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ターナー兄弟と霧の森の王  作者: 雨笠 篁
起篇《異世界転移編》
20/21

#16 蟲の勢力

「さあ、行くぞ」


 とは、決して冒険の旅へ誘う言葉ではない。

 金髪エルフはただそう言い残すと、とん、と何の躊躇いもなしに木の枝から飛び降りた。

 飛び降りた、というより、それはただ散歩の続きでもするかのように、何の気なしに前に踏み出したような、そんな気軽な一歩。


「おい………行くったって––––––」


 一瞬にして視界から消えた金髪エルフの言葉に、慶次は口角を引くつかせながら、金髪エルフの消えた先に視線を投じる、

 

「––––––ここをかよ」


 言いながら、慶次の頬に冷や汗が伝う。

 それもそうだ、慶次達が今まで飛び回っていたのは地表から三桁メートルはあろうかという巨大な大樹の枝々。

 その上を担がれながら移動していたため、慶次にはそれまで具体的な高さが分からなかったが、自分が立っている枝の下に視線を落として改めて、その現実の高さを痛感する。


 200、いや、300。


 その高さは、ちょっとした東京タワーはあろうかというものであった。

 東京タワーの特別展望台の高さがおよそ250メートル。

 慶次が眼下に俯瞰する景色は、その高さから眺めるものと同程度である。

 つまり、実質東京タワーの特別展望台から紐無しバンジーで飛び降りるという無茶振りに、流石の慶次もたじろぐことを禁じ得なかった。

 が。


「フン、さっさと行かぬか。人間」


 と、そんな風に腰の引ける慶次に、女エルフは一切の情け容赦なく、引けたその腰を文字通り蹴落とした。


「––––––え」


 前置きもなく。心の準備なく中空に放り出された慶次は、そんな呆気に取られた声を漏らして。


「えええええええええええっ!」


 と、手足をばたつかせながら、眺めていた眼下の景色へと落ちていく。

 

◆◇◆◇◆◇


「えええええええええええっ!」


 なんて、急速に遠ざかる情けない声に、アルゲンは「ハァ」と短く溜息を吐く。

 それは別に、あまりにも情けない声を残して落ちていったかの人間の不甲斐なさにではない。寧ろ、それは既に織り込み済みである。

 故に、アルゲンのその気の重さは別の理由があった。

 そう、その溜息の向かう先は––––––

 

「––––––蹴落としたクセに、お前は行かないのかよ」


 慶次を蹴落として、こちらに振り返り殺気を飛ばす、クリスへと向けられる。


「フン、当然だ。なぜ私が好き好んでこのような掃き溜めに足を踏み入れねばならぬ」

 

 吐き捨てるようにそう言って、クリスは背後の街の光景にチラリと一瞥をくれる。

 それに––––––と言いながら、クリスはゆっくりと両手に嵌めた手袋を脱ぎ捨て、露わになったその手を、通せんぼするかのように両横に大きく広げた。


「貴様らがこの街に入らぬように、ここで見張る必要もあるしな」

「ハンっ。言われたって入んねーよ。入ろうにも、俺らは誓約でこの街の中には干渉出来ないしな」


 言いながら、アルゲンはクリスの背後に見える街の光景に目を細める。

 目を細めて、網膜の一点に意識を集めると、それは辛うじて見えた。

 丁度、ヴォルテスと慶次が飛び降りたその木の枝の数歩先。

 そこに立ちはだかる、天まで届く壁の如き光の膜が。


 その膜こそ、アルゲンの言う、かの王と結んだ『誓約』の姿。

 アルゲンとエイギスの二人は、ある事情から目の前の街へ入ることを禁じられている。

 故にその光の膜は、アルゲンとエイギス以外には見えない、触れられない、そこに存在することすら知覚できない。

 しかし一度アルゲン達がその膜に触れれば、その壁はたちまちに物質的硬さを持って二人の侵入を拒絶し、道中振り払ってきた呪詛とは比肩出来ない神罰が降る––––––事になっている。

 とは、あくまで試したことがないため伝聞形になってしまうが。


 にしても、碌でもない事になるのは理解しているため触る気にすらならない。

 事実この十二年間、アルゲン達がこの街に足を踏み入れたことはただの一度もない。


 しかし、そうして肩を竦めて首を振るアルゲンに、クリスは元から釣り上がった眉尻を更に釣り上げて、剣呑な視線をアルゲンの傍のエイギスへと向ける。

 

「さあてどうだか、貴様は置いておいても––––––そこの愚弟であれば、王との誓約があろうとその気になれば入ることも不可能ではないであろうしな」

「キハハ、随分弟を買ってくれてるじゃねーの」

「買っているのではない。その程度出来ずして、仮にも我ら守護神の名を語ることなど出来ぬというだけのこと」


 いや––––––と。

 そこでクリスは己の前言に首を振った。


「やはり、貴様は守護神として半端者だな––––––エイギス」


 ふっと、その瞬間温度が下がる。

 それは仮にも神である二人からして、一瞬で冷や汗が噴き出る程の、濃密な圧。


「姉として、私が一から鍛え直さねばなるまい」


 その圧に––––––殺気に。s

 アルゲンは即座に距離を取り手印を結び、エイギスはアルゲンを庇うように両手に長剣を構えてクリスに対峙する。

 

「チッ親父がいなくなった途端これかよ」


 辟易としたようにエイギスは呟き、長剣を握る手に力を入れる。

 両手に持った長剣に紫色の光が伝い、その長剣を目の前の姉へと構えた––––––瞬間。

 否、その瞬間にはもう、あまりに遅く。

 クリスは既に、アルゲンとエイギスの背後にいた。


「「––––––っ!」」

 

 いつの間に––––––と、思うよりも先に。

 何故切られていない?と疑問が浮かぶ。


 手袋を外した––––––それはつまり、ヴォルテスやクリス、エイギス達『守護神』にとって、刀を抜き放ったことと同義である。

 抜き放たれた刀身は、触れればたちまちに対象を両断する。

 クリスの広げた見るからに柔い小さなその両の掌は、そのまま切れ味鮮やかな刀なのである。それこそが、守護神たる『グラディアノス』氏族が皆生まれ持った時より備えた性質である。

 そのクリスが、アルゲン達の背後を取った。

 抜き放った、刀身を広げて。


 であるのに関わらず、アルゲン達の体にはただの一つも傷はない。

 その事に、怪訝に背後を振り返った二人は、即座にその理由を理解する。


「そう––––––父上がいなくなった途端これだ」


 振り返った先にあった、クリスの背中。

 その背中越しにあったのは、幾千幾万という瞳であった。

 ヴッ、ヴヴッ。

 と、重なり合うように、羽音が聞こえる。

 

「––––––––なるほどね」

「さっきまでの鬱陶しい呪いは、こいつらを隠すための囮か」


 頬に伝う汗を拭う事すら出来ずに呟くアルゲンに、エイギスもまた顔を引き攣らせて、目の前の光景に目を細める。

 

「矢張り今頃気が付いたか、未熟者め」


 クリスは背後のアルゲン達に一瞥をくれながら、気怠げに溜息を吐く。

 その様子は、目の前に数千の巨大な虫(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)がひしめく状況(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)でさえなければ、まるで不出来な弟の宿題に付き合わされる姉の如く、ほんの些細な日常の一シーンにさえ見えた。


 そう、あまりに自然に。

 こんなこと、神である自分にとっては何の事もないという程に、クリスには焦りも動揺も、驚きすらなかった。


 しかしアルゲン達はといえば、それとは対照的に動揺を禁じ得ない。

 目の前に現れたそのあまりの巨大な虫に、そのあまりに膨大な数に。

 それも、


(––––––ついさっきだぞ、神域を出たのはッ)


 アルゲン達が王との謁見の間を出てからこのル地に着くまで、実際のところ十分も経過していなかった。

 それにも関わらず、ここまでの数の眷属を即座に集められていることに、アルゲンは改めて再認識する。

 霧の森最多勢力である蟲の氏族を敵に回したことの、その意味を。


(分かっちゃいたが、これ程までかよ)

 

 圧倒的な、数の暴力。

 それがインセクタル氏族の––––––蟲の持つ最大の強みである。

 そしておそらくは、目の前にいる虫の一匹一匹が、慶次と殺し合いを演じた神リヴェリウスと同等の強さを有している。それが分かるが故に、アルゲンの背筋には玉のような冷や汗が吹き出る。


 しかしこれほどの大群の接近に、自分達は兎も角、何故ヴォルテスは気が付かなかったのか––––––否、とアルゲンは即座に己の思考を否定する。

 先ほどクリスは言っていたではないか。


 ––––––矢張り今頃気が付いたか、未熟者め。


 あれはつまり、クリスは––––––そしてヴォルテスも。

 気が付いていながら、気付かぬフリをしていたということだろう。

 否––––––道中の呪いによる嫌がらせですら、ヴォルテスにとってはわざわざ己が払うに値しないものであったように、目の前のこの虫達ですら、ヴォルテスにとってはさしたる脅威にはならない程度のものに過ぎなかったのだろう。


 つまり気がつかないフリなどですらなく。

 ヴォルテスにとって今アルげんの眼の前にある脅威など、眼中にすら入らない、気を留める必要すらない程度のものでしかなかった、ということだ。


 事実、クリスには何事ですらない。

 今にも彼女に飛びかからんとしている数千の巨虫を前にして尚、彼女はただ、遠巻きに見ていた羽虫の群れが目の前に現れたため、仕方なく叩き潰そうかという風である。

 改めて身に染みる。


(––––––これが、霧の森の守護神)


 神として、あまりに格が違う。

 格も、その在り方も、己とはまるで。

 目の前の女の姿をした抜き身の刃は、自分とは根底から違う生き物であるとアルゲンは思い知り、アルゲンは殊更不敵に口角を釣り上げた。

 それでこそ、


(––––––それでこそ、引きずり降ろし甲斐があるってもんじゃねえか)


 不意にアルゲンの脳裏に、先程の黒髪の少女の顔が思い起こされる。

 真っ赤な唇を邪悪に歪ませて笑ったあの少女の言葉に、アルゲンは遅れながら深い共感を抱く。

 

(––––––同感だ、クソ女)

(俺も見たいんだよ。お前らが心底見下してる存在と同じ場所まで引き摺り下された時の、お前らの表情をな)


 その時、お前らはどんな表情をするだろうか。

 それを思えば、今から笑みが止まらない。

 今も数千の蟲の大群を前に澄まし顔を崩さないクリスですら。

 きっとその時は、その表情を屈辱に崩すことであろう––––––と。

 アルゲンが想像に心弾ませていると、不意にクリスは振り返って言った。


「––––––いや、これも良い機会だ」


 ヴヴヴヴヴヴヴヴッ、と。


 その瞬間、幾千の羽音が霧の森に木霊した。

 人間の身の丈を遥かに超す巨虫が、一斉に飛び立ち、目の前に立ちはだかるクリスの姿を呑まんと、津波の如く押し寄せる。

 背後に迫るその津波を親指で示して、アルゲンとエイギスを睥睨するように言い放つ。


これ(﹅﹅)は鍛錬も兼ねて、貴様らで処理してみよ。愚弟ども」


 そう言い残して、クリスの姿は蟲の津波の中へと掻き消え––––––否。

 彼女の姿は蟲の津波に呑まれる寸前、侮蔑まじりの笑みを残して、アルゲン達の目の前から一瞬にして消え失せた。

 残されたのはただ、眼前に迫った巨蟲の群れ。


「––––––なっ」

「てめっ、クソ姉貴っ!」


 そして一拍の猶予もなく、二人の姿は濁流の如き蟲の大群に呑まれていく。

 その光景を遥かな高みから見下ろし––––––否。

 蟲の大群からは遥か離れた上方の木の枝に、垂直に逆さになって仁王立ちするクリスは、体勢としては見上げる形になりつつ、蟲の大群に呑まれて行ったアルゲン達へ向けて、嫌味ったらしく薄ら笑んで言った。


「王を前にあそこまで大言壮語して見せたのだ。貴様らもせめて、死にはするなよ?」


 言いながらクリスは視線を頭上から、前方に広がる街の光景へと投じる。


 ––––––あの人間よりも先にはな。


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