Op.0
美しかったはずのルミエールフォアの空には黒い煙があちこちに立ち込め、空を泳いでいるのは反逆を示す汚れのない青い旗だった。道には共に戦った騎士も、自分の背中を守ってくれていた魔術師も、ただの平民だって関係なく何の罪のない人々が苦痛に顔をゆがめ横たわっている。
(あぁ、もうここまでなのか)
ステルチェは地面にここまで共に戦ってきた愛剣を突き刺し、天を見上げた。
自身の瞳に宿るのと同じ橙と青の混ざり合った空は平和だったあのころと変わらない。変わってしまったのはきっと自分か、それとも初めから自分たちが狂っていたのか。
もう何も分からない。
動きを止めた自分に対して何を思っているのか、何の感情も含んでない甘い声が頭上から降ってくる。
「もう終わりにしましょう、ヴァンドール小公女。いえ、今は大公閣下とお呼びすべきでしたね。貴女だって勝ち目がないことは分かっているはずだ」
「……はっ、それは貴殿が言うことなのか。まるで王にでもなったつもりのようだな」
嘗て自分の婚約者だったはずの男は大層な銀の甲冑を身にまとい、その背には何百もの兵士を率いて同じくヴァンドールの勇ましい家紋の彫られた甲冑を身に纏うステルチェを見下ろしていた。西日に照らされるその顔貌はステルチェの戯言など気にも留めずに、ただ何食わぬ顔で足元にあった死体を持ち上げると彼女の方へと投げつける。
簡単に投げられた死体は昨日までステルチェとともに剣を並べていた盟友だ。しかしその瞳は二度と開かれない。鈍い音を立てて自分の目の前に転がってきた血に濡れた顔貌をせめて綺麗にしてやらなくては、そう思いステルチェがその額をそっと撫でるとまだ温かいという目の前の事実に、ステルチェは唇をかみしめた。
「私とて、一度は婚約していた貴女を何も言わずに殺すほど人としての心がないわけではありません。ですからここで提案をして差し上げましょう」
「今ここであなたが諦めを宣言していただけるのならば、このルミエールフォアの大いなる空に誓ってその命だけは助けて差し上げます」
同朋の亡骸の前でつかの間の弔いをする自分のことなど関係のないかのように、上に立つ男はただただ言葉を続ける。
ステルチェはあの男の言葉に青筋を立て沸点が沸き上がりそうな怒りを覚えたが、もう叫ぶ力さえ湧きあがらない。怒りで口角は引きつり、喉の奥からは乾いた笑い声があふれる。
目の前に並ぶあの男に付き従う騎士たちは狂ったように笑いをこぼすステルチェをまるで蛆を見るかのように冷めた目で見るとその剣の切っ先を一斉に彼女に向けて持ち上げた。
「……ルミエールフォアの双剣とも呼ばれた貴方が随分と落ちぶれてしまったものだ。何がそこまで可笑しいのでしょうか」
「ふはは、これが笑わずにいられるか。はぁ……なぜ私に情けを与えるんだ?」
ステルチェは目にかかるほど伸びた前髪をかき上げ、乾ききったその瞳で夕日に照らされる男を見つめていた。ステルチェの幼さの抜けきった精悍な顔には、張り付いた血が口を動かすたびに鱗の様に剥がれ落ちるが、もう何の感情も湧きおこらない。
あるのはただの薄ら笑いだった。
「私を殺した方が反逆者のそなたたちにとって最良の選択であるはずなのに、私にはそなた達のそのとち狂ったとしか思えない高尚な考えは到底理解に及ばないようだ」
最高の皮肉を交えながら放たれたステルチェの言葉に青を身に纏った騎士たちは剣を握りしめる手を強くし、その仮面の奥では冷たい炎がゆらゆらと揺れている。
血を失いすぎたせいだろうか、頭は回らず今この場を切り抜ける策なんて一つも思いつかない。その代わりに頭をよぎっていくのは暖かな記憶だけだった。
ルミエールフォアの公爵家令嬢として生を受け、今日まで泣き言の一つも溢すこともなくこの国のためにこの身を粉にして歩みを止めることは無かった。
亡くなった父の遺志を受け継ぎ公爵家の当主を、そしてこの国で空席となった王の代わりに大公の玉座へと座った姉はステルチェの成人式の日に毒殺され、姉の後を引き継ぎまだ幼かった最愛の弟が当主の座に着くとあの子はすぐに愚かな王様になり果てた。死ぬ最後の瞬間まで操り人形のように貴族たちに利用され続け、最後には今目の前に立つあの忌々しい男の手によってその短い生涯を幕引きされた。
(みんなに会いたいな)
身体が弱くとも献身的な愛を注いでくれた父、そんな父を支え貴族としての心得を叩きこんでくれた母。亡き父に代わり自分たちの代わりに大公爵家を受け継いでくれた姉も自分にひたむきに慕ってくれた弟も、いつもそばにいてくれた従者も騎士ももうここにいない。
皆、ステルチェを置いて母なる神の元へ旅立ってしまったのだ。いっそともに連れて行ってほしかった。そうすればこんなにも苦しくなかったのに。
全ての元凶となった男は黙ってステルチェのことを見つめていた。かの家の象徴である灰蒼色の瞳は何を思っているのだろうか。
ここまで抗ってきた彼女への憐憫、呆れ、はたまた歓喜か。真意は誰にも分からない。
「……なぜ私を生かすというのだ。反逆を起こすほど憎ければ私など一思いに殺せばいいだろう!!」
男は最後の反抗のようなステルチェの号哭にあきれたようにため息をつくと、その目を細めて唇を開いた。自分とは対照的に傷のひとつもないその顔は自分を憐れんでいるかのように笑っていた。
「呪うのならばその運命を呪ってください。貴方は今この場で、いえ、ルミエールフォアで唯一の公女であり、あの英雄の子孫ですから」
「ふふっ、そうです。稀代の英雄の子孫の方にはこの国の、こんな愚劇の終演を見届けていただかなくては。そのためにここまでその命を残しておいてあげたんですの」
男の影から全身を黒いマントで隠した小さな影が躍り出てくる。鈴を転がしたかのような愛らしい声は落ち着きながらも、嬉しそうな色を隠しきれていなかった。
(あれが、反逆の魔術師。いや黒魔術師とでもいう方が正しいか)
顔まで隠しているマントのせいで魔術師のその表情は見られない。
ステルチェがその魔術師の存在に気が付いたのはもう後戻りできないほどに追い詰められたころだった。言われてみればいつも先頭の火の粉が届かぬ最後尾で何をするわけでもなくただこちらを見ている影があることは知っていた。
しかし、目の前の戦闘に集中しなければならない状況でそんな些細なことを気にしてはいられない。そんな自分の考えがまさか今になって自分の首を絞めるとは、ステルチェは自分の詰めの甘さに歯軋りを鳴らした。
(もっと早く気が付いていれば、いや、そもそも初めからきっとあの黒魔術師が関わっていたのだろう)
思い返して見れば歯車が狂い始めたのは自身の成人式の日。邸宅で開かれたステルチェの成人式の最中、どこから鼠が潜り込んできたのか不遜にも姉の胸元に刃を突き立てた。
間一髪、刺殺されるようなことはなかったため当時はただの暗殺未遂事件として処理されるはずだった。それなのにわずか数日後、姉は帰らぬ人となった。
あの日、姉に致命傷にはなりえるはずがない小さな傷を作った刃にはどうやら魔法がかけられていたようで魔塔での解析の結果、今は廃れたはずの魔女の使っていたとされる古代魔法が使われていたらしい。
とっくの昔に古代魔法も魔女と呼ばれる者ももいなくなり、今では文字としてしか生きていなかったはずのその毒に気がつけるものなんていなく、すでに姉の身体もなくなってしまっているから確認する術すらなくなった。
「……情けがあるというのならば、教えてくれないか高貴なる魔法使いよ。あたしのお姉さまを殺したのも弟を殺したのも、この国をめちゃくちゃにしたのも、すべてそなたがやったことなのか?!何がそんなに憎かった、我が一族が、このルミエールフォアの民がそなたに何をしたというのだ!!」
黒い影の中でその瞳だけが赫々と鮮烈な光を放っている。アザレアの瞳はどんな宝石でも及ばないほどに美しく、光の加減のせいかその顔の一部が黄昏の陽光に照らされていた。
「貴方が知ったところで意味があるのでしょうか?もう何も変わらない。貴女に許されているのはこの国の行く末をただ見届けるだけ。それ以上は何もできることは無いんですの」
お分かりかしら、そんな冷え切った魔法使いの言葉が終わるのを待って、かつての婚約者が手を振ればステルチェを囲んでいた兵士たちは一斉に刃を進め、彼女に逃げ場などはもう残されなかった。
「さぁ、選んでください。この場で首を吊るしあげられるか、それとも膝まづいて助けを希うか」
誰かの刃がステルチェの首の皮を薄く切った。流れてくる血液は燃えるように熱く、生を実感させるには十分であった。
そうだ、まだ死んでいない。
「そのどちらも選ばない、と言ったらどうするつもりだ」
薄ら笑いを浮かべながらステルチェは最後の力を振り絞り自身を取り囲んでいた兵士たちを薙ぎ払うと砂や血で汚れてしまった白い手袋と取り外す。その下の隠れていた手は切り傷がない部分を探す方が難しい、しかしだがその示指にはそんな傷だらけの手に不釣り合いな指輪が嵌められていた。
血をそのまま固めたような深紅の石が嵌められたその黄金の指輪は夕日に照らされこの上なく高貴に輝いている。
それは一族に代々伝わってきた家宝。持ち主の命を代償に一度だけ願いをかなえてくれるとの言い伝えがある至高の聖遺物。
その指輪を見た途端、黒魔術師の目は見開かれ何か焦ったように冷や汗を流し始めた。
「私は初めから、おとなしく白旗をつもりなんて毛頭考えたことは無かったからな!」
この場にいる全員へ見せつけるように取り外した指輪を高く持ち上げると、深紅を宿す宝玉はステルチェの味方になるのかの様に、日の光を受けてさらに強く煌めいた。
「私は生きることも勝つことも諦めない。だから、この言い伝えに私のすべてを賭けよう」
「それは!」
「おや、そなたはこれが何か知っているのか。なら話は早いな。さぁ、早く私を殺すといい」
「……っふ、そんなもの成功するとも限りませんのよ。貴女も無駄死にをしたくは、」
「もう、成功するかしないかなんてどうでもいい。まぁ、失敗したらしたでも」
ふと、空を見上げると雲が流れてきた。あの雲はどこからやってきたのだろうか、自分もあの雲のように何にも囚われず自由に生きることができたのならどれだけ幸せだったのだろうか。
「きっとあたしの家族は笑って迎えに来てくれる」
自分は今どんな顔をしているのだろうか、自分の表情は自分ではどうやったって見えることは無い。
だがこの場のだれよりも穏やかな顔をしているのはきっと自分だ。
(神よ、シャルル様よ)
唖然と固まる反乱軍を横目にステルチェが迷いなく首に剣先を押し込むと、喉元から今までに感じたこともないような燃えるような熱さとともに全身の力が抜けていく感覚に耐えきれず、その場に足をついた。
視界の隅ではあの魔法使いが何かを叫びながらこちらに向かって来ようとするのを兵士が必死になって取り押さえているのが目に入ってくる。
(これで終われる。もう何も考えなくていい)
誰も隣にいない孤独な椅子に座るのにはもうこりごりだ。魔法が発動するかなんて、自分が息絶えた後どんな末路を辿るかなんてそんなもの全部どうだっていい。
ただ一つ心残りがあるとすれば、
「お姉さまとスヴェイユともっと生きてみたかった。地位なんて、名誉なんてそんなもの全部なくなったってただ傍で生きていてほしかった」
「っ、それが君の望みなのだね!!」
自分の心の中に秘めていた思いはどうやら口に出ていたようだ。聞こえなくなっていく周りの雑音の中、自分の声だけがやけに頭の中に響いたているなと思っていたその時、どこからともなく聞いたことのあるような声が耳を駆け抜けていった。
その声が耳に届いたことを実感する間もなく、それまで立っていたはずの戦場はまばゆいほどの白い光に包まれ、ステルチェ以外の人間が消えたその真っ白な空間の目の前には見たこともない人物が立っていた。逆光のせいかその顔は下半分しか見えないその人物はなぜかステルチェの手にあったはずのあの赤い指輪を持ち、彼女を見つめていた。
「あなたは、」
「もう一度聞くよ、ステルチェ。君がかなえたいという願いはそれでいいのかな?」
目の前の人物は確かめるように再度ステルチェに問いかけた。優しく心が温まるその人の声はステルチェの傷ついた身体の隅々まで染み渡り、痛かったはずの傷はまるで何も無かったかのように塞がりなんとなく自分はもう死ぬのかという実感がわいてきた。
(私の願いは、)
ただ平穏に家族みんなで幸せに暮らせれば何もいらなかった。別に公爵の地位がなくたって、騎士として花開かなくたって温かい部屋で弟と遊んでみんなでご飯を食べて、夜は姉の優しい声で眠りにつける、そんなありきたりな生活は今となっては何にもかなわない幸福なのに。
もう手の届かない奇跡だというのに。
「……此度の責任は僕のせいでもある」
目の前の人物はそうつぶやくと、ステルチェの前で片膝をつき手を優しく取りそっと口づけを落とす。
「ここまでよく頑張ってくれた。君のその高潔で汚れのない魂は誰にも冒せないものだ。そんな君に敬意を示して僕からのささやかな贈り物を贈らせてくれ」
『今ここに、我が祝福の名のもと親愛なる君へ一世一代の奇跡を授けよう』
いつだったか姉が聴かせてくれたおとぎ話を語るかのようにやさしい声が頭の中に直接響いてきた。ステルチェはもう目を開けていることさえままならずゆっくりと瞼を閉じる。
瞼の裏には小さな宇宙の様に幾ばくもの星が輝き、一歩足を踏み出せばこのままどこまでも飛んでいけそうだ。
「僕たちの罪で君たちをここまで苦しめてしまって本当に申し訳ない。だが、僕には直接君たちの運命を変えることはできない。だからどうか、どうか君の力で新たな軌跡をつかみ取ってほしい」
この国で輝く小さな星よ
額に降ってきた優しい感覚は真綿の様にステルチェを包み込んだ。
第一幕 ルミエールフォア 開演
お久しぶりです
第一幕の舞台は華やかな宮廷文化の名残の残る大陸北西の国、ルミエールフォアです
この国でユールとソルナはどんな物語を目撃するのか
ぜひ終演までお付き合いください
また、Twitter(X)の方にエピュフォニアの大陸図を投稿しておりますので気になる方は是非ご覧ください
宇佐美ましろ