Op.12
ユールとソルナが案内されたバスルームは一度に何十人も入れそうなほど大きいもので、二人で入っても一切の窮屈を感じることは無く、泳ぐことができてしまいそうだ。
ソルナは手ばやに身体を流すとユールを待つことなく長い髪を一つに括り、浴槽の段差にもたれかかりながら天井を見つめていた。ここまでの案内をしてくれたメイドの話では、何台か前の大公が大の戦闘好きであり、それを心配した夫人が気分の高揚を落ち着けるためこの大浴場を作らせ、夫人が灯した焔の揺れ発つ燭台は多くはなくとも今でも淡い橙の炎が揺らめいている。
ソルナはその灯りをじっと見つめながら昼間のステルチェの顔が頭の中で反芻していた。
「何耽ってるの?」
腰にタオルを巻いたユールが飛沫を上げないようにそっと浴槽に足をつける。さっぱりと洗い流された長い髪はソルナと同様に高いところで括られ、前髪を濡らしたせいかいつもは見えない額を出している。
「別に、ルミエールフォアが大変な時に来たんだなって思ってただけ」
「はは、まぁそもそも俺たちが来たのが調査の為だったし、何もない方がおかしいんじゃない?」
「それもそうだね」
ステルチェが云うには屋敷の灯りは全て魔塔からの魔力供給によって成り立っているらしい。それどころかヴァンフルールやその周辺の集落の日常生活の基盤は魔塔やその地で生計を立てる勤める魔術師によって管理されているのだという。
「魔法ってすごいんだね。なんか、フォレがあんなに威張ってたのもさ、初めはくそガキって思っちゃったけ、ど魔術師がこの国を支える役割の根っこにいるってことを考えるとあの態度でも納得しちゃうよ」
ユールとソルナはまだかすかに耳に残っている昼間聞いた自分達よりも低い位置から聞こえた高笑いを思い出す。
魔塔主ということは彼こそがルミエールフォアの生活の生命線を支える大黒柱なのだろうか。魔術師について何も知らない二人はそれがどれほどすごい事なのかは分からないが国民にとっては畏敬すべき存在なのだろう。
「でも魔法って神力と何が違うんだろう。ほら、テオクラティアの神官だって不思議な力を使ってたし俺から見たらどっちも似たようなものに見えるよ」
ユールは浴槽の中で足を伸ばしながら自分の横で寛ぐソルナを見た。
「うーん、どうなんだろう。わたし達はどっちも使えないし使える本人達にしかわかんない違いでもあるんじゃない?」
「そうだよね。また機会があったらフォレとかヘシオドスとかに聞くのもいいかもね」
「いっそシャルルって人に会えちゃえればいいのになぁ。ほら確か言ってたじゃん、ここはその創造主ががいる国だって!どんな人かは知らないけどアイソーポスとかヘシオドスみたいに優しい人だといいな」
「そう言えば、どんな人かってルミエールフォアに来る前に聞いてなかったね。アイソーポスの話からして多分目は醒ましてるはずだし、探していればそのうち会えちゃうかも!」
「ほかにもいろいろ聞ければいいんだけどね……はぁ、やることだらけでまいっちゃうな」
アイソーポスとヘシオドス以外の創造主については何も聞いたことがない。
唯一といえばアイソーポスからいつだったか、テオクラティアにいる他の二人について軽く聞いたことがあり程度でこの国を治めるシャルルという創造主については名前を聞いたのみで、この国でどんな立場にいるのか、何処で何をしているのかは全く見当がつかなかった。
「まぁ、どうにもならなくなったらスティ達にお願いして少しの間テオクラティアに帰ってでもアイソーポス達に連絡とってみればいいし、しばらくはシャルルさん探しよりも銀花病の調査に力を入れないと。ヘシオドスにも定期的に報告する約束だしね」
ルミエールフォアに来る前にヘシオドスと交わした二つの約束。
一つ目は、異変や銀花病についての新たな情報があろうとなかろうと定期的に彼に報告を行うこと。そして二つ目は、ヘスペラによる大規模な襲撃やアビタスの襲来があれば最優先でヘシオドスかアイソーポスに連絡を行うこと。
それは直接言葉にはしなかったが、二人の身を案じたヘシオドスからの優しい約束だった。
「あんまりに期間が開くと心配させちゃうだろうから、そろそろ一回目の報告をしないとね」
そう言うとユールが浴槽から上がり、入る前に置いておいたもう一枚のタオルで身体の表面についた水分を拭き取り始めた。もう満足したのか、しかしそれはそうとしてこれ以上湯に浸かっていれば上せてしまう、ソルナもユールの後に続いて浴槽を上る。
二人が入っている間にメイドが用意をしてくれたのか、いつの間にか脱衣所には着替えが用意されており、寝やすいようにとゆったりと作られたシルクのネグリジェはユールとソルナで胸のところに付けられたワンポイントの刺繍が違うようだ。ユールは月、ソルナは太陽が刺繍されたものを手に取り頭からすぽっと被った。
洗ったばかりの石鹸の香りの中にほんのりと花の香りがしているネグリジェは手触りの通りに柔らかく、二人のまだ温かな肌を優しく包み込んでいる。
「すごい良い香り……もう寝るだけなのにこんなに贅沢してたらいつか痛い目見そうだな……また、スティのお礼を言っておかないと」
「あはは、お礼は同意だけどこれくらいのことで痛い目なんて、そんなわけないでしょ。それに今日はまだまだ寝れないよ」
「あ、そうだった!スティはもう部屋に戻ってるのかな」
二人は一階のバスルームを出て自分たちの部屋へと戻る。ステルチェは自室にバスルームがあるようで自分も支度が終わったらユールとソルナの部屋に向かうといっていたのだ。
思ってたよりもお風呂を楽しんでしまった二人はもしかしたらもうステルチェが自分たちを待っているかもしれないと思い急いで階段を駆け上がる。三階について階段をすぐ右に曲がってしばらく行くと二人の部屋があるのだが、その扉の前に今まさにノックをしようとしている人影が見えた。
「あっ、あれスティじゃない?一足遅かったかも」
「もう来てたんだ!おーい、スティ」
ユールが部屋の前にいるであろうステルチェに向かって大きく叫ぶと、扉の前にいたステルチェもこちらに気が付いたのか手には小さなランプを持ちながらこちらに走ってくる。二人の想像通り、やはりそこにいたのはステルチェだったようで、ユールの声に大きく手を振りながらあっという間に二人の目の前にやってきた。
「二人とも、ナイスタイミング!あたしも今ちょうど二人の部屋に入ろうと思ってたんだ」
「ほんと、スティを待たせなくって良かった。そうだ、この服ありがとう!すっごい気持ちいいよ」
「うん、お風呂だって広かったしなんか今までの疲れが一気に消え去ったみたいに体が軽いくなったよ」
「よかった!服も丁度よさそうだし、二人ともすっかりリフレッシュできたような顔してるからこっちも嬉しいな。さ、早く部屋に行こう!夜はまだまだ長いよ」
ステルチェはそう言うと二人を待たずに部屋に向かって歩き出した。
三人が部屋に着くとそこにはユールとソルナが部屋を出てきたときにはなかったはずのティーセットとそれに合わせた軽食、そしてまだ熱い二つのポットが用意してあった。小さいほうの中には温めたミルクが入っているようで薄い湯気と共に優しい香りが漂ってきた。二人は驚きながらも用意を命じたであろう人物を見ると、二人の視線に気が付いたステルチェはしてやったりと満足げな顔を浮かべている。
「こんなの、いつ用意してもらったの?」
「夕食の前に伝えておいたんだよ。ほら、せっかくならお話会兼お茶会ってことで!私の通ってた学校でもたまにこうやって真夜中のお茶会ってやっててね、行事とか試験ごとに優秀者として選ばれた人と学園長、あとは魔法学校の生徒と合同で夜通しこんな風にお茶を楽しんでたの。特別感があって好きだったんだ、真夜中のお茶会」
懐かしむかのように目を細めながらステルチェは窓に一番近い席を取ると、突っ立っているユールとソルナに早く来てよと急かしながらに手を振っていた。
ユールとソルナも椅子に座ると、そのテーブルの上に並ぶ品数に思わず二度見をする。軽い物中心に用意されているもののケーキスタンドはしっかり三段あり、それだけでなく周りにはスープや小さなパン、サラダまでおいてある。
いくら二人がよく食べるとは言っても寝る前にここまで食べきれるかどうか。ユールとソルナは顔を見合わせると困ったように笑いほほを掻く。
「もちろん多かったら残しちゃってもいいけど、たぶん二人なら食べきれると思うよ。お茶、入れちゃうね」
ステルチェはそう言いながらすでに注ぐだけとなっているティーポットを片手に二人の手元にあるカップへとなみなみとお茶を注いだ。用意されていたハーブティーはステルチェが自らの複数の葉を調合したもので、透き通ったペールグリーンのお茶はハーブだけでなく柑橘の爽やかな香りも混ざっている。
「そういえばスティも今年学校を卒業したんだっけ?それもすごい優秀たったとか!ここに初めて来たときに案内してくれたメイドさんに教えてもらったんだ」
「あはは、そこまでじゃないよ。たまたま感が冴えてたとか、運がよかったこともあるからさ」
カップに入ったハーブティーを飲みながらステルチェが答えた。
彼女の前にある皿にはカップゼリーと小さなフルーツガトーが乗っている。プチガトーに使われているのはレモンだろうか、酸味の効いた香りとカラメルの少し焦げた色がなんとも食欲をそそられる。
「スティって十六歳だよね?本当ならいつ卒業予定なの?テオクラティアはもうちょっと長かった気がするな」
「えっと、大体が十八歳で卒業なんだけど、あたしは入学も早かったから学園長もいいよって言ってくれてね。そういう事情もあるし貴族の子で飛び級ってたまにあるからあんまり実感はわかないんだよね」
「そんなことないよ。いくら運がよかったってそもそもそこに至るまでの過程だって大変だろうし……やっぱり話を聞いてるとすごいなって感想しか出てこないよ!」
「ふふっ、じゃあ素直に受け取っておこうかな。とは言っても、姉さまも飛び級で卒業してるし、小さい時から家庭教師がついてたから一通りの勉強はしてたんだ。だから逆に今躓いていたらそれまで何をやっていたんだってことになっちゃうからね!」
そうは言うものの上級学校を飛び級で卒業するなんて並大抵のことではないだろう。ユールとソルナは目の前で謙遜をするステルチェを素直に尊敬していた。
一度手合わせをした時に感じた剣の腕前、貴族としての風格、状況把握能力の高さ。すべて一朝一夕で身に着くものではない。ステルチェ本人は当たり前だと思っていることは他の人から見れば一生かかっても身に着けることができないかもしれない才である。
「今度は俺とも手合わせしようよ。今日はできなかったし、あんなの見せられたのにお預けを食らったら手合わせがしたすぎて夢に出てきそうだよ」
「うん、もちろん!楽しみだなぁ、ソルナも強かったけどきっとユールも強いんだよね?あたしと剣を合わせてくれるのなんて騎士団の中でも少ししかいないし誘っても交わされることが多いから退屈してたんだ」
ステルチェのその言葉にユールとソルナは騎士団に団員に少しばかり同情をした。前提として自分たちが忠誠を誓う主君である上にあんなにも強い剣術を扱える人物はそうそういないであろう。
圧倒的な力の差の前では時として訓練が意味のないものとなる。ステルチェもそれを分かっているのであろう、無理強いはできないしね、とあっけらかんと笑っていた。
「そういえばさ、あたしテオクラティアにはいったことがないって言ったけどよく思い出してい見たら一回だけ行ったことあったんだ」
「えっ、そうだったの?!」
「うん、でもまだ本当に小さい時だったからどうして行ったかとはほとんど覚えていないんだけどね。ただすっごい広いところにいたのは覚えてるんだ。夕焼けに照らされてね、小麦だったのかな?それが全部黄金色に輝いてたの!子どもながらに目が離せなくて日が沈むまですっと見てたなぁ」
「小麦畑かぁ、ならテオクラティアの西か南の方じゃないかな?でもいいなぁ、わたし達は見なかったから今度テオクラティアに帰ったら行ってみようかな」
「えー、その時はあたしも連れて行ってよ!ふふっ、あたしね誰にも言ったことがないんだけど、一つ目標があるんだ」
「へー、なんなのその目標って?」
「それはね、ルミエールフォアを出て絶対に外に行ってやるの。誰もあたしのことなんて知らない自由なところに」
月が浮かぶ空を見上げながらステルチェは囁くように呟いた。
月光はステルチェの青紫の髪を照らし、室内には静寂が訪れる。窓の外からは時折誰かが箒で横切ったのだろうか、彗星のように影が駆け抜けていく。
何も言わなくなったステルチェの横顔を見てユールとソルナは顔を見合わせる。
あのことを今聞いていいのか、出会ったばかりの自分たちに話してくれるのか、そんな不安が胸をかすめた。自分たちに良くしてくれたステルチェに余計な迷惑を掛けたくない気持ちと、彼女をあんな顔にさせる原因を知りたいそして助けになりたいという気持ちで二人の心中はせめぎ合う。
口を開いたのはユールだった。
「ねぇ、スティ」
「ん?なぁに」
「スティとレヴルって人の間でいったい何があったの?」
ユールの言葉にステルチェは一瞬動きを止めるが、すぐに二人に向き直った。その表情は昼間のような感情の削ぎ落とされたものではなく、目の前の二人を信じ決心をしたように微笑んでいた。だがその口角はいびつに上がっている表情を見るに不安があることが見て取れる。
「君たちは今からあたしの言う話を本当に信じてくれる?」
「それって、どういう、」
「怖いんだ」
そう言うとステルチェはその瞳を伏せてしまった。小さい声は震え、何かにおびえるように、逃げ出したいのか弱弱しかった。
「……もしもだれも私のことを信じてくれなかったら。私は一人で戦わなくてはならない。そして、二人はこの国の人じゃない。だから本当は巻き込んでは駄目なのに、分かっているのに、あたしが弱いせいで」
ステルチェの伏せられた瞳は涙で揺らめいているのだろうか、しかしそれを確かめることはできない。その瞬間、ユールとソルナは頭で考えるよりも先にステルチェの手を握っていた。剣を扱う人間特有の節々で皮が厚くなった温かい手。
ステルチェが顔を上げた先では同じ萌黄色がキラキラと星のように輝きながら自分のことを見つめていた。
「そんなの当たり前だよ!だれがスティのことを疑うもんか!」
「あたし達は何があってもスティの隣にいるよ。スティが戦わなくちゃいけないならわたし達だって一緒に剣を握るよ」
だから信じてよ、そう重なった二人の声にステルチェは目を丸くした。
ありがとう、そう言おうと思った口からは先に笑い声がこぼれてしまった。
「あ、ははっ、すごい!双子ってそんなところまで揃うんだ。思いもしなかったよ」
二人に両手を掴まれているせいでステルチェはその顔を隠すことなく口を大きくあけて笑っていた。姉が見ればはしたないと言われてしまいそうだが、そんなことどうでもよかった。
「ありがとう。二人がそう言ってくれるなら、その誠実さに応じなければ。ヴァンドールの名が泣いちゃうね」
ステルチェの瞳も二人のものと変わらないほど鮮やかに、そして力強く二人を見つめ返していた。
「ねぇ、二人は夢を信じてる?」
5月の更新はこれで最後です!
次回更新は6月2日更新を予定しています