5
ディアンと勇者様一行は、魔王城の最上階にある大広間で戦っていました。
この場所に初めて来た時は、その広さに圧倒されたものです。ただ、なぜ最上階にあるのかという問いに、勇者との決戦場だ、という答えが返ってきた時は何とも言えない気持ちになりましたが。
まさか、この目で伝説の戦いを見ることになるとは。
金の勇者と黒魔王が目の前で死闘を繰り広げているのを見るのはとても恐ろしいです。いつ、誰が怪我をして死んでしまうかわからない。そんな緊張感にとても耐えられる気がしませんでした。
ですが、怖がってばかりもいられません。私はすぐに勇者様に目を向けました。
手紙を受け取ったというのなら、なぜここに来て戦っているのでしょうか。私の意図が伝わらなかったのでしょうか。
「っ、やめてください! もう、戦わないで!!」
私は思い切り息を吸い込み、今までで一番大きな声が出るように叫びました。戦いの騒音に負けないように。
そんな私の声はどうやら届いたようで、今まさにディアンに斬りかかろうとしていた勇者様の手が止まってこちらに振り返りました。
「リリファ姫!?」
驚いたように目を丸くしていたのは、勇者様だけではありませんでした。共に戦いにやってきた勇者様のお仲間はもちろん、ディアンまでもが驚愕に目を見開いているのが見えます。
「勇者様、手紙を受け取ってくれたのでしょう? それならなぜ、ここに来たのです? なぜ戦っているのですかっ!」
静まり返った広間に、私の声が響きます。
思いが伝わらなかったのでしょうか。もしかしたら、私の手紙だと思っているだけで別の手紙を受け取っているのかもしれません。
けれど返って来た勇者様の言葉で、届いたのは間違いなく私の手紙だったということがわかりました。
「ああ、かわいそうなリリファ姫。貴女は騙されているのです。わかっています。恐ろしい魔王に誑かされて、こんな手紙を書かされたのでしょう? 大丈夫です。必ずや、僕が悪しき魔王の手から救い出してみせますから!!」
信じてもらえなかった。そう、信じてもらえなかったのです。魔王ディアンジェロが無害であるということを。
「ち、違います! それは、私が私の意思で……!」
「魔王! か弱い姫を人質に取る非道な行い……決して許せぬ! 必ずやお前を倒し、僕が姫を……世界を救ってみせる!」
慌てて否定する私の声は、もう聞こえてはいないようです。勇者様はただひたすら、私を救おうと必死なようでした。
考えてみれば、勇者様が誤解なさるのも無理のない話でした。
私だって、彼と出会って関わるまではずっとディアンのことを極悪非道な魔王であると思っていたのですから。彼を責めることは出来ません。
でも、信じてもらえないことがこんなにも苦しいなんて。
彼の優しさを、彼の魅力を、彼の悲しみを。
「どういうことだ。リリファは手紙に何を書いたのだ」
「はっ、しらばっくれるな悪しき魔王よ! お前が書かせたのだろう! 魔王に人を襲う意思がないなどと、誰が信じる? 人々は今この瞬間も魔物や魔獣の被害で苦しんでいるというのに!!」
勇者様の剣が振るわれる度に、光の斬撃がディアンに向かって飛んで行きます。それをディアンが魔法のかけられたマントで躱し、応戦しながら会話をしているようでした。
「救いに来ないでください、と書いたリリファ姫の気持ちがわかるか!? 身を削るような思いだったに違いない! 来るな、などと姫に書かせて、そんなに僕と戦うのが怖いのか! 負けるのが怖いのかっ、この臆病者め!!」
勇者様が叫んだ直後、耳をつんざくような轟音が鳴り響きました。あまりの音と振動に思わず耳を塞いで身体を縮こませてしまいます。
「リリファ……ああ、なんてことだ」
ディアンが驚いた目をこちらに向けてきたのがわかりました。ああ、わかってくれたのですね。誤解が解けたのですね。
それなら十分です。貴方にさえわかってもらえればもういいのです。
あとはどうか、この戦いをどうにか凌いでください。いつかは倒されてしまう運命なのだとしても、あと少しだけ貴方との時間を過ごさせてほしい。
胸の前で両手を組み、祈るように戦いを見守ります。
少し足を踏み出せば、あっという間に戦いに巻き込まれてしまうでしょう。それはとても恐ろしいことでしたが、今はこの場を離れる気にはなれませんでした。
やがて、互いに疲労が滲み始めた頃のことでした。その時は突然訪れました。
激しい戦いの中、大広間の壁や屋根が脆くなっていたのでしょう。ガラガラと大きな音を立てて瓦礫が降ってきました。
彼らの攻撃がこちらに来ないようにとだけ気を付けていた私は、急な危機に反応することが出来なかったのです。
「リリファ!!」
私の名を呼ぶディアンの声が聞こえてきました。それと同時に身体に感じた衝撃、そして……温もり。
どうやら私は、ディアンによって瓦礫の下敷きになることを逃れたようでした。
「あ、ありがとうございます……」
「……あぁ」
押し付けられた胸から彼の心臓の音がとても速く鳴っているのが聞こえてきます。これまでずっと戦っていたのですから当たり前ですね。
そのまま身体を離そうとした時、一際ギュッとディアンに強く抱き締められてしまいました。
「ディ、ディアン!?」
何を、と続く声は出て来ませんでした。
なぜなら、その前にズルズルと彼がこちらに倒れてきたからです。
身体の大きな彼を私が支えられるわけもなく、ディアンはそのまま床に倒れ伏しました。何が起きたのか、わかりません。
ただ、気付いた時にはディアンの身体から大量の血が床に流れていました。
「は、はは……やった、やったぞ! ついに魔王を倒したぞ……!」
ディアンの後ろで仁王立ちし、拳を振り上げて喜んでいるのは勇者様でした。
どういう、こと……? 魔王を、倒した? 勇者様が……?
もしかして、私を助けたことで隙が出来てしまったの? あ、あ、私のせいで、ディアンが負け、た……?
「ああっ、リリファ姫! ケガはありませんか? 危うく魔王の下敷きになってしまうところでしたね……さぁ、早くこちらへ!」
勇者様が軽く屈んで私に手を伸ばしているのが視界に入って来ます。ですが、私の目は未だに血を流し続けて微動だにしないディアンから離れずにいました。
それを魔王の姿が恐ろしくて硬直していると思ったのか、勇者様がさらに優しい声で話しかけてきます。
「恐ろしいものを見せてしまって申し訳ありません。でも、全て終わりましたから。もう大丈夫ですよ。長らくお待たせしました、リリファ姫。……ああ、なんて美しい。オーロラの髪も、琥珀色の瞳も。こんなにも美しい姫と結婚出来るなんて、これ以上ないほどの幸せだ」
呆然とし続ける私を前に、勇者様はなおも言葉を続けました。
「お父上である国王陛下から頼まれたのです。リリファ姫を救ってほしいと。そして、どうか姫と結婚してもらいたいと」
ほんの少し照れたように告げる勇者様の話を聞いた瞬間、鳥肌が立ちました。
わかっています。わかっていました。こうなるだろうことは。お父様にも勇者様にも悪気なんてないということも。
勇者様は私の前に跪きました。
「リリファ姫。どうか僕と、結婚してください」
それでも、今の私にはあり得ない話でした。受け入れがたい話でした。
だって、だって私は……!
「嫌……嫌よ、死なないで……ディアン!」
私は、背中から剣を突き刺されて倒れているディアンに縋りました。身に纏っているドレスがディアンの血で汚れるのも一切気になりません。
彼はとても大きくて重いので、うつ伏せになっている彼の頭を膝に乗せるので精一杯でした。
まだ温かい。死んでいないのでしょう? まだ生きているのでしょう!?
「リリファ姫! そんな醜い魔王から離れて……」
「嫌っ! 人殺しっ! 私に近付かないで!!」
そんな私をディアンから引き剝がそうと、勇者様が肩に触れて来ましたが私はそれを思い切り振り払いました。
一国の姫として考えられない言動だとは思いましたが、構っていられませんでした。
「ディアン……ねぇ、ディアン。聞こえている? お願い。いつもみたいに、憎まれ口を叩いて……嫌味を言って」
ディアンは少しも動きませんでした。本当は気付いていたのです。ゆっくりとその身体が冷たくなっていることに。
「お願い。私、結婚するなら貴方がいい。貴方以外、考えられないの」
涙が次から次へと溢れてきます。
死なないで。私を置いて逝かないで。
「……愛しているわ。ディアン」
私はそっと彼の目尻にキスをしました。そのまま耐え切れず、彼の頭を抱き締めて涙を流し続けます。
物語は、やはり魔王の敗北で終わってしまうのですね。
どうして黒魔王はいつも負けてしまうの?
絶対にその未来は変えられないの?
昔話の結末を変えられないように。
次の瞬間、急にディアンの身体が強い光を放ちました。突然のことに驚いた私は身体を離し、目を細めます。
「な、なんだ? 何が起きている!?」
勇者様とそのお仲間たちが困惑している声が聞こえてきました。私も同じ気持ちです。でも、その質問の答えを誰も知らないようでした。
動揺する私たちの前で、ディアンは光に包まれながら宙に浮かび上がりました。私たちはただ呆気に取られながらその様子を見ることしか出来ません。
それからどれほどの時間が経ったことでしょう。次第に光が収まり……ゆっくりとディアンの姿がはっきりと見えるようになってきました。
いえ、ディアン、なのでしょうか。ちょっと自信がありません。
なぜなら、目の前に立っていたのは少し長い黒髪と黒目を持つ、とても見目麗しい男性だったのですから。
誰もが驚き、口を開けたまま放心しています。きっと私も同じでしょう。
ですが、最も驚いているのはその黒髪の男性のようでした。
「……なぜだ? 俺は、死ぬはずじゃ……勇者に、負けたのに」
涼やかな男性の声は、静かな広間で妙に響いていました。
黒髪の男性はその場で立ち尽くしながら、自分の手を見、身体を触り、顔を触り、キョロキョロと自分を見下ろして何かを確認しているようです。
「呪いが、解けた……? なぜだ? 解呪には勇者に勝つ必要があったはず」
その答えは、私にもわかりません。というより、まだ目の前で起きていることに理解が追い付きませんでした。
「貴方は……僕に勝ちましたよ、魔王ディアンジェロ」
「何?」
最初に答えを口にしたのは勇者様でした。
魔王ディアンジェロ、そう言いましたよね……? では、やはり目の前の男性は。
「彼女を巡る勝負に、ね。僕はこっ酷く振られてしまいましたから」
勇者様は軽く肩をすくめ、そのまま私に視線を移してにっこりと微笑みました。
えっ。
えっ!? そ、そういうことなのですか!?
ゆっくりと理解が追い付いてきたものの、未だに信じられない気持ちでいっぱいです。パニックになりかけた私は、ただ狼狽えることしか出来ません。
「……勝負の内容に指定はなかった、か。は、俺はとんだ間抜けだな」
一方、黒髪の青年ディアンは大きなため息を吐きました。
その気持ちは、まぁわからなくもありません。勝負や戦いと言えば、命のやり取りになると思ってしまうのも仕方がないことですから。
それでも、何度も何度も繰り返してきたディアンにとっては立ち直れないほどにショックな事実だったことでしょう。
なんと慰めて良いのかわからず、私はただ彼の名を呼びました。
「あ、あの。ディアン、なの……? んぅっ!」
額に手を当てて落ち込んでいたはずのディアンは、私に目を向けると一瞬で距離を詰め、あろうことか私の唇を塞いできました。その、もちろん、彼の唇で。
うまく呼吸が出来ずにもがくこと数秒。ようやく解放された私は思い切り彼を睨み上げました。
「な、何をするのですかっ! こんなっ、と、突然……!」
「愛していると言ったのはリリファだ。愛し合っているのならこのくらいは普通だろう」
「聞こえていたの!?」
「辛うじて生きていたからな」
思わぬ事実を知って、私の顔が熱くなっていきます。
な、なんということでしょう。あの全てを聞いていて、覚えているだなんて!
そ、それよりも今、サラッとおっしゃいましたけれど……愛し合っていると言いました? 聞き間違いでしょうか。
「熱烈な愛の告白だった。痺れたぞ。それなのに、嘘だったのか?」
「う、嘘ではありませんが……」
「ならいいだろう……なぜ、塞ぐ」
再び迫ってくる顔に耐えられず、私は思わず彼の口を両手で押さえました。だ、だって、勇者様たちが見ていますのに!
ディアンは少々不機嫌そうに眉根を寄せましたが、すぐに諦めて今度は私をギュッと抱き寄せました。
それから小さな声で、ため息を吐くように告げたのです。
「また、救えて良かった」
「……また?」
意味が分からず、聞き返します。ディアンは私を抱き締めたまま静かに語りました。
「あの時。最初に勇者と勝敗を決める戦いをした時だ。あの時は、勇者の攻撃が跳ね返って姫に向かった。そして俺はそれを庇い、敗北した。そのせいで姫は勇者と結婚し、俺は呪いを受けたが……それでも、姫を救えたことが全てで、俺に後悔はなかった」
「え」
それは、つまり。
呪いを受ける原因となったのも、姫を救うためだったというのですか? それなのに、後悔はなかった、と?
……魔王が人々を呪い、世界を呪い、神を呪ったというのは物語の誇張表現だったのでしょう。
だって、こんなにも寛大で、こんなにも優しいのだから。
ディアンは身体を離し、私の顔を見下ろしました。整った顔には慣れませんでしたが、優しく私を見つめるその黒い瞳には見覚えがあります。
ディアンなのですね。間違いなく、貴方は。
「リリファ。初めて出会った時からわかっていた。あの時の姫の生まれ変わりだと」
「……え。ええっ!? そう、なのですか? 私にはわかりませんが」
「本当か? 生まれてこの方、金の勇者と黒魔王に何も感じなかったか?」
思ってもみなかったことを告げられ、すぐに否定しましたが……ディアンに問われて思い直します。
何も感じなかったわけがありません。幼い頃からずっとあの昔話が大好きで、黒魔王に心を奪われていたではありませんか。
……どうやら私は、生まれ変わる前からずっと黒魔王に恋をしていたようです。
だから、誰とも結婚したくなかったのかもしれません。金の勇者様と結婚することになるなら、それも仕方ないと受け入れようとしたのも……それが影響していたのでしょうか。今はとてもそんな気にはなれませんが。
「リリファ、愛している。生まれる前からずっと。今度こそ、俺の腕の中へ来い」
「ディアン……!!」
ああ、やはり先ほどサラッと告げた「愛し合っている」という言葉は聞き間違いではなかったのですね。
私は今度こそ、ディアンの口を手で押さえることなく二度目の口づけを受け入れました。
崩れかけた大広間には、すでに勇者様たちの姿はありません。きっと、このことを報告しに帰ったのだと思います。
今度はお父様にどんな説教をされてしまうのでしょうか。そんなことを考えながら、私は彼の腕の中でクスクス笑い、幸せに酔いしれるのでした。
※
こうして、黒魔王の呪いは解け、永きに渡る金の勇者の義務も終えることとなりました。
姫は金の勇者……ではなく、黒魔王と結婚し、物語はハッピーエンドを迎えます。昔話の結末を、ようやく変えることが出来たのです。
懸念されていた魔物や魔獣の暴走については、ディアンや魔族たちが定期的に討伐することで話はついていると聞きました。
魔王ディアンジェロの暴走は……私がいるので問題ありませんからね。
お互いに歩み寄れば何とかなる話だったのですが、気付くのに随分と年月を必要としましたよね。
まぁ良いのです。今、全てが上手くいくように回り始めたのですから。
「でも、私は魔獣の姿の貴方を好きになったのですけれどね。ただの顔の良い男性になってしまって、少しだけ残念です」
「はっ。なんだ、怖いのか? 俺が美しすぎるとお前の美しさが霞むもんな? 僻むなよ」
「僻んでませんっ!! 自意識過剰なのでは!?」
「だが、俺を愛しているのだろう?」
「〜〜〜っ!!」
相変わらずこんな調子ですけれど、ご心配なく。
頬を膨らませて文句を言う私の瞼に、ディアンのキスが落ちてきます。そのお返しに、私は彼の頬に唇を寄せました。
ほら、この通り。
私たちはとても、幸せですから。
お読みいただきありがとうございました!