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ある夜、いつものように食事を摂りながら嫌味の言い合いをしていた時でした。
会話が途切れたところで、ディアンがさも今日の天気を告げるようにサラッととんでもないことを言いました。
「勇者が旅立ったようだ。ククッ、随分と時間がかかったな」
「え……」
それは、私がこのお城に攫われてからひと月ほどが経った頃でした。
もうひと月も経っていたのかというよりは、まだひと月しか経っていなかったのかという驚きの方が勝っています。
それほど、ここでの生活は刺激的で、飽きることがありませんでした。王城で暮らしていた時は、毎日が同じことの繰り返しで気付けば日が過ぎていたというのに。
いえ、そんなことよりも今は勇者様の話です。それはつまり、魔王を倒すために勇者がこちらに向かっているということ。
おそらくお父様は勇者様に告げたことでしょう。末姫を救ってくれ、と。もしかしたら、その褒美に娘を嫁にやると言ったかもしれません。
それを思うと、ズキリと胸が痛みました。
私はここから救い出され、勇者様と結婚することになるのでしょうか。それは朗報だというのに、なぜだか素直に喜べません。
「十日前後で、勇者がこの城にやってくるだろう。戦が始まる。リリファは危険のないよう、離れの塔に隠れているといい」
そう言いながら、ディアンは窓の外に目を向けました。つられて私も窓の方に顔を向けると、そこには夜空に向かって聳え立つ高い塔が見えます。
「ディアンは……勇者様に、倒されてしまうのですか」
今の自分がどんな顔をしているのかはわかりませんが、笑顔でないことだけは確かです。
どうして、こんなにも気持ちが沈んでしまうのでしょう。
失礼な質問だった思います。ですがディアンはなんてことないというように食事を続けながら答えました。
「さてな。俺が勇者より弱ければ、死ぬことになるだろう」
ズキズキと胸が痛みます。死ぬという言葉を聞いてしまったからでしょうか。恐ろしくて手も震えていました。
「なぜ怖がる? 喜べ。そうしたらリリファは帰れるのだから」
何よりも怖かったのは、ディアンがそれを当然のこととして受け入れていることでした。
「……負けないでください」
それは自然と口からついて出てきました。一度言ってしまえばもう止まらなくて、私は顔を上げてもう一度ハッキリと告げます。
「負けないで、ディアン」
「何を、言ってる」
ディアンが戸惑っているのがわかりました。普段は何があっても飄々とした態度を崩さないディアンが見せる、初めての動揺です。
黒い毛に覆われた魔獣の、真っ黒な目を見つめ返しながら、私は震える声で続けました。
「私は……私は、まだここにいたいのです……!」
暫し、沈黙が流れました。呆れられているのかもしれません。ですが、これは間違いなく私の本心でした。
「おかしなことを言うのだな」
しばらくして、ディアンは静かな声でそう言いました。それからすぐにククッといつものように笑って言葉を続けます。
「リリファを理不尽に攫ったのは俺だ。ワガママの一つや二つくらい、聞いてやらねばならんな」
相変わらず冗談なのか本気なのかわからない態度ではありましたが、きっとその言葉を守ってくれる。そんな不思議な確信がありました。
ですので私もそれ以上は何も言わず、ローストビーフを無言で口に運び続けることにしました。
戦いが始まれば、こうしてのんびり食事を楽しむことも出来ないでしょうから。
ディアンの予想通り、勇者様一行はそれから十日後に城にやってきました。
私は言われていた通り離れにある塔に避難していましたので、戦いの様子はおろか、勇者様のお姿も見てはいません。
次にこの塔にやってくる人物が誰かによって、勝敗がわかる。
そのことがとても心臓に悪く、ただただ祈ることしか出来ませんでした。……私にとっては、どちらが勝っても身の危険はないのですけれど。
私は当然、世界の平和を望んでいます。戦いなどなければいいと、魔物や魔獣の被害などなくなればいいと思っています。
そのためには、魔王であるディアンは倒されなければならない。それもわかっているのです。魔王がいる限り、魔物も魔獣も活発化したままなのですから。
それでも今この時、私は塔に訪れるのがディアンであればいいと願っているのです。少しでも早く平和が訪れるべきだというのに、一国の姫として絶対に望んではいけないことを望んでいたのです。
「……罰が当たるかもしれませんね」
胸が酷く痛みました。どうしてこんなにも痛むのかがわかりません。
そうしてひたすら平和とディアンの勝利という、相反する願いを祈りながら日々を過ごすこと三日。
ついに私の元を訪れたのは……ディアンでした。
「さぁ、食事にしようか。リリファ」
「っ!」
その姿はボロボロで、衣服があちこち破けています。けれど致命的なケガはないようで、ディアンは自分の足で立ち、ここに来てくれました。
そのことに胸がいっぱいになった私はいてもたってもいられなくて、思わずディアンに駆け寄り彼の胸に飛び込みました。
ディアンはとても驚いていましたが、勢いよく飛び込んだはずの私を難なく抱き留めてくれています。微動だにしないその逞しさに、ほんのり胸が高鳴りました。
衣服がはだけているせいで、ディアンの胸元はふわふわとした魔獣としての毛に覆われています。その胸に顔を埋めると、ディアンはくすぐったそうに身を捩りました。
少し早めの心臓の音が聞こえてきます。
ああ、生きている。
約束通り、生きて帰って来てくれた。
それがとても嬉しくて、涙が出そうでした。
「……お腹が空きました」
「……ククッ、そうか。ならば早く移動せねばな」
それを誤魔化すためとはいえ、あまりにも色気のない発言だったと思います。ですがディアンは嬉しそうに笑い、私の頭を撫でてくれました。
その声色は、今までで一番優しさで溢れていたように思えました。
※
それから勇者様一行は仲間を引き連れ、三度ほど城に攻めて来ました。その度、ディアンは怪我を負うことはあれど、倒されることはなく、勇者様たちを追い返しています。
ですが、回を追うごとに怪我も増えてきていることが心配でなりませんでした。塔でただ待っているだけの私は、毎回気が気ではありません。
あの物語のように、また黒魔王が負けてしまうのか……それが怖くてたまりません。運命は変えられないのでしょうか。
何も出来ない自分が歯痒く、私は思わずペンを取りました。私にも何か出来ることはないかと思ったのです。
『拝啓、勇者様。
私はリリファ。魔王に攫われた末姫です。貴方様にお願いがあります。
どうか、私を助けに来ないでください。
魔王を討伐しないでください。
私は、どうしても魔王ディアンジェロ様をお守りしたいのです。
魔王ディアンジェロに、人間を襲う意思はありません。
現に私は攫われてからこれまで、一度たりとも酷い扱いを受けたことはありません。
彼が人間を襲う姿も見たことがないのです。
魔王も魔族も、私たちと同じように仕事をし、生活をし、生きています。
ですからどうか、魔王討伐などしないでください。
ここで暮らす者たちの平穏を奪わないでください。
ここには来ないでください。
どうか、どうかお願いいたします。 リリファ』
勇者様に宛てた手紙を読み返し、長いため息を吐きます。
こんなことをしても、どうにもならないということはよくわかっていました。第一、手紙を届ける手段がないのですから。
それに、今も勇者様はディアンと戦っています。今日はいつもよりも長引いていて、もう一週間が経とうとしていました。攻めてくる度に戦いが長引いているのです。
それはつまり、勇者様がディアンを押し始めているということでした。
もはや、いつディアンが敗れてもおかしくありません。だからこそ、何もせずにはいられなかった。
私は書いたばかりの手紙を折り、塔の窓から落としました。
届かなくても良いのです。でも、もし届いたのならこの気持ちも届いてほしい。そんな願いを込めて。
手紙はフワリと風に乗り、あっという間に森の奥へと消えていきました。
こんなことしか出来ない無力な自分が、大嫌いになりそうでした。
幸か不幸か、私の書いた手紙は森を通った勇者様の手に渡ったようでした。
それがわかったのは手紙を書いたひと月後。
再び訪れた勇者様が、私を名指しで呼んでいるというのです。
「手紙を出したのか。いつの間に……」
「い、いえ、書いたのは事実ですが、塔の窓から落としただけで……まさか本当に届くとは思ってもみませんでした」
勇者様の言伝を告げに塔までやってきたディアンが、難しい顔で聞いてきました。なんだか悪いことをしたのがバレたような気分です。決して、悪いことをしたわけではないのですが。
「……余計なことをしてしまいましたか? ごめんなさい」
ディアンがあまりにも不機嫌そうだったので、思わず謝罪を口にしてしまいました。私はただ、ディアンに生きてもらいたかっただけなのですが、そんなことは知る由もありませんからね。
ディアンは私の謝罪を聞くと、フンッと鼻を鳴らしました。それからマントを翻して私に背を向けます。
「攫われた姫が助けを求める手紙を書くのは普通のこと。それに俺は……お前の行動を縛る気はない。元より好きにすれば良かったのだ」
「い、いえ、私は……!」
「逃げたければ、いつでも出て行けば良い。お前が帰ろうが残ろうが、勇者が俺を倒す目的はもはや変わらん。お前の役割はすでに終わっているのだから」
ディアンはそれだけを言うと、いつもは鍵まで閉めていくその扉を開け放したまま勢い良く外に出て行ってしまいました。
違う、と。逃げたいから手紙を出したのではない、と。
そう叫びたかった。なのに、誤解をされたことがとても悲しくて、声がすぐには出て来ませんでした。
「……行かなきゃ」
このままではいけない。そう思って立ち上がれるまでに数分を要しました。
扉に向かって歩き出した私を、いつも側にいてくれるメイドのリーザが呼び止めます。
「危険です、リリファ様!」
「そうね、わかっています。でも、誤解されたままもしものことがあったら……私は後悔してもしきれませんから」
心配そうに私を見るリーザに、笑顔でそう告げるとリーザはグッと言葉に詰まってしまいました。
ごめんなさい。とても良くしてくれていたのに、迷惑をかけてしまって。それと、私を心配してくれることがとてもありがたいと思っています。
「どうかリーザは、安全な場所にいてくださいね。もしものことがあったら……ここを守らなければならないのでしょう?」
「っ!」
魔族は、魔王が敗れたら次に復活するその時までこの城や森、村を守ることを使命としていると言っていましたものね。ですから、彼女たちが死んでしまうわけにはいかないということは知っていました。
「どうか、どうかリリファ様も無事でいてください……! どこへ行かれても、リーザはいつでもリリファ様の幸せを祈っています」
「ああ、リーザ。ありがとう。貴女は誰よりも素敵なメイドだわ」
まるで今生の別れのようなやり取りになってしまいましたが、もちろん死ぬ気はありません。それに、この場を去るつもりも。
「せめて、この戦いではまだ負けないでください、ディアン」
口の中で小さく呟き、私は塔を飛び出しました。激しい戦いが繰り広げられているであろう、魔王城へと。