Op.16
「はい?」
ステルチェから放たれた言葉にヴィーリスは表情こそ動かないが唖然としている。その正面に立つユールとソルナもステルチェの包み隠さない、よく言えば素直な言葉にもっと他に言い方があるだろう、とステルチェの後頭部を眺めながら心の中で呟いていた。
しかし、そこはさすが公爵家令嬢。ヴィーリスの反応は織り込み済みだったようで笑みを崩さぬまま目を静かに細める。
「おや、聞こえなかったのかな。わたしは何回も同じことを言うのは好きではないのだがな、今回は特別だ。ヴィ―リス=ヴァン=ウェヌス殿、私と恋をしてみないか?」
「聞こえております。しかし、それはどういったことでしょうか。今の言い方ですと公女様は僕に恋愛感情を抱いていると認識すればよいのでしょうか」
疑うようなヴィーリスの瞳をものともせずステルチェは笑みを潜めるときっぱりとその言葉を断ち切った。
「いや、それはないから安心してくれ。……ここからの話は他言無用のものだと心に留めておいて欲しいのだが、私はある事情から私とクロシェット家との間で結ばれている婚約を解消したくてな。だが、婚約は家同士の取り決めだ。私の一存でどうにかできるものでもない」
ステルチェと同じく公爵家の人間であるヴィーリスもそのあたりの事情は理解しているのか小さく首を縦に振る。
ステルチェはそれを見ると良かったとお茶を啜り話をつづけた。
「何せ、公爵家同士の婚約の破談になるからな。私としてもできるだけ波風を立てないように、そして今後も両家が良い関係を築けるような方法で破談にしたいと考えていている。そこでこちらから婚約を放棄できないのならばあちらが放棄をしたくなるように仕向ければいいだけの話だ。そのためにぜひ君の力を貸してほしいのだ」
「はぁ、そうですか」
いきなりこんなことを言われたらもう少し動揺をするものではないのか。そこまで何も口を挟まないように気をつけていたユールとソルナは何事もないようにしているヴィーリスを目の当たりにして逆に挙動不審となってしまう。
「あの……ヴィーリス公子は驚かないんですか?」
「驚いてはいます」
ソルナの問いにヴィーリスは淡々と顔色の一つも変えず答える。それが本当に驚いている人間の態度か、とユールとソルナが突っ込みながらステルチェをちらりと見た。
よくよく見ると結い上げられた髪の合間から見える首筋がほんのりと桃色に色づいている。
「それで、僕に頼みたいこととは何でしょうか」
「あぁ、簡潔に言えば先ほど言った通り私と恋をしてほしい……いや、もっと直接的に言えば私と恋人になってほしいのだ」
「はい?」
「いや!だから言い方ってもの、」
いい加減耐え切れず、ユールが口の端を痙攣させながらわなわなと体を震わせ声を上げかけるが言い切る前にソルナがユールの足先を踏みつける。
味方と思っていたソルナからの不意打ちの攻撃にユールは悲鳴を上げそうになるがそれすらもソルナに阻まれ何も言葉にすることができず、できたのは痛みからくる生理的な涙の膜を張るのみだった。
「あっ、いや!なにも本当に恋人になってほしいわけではないんだ!なんというか、その婚約破棄までの期間の間だけの契約恋愛というべきか」
「……そういうことでしたか」
この人の心を動かすことができるものはこの世に存在しないのではないか、そういえばルフールが先ほど二人に教えてくれたことを思い出す。
ヴィーリスは学生時代何があっても何があっても冷静沈着で一度も感情を荒らげたことがなかったらしい。
たとえ自分に思いを告げてきてくれた他の学生に対しても礼儀正しく、言ってしまえばただ義務的にその場で断りを言い渡していたのだという。決して思いを否定することは無かったが何の感情も含んでいないその声にどれだけの学生が泣かされたことか、ルフールは他人事のようにそう言いながら笑っていた。
(まぁ、あの顔ならいろいろあったんだろうな)
ヴィーリスはユールがそんなことを考えていることなど露にも思わず、少し考えこむかのように口元に手を添えるとそのまま目を伏せたまま口を開く。
「仮に僕がその交渉に乗ったとしてこちらへの利益は何かあるのですか?」
分厚い睫毛はヴィーリスの白皙の肌に影を落とす。その隙間から見える茜の瞳にはステルチェを見定めるかのような色が浮かんでいた。
ステルチェはヴィーリスのその瞳に見つめられながら、頭の片隅で次に出すべき言葉の羅列をひたすらに組み立てていた。どうやら交渉への導き方次第ではこの男を自分の味方として引き込めそうだ。
「少し品がないとは思われるかもしれないが、噂に聞いた話では君は恋愛も、結婚もする気がないと聞いている」
「はい。この身は手足の先からイデアの一片まですべてこのルミエールフォアに捧ぐと決めておりますので」
真っ直ぐな言葉に偽りはなく、本当に恋愛など眼中に無いというヴィーリスの考えがひしひしと伝わってくる。ステルチェは好都合だと言わんばかりに口角を上げると机の上で手を組みなおす。
「では、君も私を利用すればいい。ヴィーリス卿の思いを知っていても君の周りには常に令嬢たちが集まってきているようだが一々それを跳ね返すのも煩わしいだろう」
ステルチェはそう言いながら椅子から自分の目の前に座るヴィ―リスに迫ると、その端正な顔にぐっと自分の顔を引き寄せ、レースに飾られた指でヴィ―リスの顎を上げる。
間近で見れば見るほど人間とは思えないほどの顔にステルチェはぐっと息をのんだ。
(こんなに近くで見ていたらどんな美酒よりもこの美貌に酔ってしまいそうだな)
「ヴィーリス卿にとっても悪い条件ではないはずだ。私が君の隣に立っている限りそのような令嬢たちは寄ってはこれない。どうだ、返答は一つしかないはずだろう?」
結局どこか脅迫めいた物言いにユールとソルナは黙って目を覆う。だが、ステルチェの気持ちもわからなくはない。こんな美貌の前では心を強く持たないとあっという間にヴィーリスに飲み込まれてしまう。
強い光は時として毒よりも毒らしい牙をむき出しにする。
ステルチェに迫られたヴィーリスは一瞬目を大きく開いたが、ステルチェの真剣な眼差しから逃れることもなく茜には日暮れの瞳が混ざり合い、映り込む。
今、ヴィーリスの瞳の中に存在しているのはステルチェただ一人、鼻先が触れそうなほど至近距離で挑戦的に口角を上げるその表情は昔読んだ絵本に出てきた英雄とよく似ていた。
そんなことを思っていたヴィーリスはどうにかして頭の中で当たり障りのない断りの句はないかと考えていたが、ぽろりと口から出てきたのはそれとは正反対の言葉であった
「……仰せの儘に」
「そう答えてくれると思っていた。無論、君の名が傷つかないよう最大限の配慮をさせてもらおう」
「お心遣いありがとうございます。ただ、お一つお伺いしてもいいでしょうか」
「あぁ、なんでも答えよう」
「後ろの二人は公女様の何なのでしょうか。僕の目がおかしくなければ見習と言えど騎士に属しているもののようには思えません」
ステルチェの手から解放されたヴィーリスは視線だけをユールとソルナに向ける。突然の指摘に二人は体内で鼓動が大きく、早くなっていくのを感じていたがなんとかやり過ごそうと表情を保つ。
「先ほども言っただろう。彼らは私の乳兄妹で今度護衛になるんだ。まだ騎士になって日が浅いから拙いところもあるが」
「侯爵家以下の人間でしたらそれで騙すことが出来たでしょう。ですが我がウェヌスは騎士の家であり、剣を握るよりも先に礼儀作法や騎士としての信念、心構えを身に刷り込みます」
視線をステルチェへと戻すとヴィーリスはティーカップを形に口元を湿らす。
「失礼を承知で申し上げます。先ほどこの取引を受けるとは言いましたが、些かこの取引は公女様の方に益があるように見えるのです」
「自分への報酬が見合っていない、ヴィーリス卿はそう言いたいんだな」
「端的に言ってしまえばそうです。僕は商人ではないため浅学ではありますが、契約は等価交換基本であり、その根底には信頼があるものだと分かっています。ですが後ろの二人のこともそうですが、公女様はまだ僕に何か隠していることがあるようにお見受けできます」
ステルチェはそう告げるヴィーリスを見下ろす。
耳にしていた噂では学校を卒業してからのヴィーリスは社交界に顔を出すことも稀で深窓の姫君のごとく育てられたこともあり外のことをあまり知らない鳥籠の中の金糸雀だ、と揶揄されていたから自身の話術で丸見込めると思っていたがどうやら侮りすぎていたらしい。
(しかし、だからと言ってあの夢の話までするわけにはいかない)
ユールとソルナは初めから自分を信じてくれていたが目の前の人物もそう簡単にいくとは思えない。むしろこんな話をすればよくて契約の不成立、最悪は彼を通じて姉やレヴルの耳にこの話が入ることだ。
「ステ……公女様」
ソルナの不安そうな声が耳に響く。どうやらここは正直に二人のことだけは話しておいた方が吉と出そうだ。
「……隠していたことは謝ろう。ユールとソルナは確かに騎士でもなければ私の乳兄妹でもない。この二人は」
ふと、ステルチェはこの二人と自分の関係をどう表すべきか言葉に詰まる。協力者というには距離が遠すぎるし、友人というには自分の運命を背負わせ過ぎている。
この関係はどう名づけるのか、頭の中を様々な言葉がめぐり続ける中できらりと流星のごとくひとつの言葉が駆け抜けていく。
(いや、一つだけあるじゃないか)
「……二人は、私の相棒だ。私の事情を深く理解し協力をしてくれ、しかも剣の腕も優れているときた。これ以上とない私の運命を導いてくれる者たちだ」
「相棒、ですか?」
「あぁ、もちろん私たちの関係のことは一切口外しないようお願いしてある。どうだこれでいいかな?」
「そうでしたか」
ステルチェの答えに納得したのかしていないのか、ヴィーリスが微かに顔を傾けた。その拍子に癖のあるダークグレーな髪が彼の頬を撫で、ふわりと花の香りが辺りに広がった。
ステルチェはなじみのあるその香りと目の前の愁いを帯びた表情の麗人についに顔の赤らみが抑えきれず、まだ丸みの残る頬は一瞬で真っ赤に染まる。
しかし、ヴィーリスは自分の目の前で人が赤くなることなんて日常茶飯事なのだろう、声のひとつもかけようとはしない。
ステルチェは気を取り直すのかのように、ヴィーリスから手を放し咳ばらいをすると何事も無かったかのように椅子に座りなおした。そんなステルチェを気の毒に思ったのか、その顔を落ち着けるかのように小風がティーハウスの中を吹き抜ける。
「……」
「……」
(いや、なにこの時間?!)
目の前に座る二人はティーカップに手を付けるわけでもなく、この場にいる全員が何もしていないという何とも奇妙な時間が生まれる。ユールとソルナはその気まずさと、自分たちの振舞いの甘さのせいでステルチェの計画が狂ってしまったことに頭が上がらず、ただただ身を小さくしていた。
「……それで具体的に僕は何をすればいいのでしょうか」
「あぁ、先ほども言った通りヴィーリス卿には私の恋人役をお願いしたいのだがな、ただそれだけではいまいち婚約破棄をするための決定打にかけると思っていてな。どうしたものかと私も考えてきたのだ」
そういうステルチェの瞳はギラギラと輝いている。この数日、主にソルナとどうすればレヴル側から婚約を白紙にしてくれるだろうかと夜通し考え計画を練ったのだ。これならば勝ち筋が見える、そう満場一致するような案が完成したのは昨夜、月が爛々と輝くような真夜中であった。
「風の噂で聞いたのだがヴィ―リス卿にはファンクラブなるものがあるようだな」
「どうやらそのようです」
どこかげんなりしたようにヴィ―リスが返答する。
これは本当にたまたまだったのだが二日ほど前、ソルナとステルチェが練習場で手合わせをしていると騎士たちが話していることが偶然耳に入ってきたのだ。その騎士たちは昨年このヴァンドール騎士団に入ったばかりの女騎士たちで、士官学校ではヴィ―リスの二つ下の学年だったらしい。
「それでね、今度ヴィ―リス様のファンクラブでお茶会をするそうなの」
「貴方、まだそんなところと交流をしていたの?まったく、今度の公休は出かける予定って言っていたのはそれだったのね」
「しょうがないでしょう!?そうでもしないと一介の子爵家の娘なんかあの方の情報を手に入れられないの!」
「はいはい、口は出さないわよ。美味しそうなスイーツの情報があったらそれだけ教えてよね」
「分かってる!はぁ、早く休みにならないかしら」
「ん?ソルナ、スティどうしたの?」
そこへタイミングよくユールもやってきた。ユールはユールで代理騎士団長のテオールと手合わせをしていたが、休憩の時間だと言われたため二人の元に戻ってきたのだ。額からとめどなく流れてくる汗を肩にかけていたタオルで拭いながら小走りで二人のもとに駆け寄ってくる。
「……スティ」
「うん、これ使えるかも」
「え、なに?何の話してるの」
戸惑うユールなど二人の眼中にはない。ヴィ―リスには特に令嬢から熱狂的な人気があることはとうに知っていたが、まさかファンクラブまであるほどであったとは。
話の一部を聞いていた二人は小さくこぶしを上げ、そのままかなりの勢いでハイタッチを交わす。
「ほんとに、どういうこと……俺にもわかるように説明してよ」
わいわいと盛り上がるソルナとステルチェを横目に、そんな二人についていけず、ユールは一人だけのけ者感を味わいながらソルナの肩を掴んだ。
「そこでだ、私がたまたま出会ったヴィ―リス卿に一目ぼれをして熱心に追いかける。君はいつも通り公爵家同士の付き合い程度として接してくれればよい。そしていい時期になったらヴィ―リス卿が根気負けをして私と交際をすることになったという筋書きで行きたいんだ」
「もしその間に婚約が破談になった場合はどうするのですか」
「そのときはすぐにでもこんな茶番はやめてもいいのだがな。流石にいきなりやめると怪しまれそうだから、申し訳ないがしばらくは演技に付き合ってほしい」
「承知しました」
名づけて、恋狂い公爵令嬢作戦。深夜の疲れからか目の下に隈を作ったソルナとステルチェこんなとち狂った名前でも大満足だった。早々に戦線離脱し健康的な睡眠をとっていたユールは翌朝その名前を聞き若干引いていた。
「可能であれば婚約をする手前まで進めておきたい気持ちもあったが、流石にそこまで君に不利益を被らせるわけにはいかないからな。私の婚約破棄さえできればあとは自由にしてもらっていい」
本音を言ってしまえばヴィ―リスと婚約を結ぶことができればこれ以上なく安心なのだが、生憎ステルチェも、ヴィ―リスも結婚する気などさらさらない。しかも、あの夢が正夢、予知夢の類だったら自分と近づけば近づくほど危険にさらすことになる。
婚約破棄ができなくとも頃合いを見てこの関係を続行するか切り上げるか、ステルチェにはそれを判断する責任がある。
「とにかく君は演技というか私の話に合わせてくれるだけでいい。何か聞きたいことはあるか?」
「いえ、とくには。ただしつこいようですが僕は恋愛をする気はありません。この関係も一時の偽りのものであることだけ留意していただければ」
「もちろんだ。ではまた手紙を出すから必ず読んでくれ」
ステルチェのお願いにヴィーリスは、はいとだけ返す。これで第一関門は突破できた。
ステルチェの心の中にあるのはこれであの夢の内容が少しでも変わってくれという思いだけだった。夢の中の自分はただ家のため、国のために言われたことに従順に従うつまらない人間だった。
だが、それでもこの国は壊される。
ならば今までの自分を壊してでも悪夢を変えなくては。
そのためだったら自分に出せる犠牲ならいくらでも差し出そう。心優しいこの国の創造主様はきっとこの贄を無視することはできない。
更新が遅れてしまい申し訳ありません( ; ; )
次回は6月20日更新予定です




