅にある。


封を切られぬまま、

愛のかたちを知らぬ父と、

愛され方を知らぬ娘の間に置かれたまま――

最早私の死んだ後には誰の間にもなくただ置かれたまま――


静かに、香りもたてずに。


けれど、その不器用な愛に、私は気づけなかった。

父の“与える”愛と、母の“求める”虚飾の愛の間で、私は愛というものの形を見失っていた。


「なぜ笑うの?」と問われたとき、私の笑顔は鏡のように凍っていたと思う。


誰も信じない。

誰も入れない。

私を好きになっても、私は返さない。


――それが、私という存在の“基準”だった。




それでも、沙羅は隣にいた。

彼女の温度はときどき煩わしかった。けれど都合がよかった。


彼女はわたしを特別に扱い、崇め、従順で、安心だった。

誰にも見せたくない部分を少しだけ覗かせたのも、すべて“計算”の範囲だった。


……最初は、そうだった。


けれど、ある時から――わからなくなった。


彼女がわたしの手を握ったとき。

一緒に笑ったとき。

孤独な夜、彼女の名を呼んだとき。


あれは本当に、すべて打算だったのか?


それとも、私はいつの間にか――彼女に“救われた”と、思っていたのか?




けれど、それに気づいたときには遅すぎた。


私は、すでに“打算で築いた関係”にすがるしかない女になっていた。

誰も愛せず、誰にも心を明け渡せないまま、財閥という氷の玉座に座ってしまった。


心を凍らせなければ、生きられなかった。

誰にも負けないと信じるしか、立っていられなかった。


あのときの父の目。

背を向けながら、酒を注ぐ手が、少しだけ震えていたこと――


その理由を、私は知らないまま、大人になってしまった。




そうして、私は“紫乃”という檻に、自分で鍵をかけたのだった。


恋なんて、くだらない。

そう信じていた。

政略結婚こそが血統の義務で、感情で繋がる関係など庶民の幻想。


それが――崩れた。


彼を見たとき、最初はただ“違和感”だった。

品があるのに気取っていない。

誰かに媚びず、誰かを斬るような視線も持たない。


どこか、空白のようなひと。


空白――それは、私の心と、同じだった。


「君、名前は?」


彼が初めて話しかけてきた日。

わたしは一瞬、返事を忘れそうになった。


「……紫乃・フォン・エーデルシュタイン」


あの瞬間、彼の目に私がどう映ったのか、いまだに分からない。

ただ、彼は笑った。心から。


……そんな笑顔、私は見たことがなかった。




気づけば、彼と話す時間が増えていた。

彼の声、彼の言葉、そのひとつひとつが、胸の奥を柔らかく溶かしていった。


私は変わった。

自覚していた。

けれど止められなかった。


授業を抜け出すようになり、ピアノ室の鍵を閉じた。

完璧であることが、急にどうでもよくなっていった。


「彼といるとね、生きているって思えるの」


沙羅の目が揺れたのを、私は見た。

でも、もう振り返れなかった。

――戻りたくなかった。


父が倒れたのは、冬のはじまりだった。

脳梗塞。突然だった。

あの男が、椅子に座ったまま立ち上がれなくなる光景など、一度たりとも想像したことがなかった。


誰よりも図太く、誰よりもしぶとく、

不潔な現実を笑いながら泳いできた人間。


その父が、急に「ただの老人」になっていた。


執務室の空気が、凍りついていた。


誰もが、次の“玉座”に座る者を探し始めた。


そして――

誰よりも先にその椅子に手をかけたのは、他ならぬ私だった。




父の影響力を見越して近づいてきた重役たちは、紫乃・フォン・エーデルシュタインという“少女”を侮っていた。


だが、私はすでに十六の時点で、すべてを仕込まれていた。


嘘の見抜き方も、利益を釣る条件も、政治家の娘の“顔の作り方”も。

人を信じない方法も。

そして――人を斬る方法も。


父が倒れた翌週、私は“決済権”を使って二つの幹部人事を凍結し、

翌月には母方の資本を事実上“逆買収”していた。


誰もが凍りついた。


けれど私は笑った。

鏡のような笑顔で、冷えきった祝辞を受け入れた。


「この世はね、熱ではなく氷で燃えるのよ」


そう思った。




父の死、彼へのはこのようにしてはじまった。


わたしは壊れていた。

でも、それでも彼の隣にいたかった。


彼に愛されたい、ただそれだけだった。



「彼に選ばれるためなら、何を失ってもいい」


そう思えるほどの権力が、

私の手にはあった。


財団の資本比率、議会の根回し、海外ルートの再編成、広報報道機関の買収。


それらすべてを、十代の少女の姿で指先ひとつで動かすということ。


わたしの愛は、私一人のものではなかった。

愛するという名の暴力だった。


そして、愛されたかったという飢えは、

世界そのものを巻き込むほどの業火へと変わっていった。




父が倒れたあの日。

わたしは初めて知った。


愛されない娘は、

“世界を支配する女”に変わるしかなかったということを。


それが、わたしの唯一の“継承”だったのだ。


そして、私は知ってしまった。


彼の目が、私ではなく、彼の“妹”を追っていたこと。

あの子を見るときだけ、彼の声が優しくなったこと。

妹が手にしたのは、血ではなく、彼の“心”そのものだったこと。


私は、壊れた。


努力すれば、愛されると思っていた。

完璧でいれば、選ばれると思っていた。


なのに――彼は、あの子を抱いていた。


私が息を止めて彼を見ていた時間。

あの子は、彼の胸で呼吸していた。




「消えてもらうしか、ないのよ」


沙羅にそう囁いたとき、自分が何を口にしているのか分からなかった。

いや、分かっていたのかもしれない。


心が引き裂かれた先に残ったのは、憎しみでも狂気でもない。

ただ、からっぽな、凍てついた野望だった。


「彼さえ振り向けば、それでいいのよ」


沙羅は震えていた。

でも、否定しなかった。

――それが嬉しかった。

これで、あの子は消える。わたしの世界から。


そして――それが、すべての終わりの始まりだった。


彼の妹。彼の笑顔の理由。

彼の心のすべてを占める存在――


つまり、わたしの邪魔だった。




恋に落ちたわたしは、すでに理性を失っていた。

権力を得てから、わたしの中で“可能”と“正義”の境界線は曖昧になっていた。


「選ばれたい」

その一心だった。


わたしは、何かを“奪われる側”で終わりたくなかった。

この世界の仕組みは奪う者が勝ち、守る者が負ける。


そして、わたしは負けたことがなかった。

沙羅とは、夜の音楽室で会った。


「沙羅、彼が好きなの。わたし……本当に、好きになってしまったの」


震える声だった。けれど、それは“演技”ではなかった。

演じていたはずの恋が、いつの間にか本物になっていた。


沙羅は、静かにうなずいた。


「……知ってるよ。紫乃は、ずっと彼のほうを見てたから」


その声に、少し哀しみがにじんでいた。


わたしは、それに気づいていた。

けれど――目を逸らした。



「沙羅。彼の妹が、いなかったら……私は彼に届くと思う?」


沙羅は、言葉を詰まらせた。


「……そんなこと、考えちゃだめ」


「だめ、って誰が決めたの?」


わたしはゆっくりと椅子を回転させ、月の光を背に沙羅を見下ろした。


「彼女は、わたしから“未来”を奪っているのよ」




その夜、わたしは決めた。


妹は――消える。


事故に見せかける方法はいくらでもある。

権力があれば、証拠も記録も捏造できる。


親しい家の使用人に通じ、薬物を混ぜたワインを渡させた。

最初の狙いは急性の持病の再発。あくまで“自然死”として処理できるもの。



だが、計画は失敗した。


妹は倒れたが命を取り留め、代わりに混入した物質が検出されて事件になった。


誰も事件の首謀者はわからなかったし、私のもとに警察は来るはずがない。それでも沙羅は私の腕を掴んで叫んだ。


「やめようよ……もう誰も幸せになれない!」


そのとき、私は笑っていた。


「もうとっくに、誰も幸せになんてなれなかったのよ」


あれは、本心だった。

あの夜、わたしは静かに沙羅の部屋を訪れた。


彼女の家は、今にも倒れそうな財政事情。わたしの家の支援がなければ、明日にも潰れる。


わたしの支援が止まれば――彼女たちは終わる。


そのことを、彼女も、よく知っていた。


ノックもせず、まるで風のように部屋に入り、そっとベッドの横に腰かける。


「……ねぇ、沙羅。わたし、知ってしまったの」


月明かりに照らされた窓辺で、わたしは話し始めた。


彼と妹が、どれほど愛し合っていたか。


その愛が、どれほどわたしの努力を嘲笑うものだったか。


完璧になろうとしたわたしは、ただ一度も彼の手を握られなかったのに。


「……わたしには、何もなかったのよ」


そして、ゆっくりと告げた。


「だから、“彼女”には消えてもらわなきゃいけないの」


沙羅の顔がひきつった。その表情を見て、わたしは**“勝った”と確信した**。


「沙羅。あなたにお願いしたいの。……彼女を処分してほしいの」


「……え?」


「わたしは手を出せない。家柄があるし、立場もある。だから、あなたがやるの」


「無理……そんな……っ」


「無理じゃないわ」


わたしは静かに、けれどはっきりと告げる。


「あなたの家、あと三ヶ月も持たないのよね? 支援をやめれば一瞬で終わり。でも、わたしのお願いを聞いてくれれば――わたしは、あなたの家を救ってあげられる」


沙羅が震え出す。かわいそうに。でも、それがこの世界の仕組み。


「ねぇ、簡単なことよ。口利きするわ。知り合いに、身元不明の“少女”を欲しがってる人がいるの。そっちに“斡旋”するだけ。あの子を売れば、あなたの家は救われる。あなたはわたしの“恩人”になる」


「そんなの……そんなの、狂ってる……!!」


「狂ってるのは、世界よ。努力を笑い、誠実を踏みつけ、愛を分不相応な者に与える――そんな世界」


立ち上がって、沙羅の前に立つ。


「やってくれるわよね? わたしの親友でしょう? これまでわたしに仕えてきた。尽くしてきた。最後に、もう一度、力を貸して」


沙羅の顔から、血の気が引いていく。


それでも、わたしの言葉に逆らえない。


これが友情? いいえ、これは支配。


沙羅は、何も言わなかった。

ただ、手を強く握っていた。


「紫乃、戻れなくなるよ」


「もう、戻る気なんてないのよ」



それでも、彼女がうなずいた瞬間、わたしは初めて微笑んだ。


「ありがとう、沙羅。あなたって、本当にいい子」


そして、その夜のうちに手筈を整えた。


沙羅の名義で金を動かし、彼女の手で“受け渡し”をさせる。


沙羅が責任者、沙羅が実行犯、沙羅が罪人。


わたしは関与していない。


――そういう“物語”になるように。


数日後、あの子は忽然と姿を消した。


沙羅の顔は青白く、瞳は何も映していなかった。


でも、わたしは満足していた。


彼はもう、彼女を愛せない。だって、彼女はもう“この世界に存在しない”のだから。


やっと、空いた席に座れる。

やっと、彼がわたしの方を見てくれる。


わたしは勝ったのよ。汚れずに、すべてを奪って――


沙羅が変わったのは、あの夜から。


わたしのために――そう、わたしのために、あの子は「選んだ」。


誰も彼も見捨てた妹を、彼女は、“自分の手”で売った。


そんなことをすれば、人は壊れる。

でも、それでいい。

それでこそ、“わたしのための人間”になる。


最初は、彼女の目の奥にまだ“火”が残っていた。


あれは、罪悪感か、良心か、あるいは“希望”だったのかもしれない。


けれど、それは日を追うごとに消えていった。

瞳が濁り、表情が硬直し、声に起伏がなくなる。


喋っていても、まるで向こう側に“誰もいない”ような虚ろな返事ばかりだった。


なのに、彼女はわたしの隣を離れない。


それが――おかしくて、愛おしかった。


ある日のこと。


廊下で転びかけた沙羅に、手を差し伸べた。


「気をつけて。……どうしたの? ちゃんと食べてる?」


彼女は、わたしの手を見つめて、小さく笑った。


その笑顔は――壊れかけの人形のそれだった。


「はい。紫乃さまのご期待に、添えるように……」


誰もそんな言葉、求めていないのに。

でも、いい子ね。壊れても、まだ“わたしの言葉”を覚えてる。


食事のとき、彼女は箸を持つ手が震えていた。


「無理しなくていいのよ?」と声をかけたけれど、


「大丈夫です。……紫乃さまの、となりに、いられるなら」


そう言った。


わたしは黙って、彼女のコップに水を注いだ。


“彼女の心”に注ぐことは、もうできないけれど。

体くらいは、生かしておかないと。


罪の意識に焼かれて、それでもわたしのそばにいる。


それを忠誠と呼ぶのなら、沙羅は理想的な“友達”になった。


でも、もし今、あの夜のことを問いかけたら――


「はい。あれは、わたしの選択でした」


そう答えるだろう。


“誰にも責められないように”。


“自分を納得させるために”。


でも、わたしは知っている。

あの子は、責められたがってるのだ。


誰かに罵られ、蔑まれ、裁かれたい。

そうすれば、自分がどれほど“正気”から逸れてしまったかを確認できるから。


でもね、沙羅――誰もあなたを裁かないのよ。

あなたが“そういう子”だと信じてるから。


ええ、わたしがそう仕立てたんだもの。


ある夜、彼女はわたしの前で泣いた。


「紫乃さま……わたし、何か間違ってますか……?」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を見下ろしながら、


わたしはその髪を、優しく梳いてあげた。


「いいえ。あなたは“わたしのために”正しく生きてる。誇っていいのよ」


その言葉を聞いた沙羅は、ぐしゃりと崩れて、嗚咽を漏らした。


人は、ここまで壊れても、生きていけるのだ。


わたしの隣で。


ただ、それだけを拠り所にして。


これが、友情。

わたしが信じた形。

わたしが作り変えた、「理想の友達」の姿。


そして、もしこの先――彼女が完全に壊れきってしまったら。


その時はまた、新しい“役目”を与えてあげましょう。


ねえ、沙羅。あなたは、まだわたしのために、生きられるわよね?



報復は、静かにやってきた。

妹がいなくなったあと、彼の目から光が消えた。

妹が、死んだ。

“わたしたちが売った”あの子が、子を孕み、そして――壊れて、死んだ。


わたしの知らないところで、汚され、縛られ、命を削りながら、誰にも助けを求められずに死んだ。


そして――それが、あの人に知られた。


わたしが唯一、愛し、手に入らなかった男。

“彼”が知ってしまった。

彼女が、自分の愛した妹が、どんな目に遭わされて、どこで死んだのか。

誰が、それを“売った”のかを。


「全部、おまえたちか――!!」


あのときの声が、耳に焼きついて離れない。

わたしたちは、連れて行かれた。

醜いほどの怒りと絶望に支配された男の手で、どこかの暗い部屋に閉じ込められた。

金も権力も通じない、“感情”だけが支配する檻の中。


沙羅は、初めの数日は何も喋らなかった。

水のように透明で、濁って、どこまでも沈んでいくような目をしていた。

食べることも、眠ることも、ほとんどしなかった。

ただ、壁を見ていた。


「ごめんなさい」も「許して」も言わなかった。

そういう言葉が、“言葉”の体をなしていない場所だった。


沙羅とわたしは、閉じ込められた。

彼の“裁き”という名の監獄の中に。


「君たちが、俺の妹を壊したんだ」


あのときの彼の声を、私は忘れない。

怒鳴りも、叫びもしない。ただ、冷たく、凍った声だった。


私は、笑えなかった。

取り繕えなかった。


誰よりも美しく、誇り高くあろうとした私は――ただの、壊れた人間だった。


時間というものが、意味を失った。


地下牢の空気は鉛のように重く、鼻腔を襲う埃と湿気の匂いが、生きていることすら億劫にさせた。

天窓はなかった。

時計も、カーテンも、朝焼けも夕暮れもない。

わたしたちは“永遠に似た無時間”の中で呼吸していた。

最初のうちは、まだ「終わり」だとは思っていなかった。


監禁された直後。

この状況も、彼の怒りも、いずれ収まるはずだと――そう信じていた。


沙羅が震える肩を寄せてきた夜も、わたしはただ、目を閉じていた。

慰め合うなんて、弱さの象徴だと思っていた。


でも。


一日、また一日と過ぎるたびに、何かが壊れていく音がした。


それは外の世界ではなく、わたしの中の“紫乃”という人間だった。


**


「ねえ、紫乃。髪、ほどいてあげる」


そう言って、沙羅は無造作に結んでいた髪をほどいてくれた。


母が触れたことも、侍女たちが整えてくれた髪とも違う――

指先から、あたたかさが伝わった。


そのとき、気づいたのだ。


私は、誰かに“触れられる”ことに、こんなにも怯えていたのだと。


一日三度の食事だけが、かろうじてわたしの体内時計をつないでいた。

ぬるいスープ、噛む意味すら感じられないパン、水。

舌は生きているのに、何も感じようとしなくなっていった。

足元には常に冷たい湿り気があり、肌に張り付くような感覚が、心をさらに凍らせた。


地下室の闇の中で、沙羅は言った。彼女は償える時が来て安堵したのか、精神的には安定した。


「私は、あなたを見捨てたくなかった」


そう言って、私の手を握った。

あれは、かつて私が打算で選んだ子。


でも、今は――

彼女だけが、私のそばにいてくれた。


友情でもなく、赦しでもなく、ただの共犯。

でもそれは、私にとって最後の“光”だったのかもしれない。


彼女は毎日、同じように手を伸ばしてくる。

ご飯の前、眠る前、わたしが口を開けずに座っているとき。


一言、何も言わずに、ただ隣にいてくれる。


やさしい、でも無理をしない距離感。

その沈黙が、ある日ふいに“怖くなくなった”ことに、私は愕然とした。


怖くない。

誰かが傍にいることが。


――そんな感覚、もう何年も味わっていなかったのに。




ある晩、私は唐突に問うた。


「……あなたは、私が怖くないの?」


沙羅は笑って言った。


「怖いよ。今でも、ときどき」


私は少しムッとした。

けれど、そのあと彼女はこう続けた。


「でも、ずっと好きだったから。怖くても、いいの」


その言葉は、まるで胸の奥に氷を差し込まれるようだった。


痛くて、冷たくて、

それでも、なぜか――溶けた。




沙羅は変わらなかった。

こんな地獄のような場所でも、彼女は“沙羅”でいてくれた。


けれど、私は変わっていた。

いや、初めて“戻っていた”のかもしれない。


完璧を装い、誰も近づけなかった“紫乃”という仮面が、

この檻の中で、ただの“ひとりの少女”に戻っていくのを、私は感じていた。




眠れない夜、わたしは問う。


「どうして、そこまでして私に寄り添ってくれるの?」


沙羅はそっと顔を伏せて、ぽつりと答える。


「それが、わたしにとっての“愛”だったから」


――“愛”。


それは、わたしの世界に一度も存在しなかった言葉。


けれど、今になってようやく分かる。


沙羅は、最初からわたしに「愛されたい」と思っていたのではない。


「愛したかった」のだ。


わたしがどうであれ、どれだけ汚れていようと、

この牢屋の中で瓦礫のようになった私を、それでも“紫乃”と呼んでくれた。


その純粋さが、残酷だった。


沙羅が静かに髪を梳いてくれる。

もう鏡を見ることもないけれど、彼女は毎日律儀にわたしの髪を整えてくれた。


「紫乃、髪、少し伸びたね」


そう微笑んだ顔が、やけにやさしかった。

そのやさしさが、今は時々、つらかった。


私は、なにもしていないのに。

こんな仕打ちを与えたのは私なのに。


それでも、沙羅は隣にいた。




夜になると、天井を見上げて過去を思い出す。


――ピアノの旋律。

――母の指の冷たさ。

――父の背中。

――彼の声。


そして、彼の妹の笑顔。


思い出したくないのに、脳裏に浮かんでしまう。


罪を背負ってから、わたしの記憶は凶器に変わった。

それは眠りを裂き、夢を焼き、わたしの心を内側から削っていく。




「沙羅、ごめんね……」


その言葉を何度言ったか、もう覚えていない。

最初の一言を口にした瞬間から、わたしの中の何かが崩れていた。


でも、彼女は毎回、首を振った。


「違うよ、紫乃。私は……自分の意志で、あなたの隣にいたの」


そんなはずないのに。

そんなはず、ないのに――


どうして、わたしのために泣いてくれるの?




監禁された最初の一週間は、まだ“逃げ道”を探していた。


空調の音、鉄格子の幅、配膳口の構造。


けれど、次第に気づく。

この場所は、“監禁するために作られた場所”だということに。


監禁は、罰ではない。

――宣告だった。


「あなたの生涯は、ここで終わる」と。


そして、その“死刑”をわたしに告げたのは、他でもない、彼だった。




ある日、蝋燭の灯りに照らされた妹の写真を見せられた。


彼の声は低く、乾いていた。

まるで司祭のように、誰かの魂へ祈るように語っていた。


「妹の未来を奪ったのは、お前たちだ」


その声に、心臓が凍る。


赦されることはない。

もうとっくに、わかっていた。


でも、その言葉が“彼”から向けられた最後の言葉になるとは、思っていなかった。




沙羅と手をつないで眠るようになったのは、それからだ。


「紫乃。怖くないよ」


そう言って、彼女はわたしの手をにぎってくれる。


そのたびに、わたしは心の奥で泣いていた。


もう、泣けなくなっていたはずなのに。

涙なんて、とうの昔に捨てたはずなのに――


「沙羅……あなたは、どうして……?」


問いかけるたびに、彼女は微笑んだ。


「あなたが、好きだったから」


あの言葉だけは、ずっと胸に残っている。

どんな罪よりも、どんな裁きよりも、重かった。




やがて、わたしたちは妊娠した。

ある日、身体の異変に気づいた。目の前の現実を信じたくなかった。お腹がふくらむにつれて、それは「命」ではなく、身体の中に宿った「呪い」のように感じられた。私はそれを拒絶し、触れることすら躊躇った。


無理やりだった。拒む力もなかった。

肉体は生きているのに、心はもう、とっくに死んでいた。


お腹がふくらんでも、それを“命”と思えなかった。


ただ、身体の中で、誰かの呪いが育っているようだった。


そして彼は、ある日から一切触れなくなり、代わりに妹の写真だけを壁に飾るようになった。


それが何より残酷だった。


“今ここにいない彼の妹”に、わたしたちは永遠に贖罪を続けさせられていた。




ある夜、私は沙羅に囁いた。


「ねぇ、もし生まれていたら……あの子は、幸せだったと思う?」


沙羅は、しばらく黙ってから、答えた。


「……わたしたちと違って、“愛された”かもしれないね」


その言葉に、私は泣いた。


声を出せなかったけど、涙は確かに落ちた。囁く彼女の言葉は、私の凍りついた心に、わずかな、しかし確かな痛みを刻みつけた。


初めて、罪が“実感”になった瞬間だった。




それでも、わたしたちは毎日、生きた。

手をつないで、髪をとかして、名前を呼び合って。

あの薄暗い檻の中で、壊れたガラス同士が、そっと重なり合うように。


人間らしさが失われていく中で、

沙羅だけが、わたしを“紫乃”として呼んでくれた。


それが、最後に残されたわたしの名前だった。




音楽のない日々。

花のない空間。

未来のない世界。


それでも、彼女が隣にいるというだけで――

わたしは、死んでいなかった。


そんな日々が続いていた。


“その日”が、来るまでは。


その夜は、いつもより風が冷たかった。

地下室に風などないはずなのに、石壁のどこかから、どこか遠い季節の気配が微かに忍び込んでいた。


蝋燭の火が、細く震えていた。


沙羅はわたしの膝を枕にして、目を閉じていた。

小さな寝息を立てながら、ふいに口を開いた。


「紫乃……ねえ、春が来たら、またピアノ……聞かせてくれる?」


私は、指先を止めた。

沙羅の髪を梳いていた手が、宙で固まる。


「春……?」


「うん。春が来たら。……桜の、花びらが舞う頃」


沙羅は目を閉じたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


「最初に、あなたのピアノを聴いたのも、春だったよね……。音楽室、窓開けてた……」


私は黙っていた。

何かを言えば、それは壊れてしまいそうだった。


沙羅の声だけが、この牢屋の空間をやわらかく包んでいた。


「……白鳥の湖だったよ。覚えてる?」


「……ええ」


かろうじて声になった。

喉の奥が焼けつくように熱かった。


沙羅は、わたしの手を探るように伸ばしてきた。

私はそっと握り返す。


「きっと、春はまた来るよ。どんなに長い冬でも……絶対に」


沙羅は笑っていた。

わたしには見えなかったけど、きっと、泣いていたと思う。


「その時、またピアノ、聴かせて。紫乃の……あの音、すごく好きだったから」


私は、言葉が出なかった。


“春が来たら”。


――なんて残酷な未来。


ここに春なんて来ない。

音楽室も、桜も、白鳥の旋律も、もうどこにもない。


けれど、沙羅は信じていた。

わたしに、“春”を託してくれた。


明日、何が起きるかを、沙羅はもう分かっていた。


それでも、わたしの手を握って、

「ピアノを聴きたい」と言ってくれた。


来世があるならば彼女と一緒にまたいたい。私はそう思った。


ギィィ……


軋む音がした。

重たい鉄の扉が、地下牢の空気を切り裂いて開く音。


それだけで、空気が変わった。

空気が、色をなくすのを感じた。


わたしの手は、震えていた。

けれど――隣で、沙羅は強く、わたしの手を握ってくれていた。

私は、震えていた。


自分の手が、こんなにも冷たく、こんなにも頼りなかったことを初めて知った。


それでも、隣にいる沙羅の手を、私は必死に握っていた。

もう何も守れないこの手で――せめて、最後の瞬間まで、彼女のぬくもりだけは離したくなかった。


だけど、私は……それしかできなかった。


それだけしか、できなかった。

その温もりだけが、現実だった。


鉄の扉が、ゆっくりと開いた。

鈍く軋む音が、終わりの合図だった。


冷たい風が、私の頬を撫でた。生ぬるい牢屋の空気が、それだけで凍てついていく。


彼――蒼真が、無言で入ってくる。


その目にあったのは、あの優しかった頃の面影ではなかった。

怒りですらなく、ただ“冷たい死”そのものだった。


手には、刃物。

美しいほどに整えられたそれは、ためらいのない意志を帯びていた。


私は呻いた。


妊娠した身体では、もはや立ち上がることすらできない。

かつて誰よりも完璧であろうとした私が、今はただ座り込んで、震えているだけの女になっていた。

かつて優しかった顔に、もはや情はなかった。

感情は削ぎ落とされ、ただ“裁く”ための目だけが残っていた。


「……蒼真……」


震える声で、私はその名を呼んだ。

赦されたいわけじゃなかった。ただ、どうしても……口にせずにはいられなかった。


けれど、彼は何も言わなかった。


黙って、ただ裁きを執行する者の目で、私たちを見ていた。

その手には、鋭い刃物があった。


ただ、沙羅とわたしを見ていた。

そのとき、隣から声がした。


かすれて、震えて、それでも真っ直ぐで、優しい声。


「紫乃……。怖くないよ。私は……怖くない」


沙羅だった。


私は、息が止まるような気がした。


「どうして……! どうしてなの、沙羅……! 私が……あなたを、こんな目にあわせたのに……!」


声が、涙で崩れていく。


顔をくしゃくしゃにして、泣いて、私は、叫ぶしかなかった。


けれど、沙羅は穏やかに、私の手を取ってくれた。


細くて、痩せていて、それでもどこまでも優しくて――

その手だけが、私を人間に戻してくれる気がした。

「……私はね、紫乃。何度思い返しても、結局……あなたが、好きだった」


沙羅の言葉に、胸が締めつけられる。


「やめて……お願い、そんなこと言わないで……っ」


懇願のように、私は震えながら首を振った。


でも、彼女は続けた。


「たとえ全部を失っても。親も家も、命すらも……

それでも私は、あなたが好きだった。あなたが奏でるピアノが、笑った顔が……

間違えて、傷つけて、それでも私に泣いて謝ってくれたあなたが、ずっと、ずっと、好きだったの」


私は泣いた。声も、姿も、すべてが崩れていた。


「私……沙羅……沙羅……あなたを、友達と呼べる資格なんて……っ」


本心だった。

私は、あなたのそばにいる資格なんて、なかったのに。

だけど、沙羅は微笑んだ。


消え入りそうな、小さな、小さな、でも確かな微笑みで。


「あるよ。私がずっと、それを望んでたから」




私は、息を呑んだ。


沙羅は――本当に、そう思ってくれていたのだ。


「あなたが、私を友達って呼んでくれたから。私は、友達でいられた」


その言葉が、胸の奥深くに染み込んでいく。


赦されたわけじゃない。

過去が消えるわけでもない。


それでも、“そう在りたい”と願ってくれた誰かがいてくれた――


それが、私にとって最後の光だった。




この光が、まもなく消えるのだと、私は知っていた。


だからこそ、今この瞬間が、永遠であってほしかった。


でも、永遠は来なかった。


ただ、終わりが――静かに、近づいていた。

刃が振るわれるその瞬間、

沙羅は小さく笑った。


「ねぇ、紫乃。最後まで、あなたの隣でいられて……幸せだったよ」



沙羅の最期の言葉を、私は忘れない。

音がした。


ぬめった音と、鉄の床に膝が落ちる音。

彼女の体温が、わたしの指から離れていく。


わたしは、何度も彼女の名を呼んだ。


「沙羅……沙羅、沙羅っ、いや……お願い、目を開けて……!」


けれど、もうそのまぶたが開くことはなかった。

赦されることはなかった。

でも、わたしは――

初めて、誰かを“失う痛み”を知った。


ああ、これが、

愛だったのかもしれない。




私は最期まで、「愛してる」とは言えなかった。

誰かを愛したことなんてなかったから。


でも今なら、分かる気がする。


自分の喉の奥から、獣のような叫びが漏れる。

声を上げることすら恥だと教わったこの身が、今、泣き喚いていた。


「わたし……あなたを利用したのよ……最初はただの計算で……!


 でも……でも、こんな形で終わりたくなかった……!」


冷たい床に沙羅の髪が広がっている。

その頬に、震える指で触れる。


その指先が、震えながら血を濡らした頬をなぞる。

こんなことになるなら、最初から近づくべきじゃなかったのに――

彼がゆっくりと歩み寄る気配がする。

もう抵抗はしなかった。

膝の力が抜けて、わたしは崩れるように座り込んだ。


目の前に彼の影が差す。


「……これが、裁きなのね」


彼は何も答えなかった。


「あなたの妹を……壊したのは私。でも、沙羅だけは違った。

 彼女は……最後まで、わたしのことを、救おうとしてくれていた……」


そのとき、彼の目がわずかに動いた。けれど、感情ではなかった。

それはまるで、壊れかけた歯車が、最後の抵抗を見せるような――死にかけの理性だった。


彼の声は、静かで、しかし確かに狂気に蝕まれていた。


「己の行いが招いた地獄の中で、他人の善意を盾に“救い”を語るとは……

君は、この状況をどう理解しているつもりだ?」


私は、黙って彼を見つめ返した。もう、取り繕うものなんて、なかった。


「……怖かったのよ。あなたに赦されないことも、沙羅が離れていくことも……

 誰かに愛されることなんて、私には、知らなかったから……」


涙が落ちた。


まぶたの裏に、沙羅の最後の笑顔が焼き付いていた。


「ねぇ、沙羅……」


刃が近づく。


「最後の瞬間まで……あなたの隣でいられて……ありがとう」


静かに、目を閉じた。


刃が胸元に触れた瞬間、心臓より先に、魂が砕けた。


もう、怖くなかった。


ただ、隣にいられたことが――

わたしの、最後の誇りだった。



こうして、すべては終わった。


わたしは、愛されることを知らずに生き、

赦されることなく、終わった。


それでも。


あの少女の手を、最後まで握っていられたことだけは――


きっと、真実だった。


でも、沙羅の手が、あたたかかったあの日。

わたしは、あの子に――救われていた。


知らなかっただけで。


心が凍っていただけで。


――そう、気づいたときには、もう遅かったのだけれど。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


紫乃と沙羅、そして“彼”の物語は、ある意味でずっとすれ違いと誤解の連鎖でした。それぞれが不器用なまま、自分の形で誰かを想い、傷つけ、壊していった。その果てにあったのは、幸福ではなく、“ようやく気づけた痛み”だったのかもしれません。

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