田中学園よ永遠なれ
第五回ナロラボ杯、提出作品。
テーマは『学校』
春。
それは出会いの季節。眼前に見えるのは新しい学び舎。校舎の時計塔の上には、堂々とはためく紺色の旗が見える。
すべてに心躍らせながら、リョウは多くの生徒たちに交じって学園の敷地へと足を踏み入れた。桜並木が彼を出迎え、風は穏やかに花弁を落として、軽やかに彼の周りを彩ってみせる。
「ここが……田中学園」
感慨深げに、そう声にする。周りを歩いていた者の数人がちらりと彼をみとめ、それがただの独り言だと分かると何事もなかったかのようにまた歩き始めた。
○ ○ ○
掲示板に張り出されたクラス分けの中から自分の名前を苦労して探し出す時も、本当にこの学園に入れたのだなとリョウは感動しきりだった。
まずは入学式らしいと、手に持った案内を眺めながらリョウは体育館へと向かう。故郷から単身、町へ出てきた彼には式を見に来てくれるような人物はいない。両親は最近になって軌道に乗り出した事業が忙しく、またリョウ自身もそんな彼らが誇らしく、自分から入学式くらいで来るものでもないと両親に念押しをした程だ。
体育館にずらりと並ぶ生徒たち。壁際には教師陣が並んでいた。リョウの周りに並んだ生徒たちはひそひそと「よう、久しぶり」「やっぱりお前もこの学園か」などと声を潜めて話をしている。
和服を着た男性がゆっくりと登壇するとそんな声もなくなり、厳かな雰囲気たっぷりに男性は話を始めた。
――田中諸君!!
きいんとマイクが鳴る。しかし、壇上の男性は微動だにせずハウリングが収まるのを待った。そして少しばかり声を抑えて再び口を開いた。
――失礼。少しばかり力が入り過ぎてしまったようだ。改めて、優秀な田中諸君、入学おめでとう。私が、学園長のサコンジロウ。少しばかり古臭い名前だが、気にしないでくれたまえ。
学園長と名乗る人物は体育館に並ぶ教員、生徒たちに向かって、堂々と、そして朗々と話をした。
それは、この田中学園創立までの経緯であり、学園の理念であり、そして理想だった。
それらの一つ一つに、リョウは聞き入っていた。
自分も、この学園の一人となれることが、誇らしかった。
私立田中学園は、時代の流れの中で創られるべくして創られたものである。
出生率の低下、少子高齢化問題に加えて、個人につけられる名前は難読化の一途を辿っていた。そこで施行されたのが、『カナ改正法』であり、これによってすべての国民は苗字を除いてカタカナで名乗る事となった。
そうなれば苗字の重要性は増し、それぞれの苗字が派閥とも言える大きな塊となっていくのは自然な流れであり、有名な苗字はより有用な人材を教育するために教育機関を設立し、少数派である難読苗字は淘汰されつつあるのが近年の国の現状だった。
ここ、田中学園は字の如く全国から優秀な田中姓を集めた、田中の田中による田中のための教育機関である。
リョウは地方の冴えない田中であった。
ある日、学園からの特待生推薦状がリョウの家に届き、それが彼の人生を大きく変えたのだ。書面の詳しい内容はよく分からなかったが、どうやら実家の事業の成功が認められての措置だったらしい。
○ ○ ○
入学式が終わり、教室へと移動する。
クラスでは、すでに何人かがグループを作って話をしていた。全国から集められるといえども、近い地域から揃って入学してくることもあるのだろう。事実、田中や鈴木といったいわゆる多数派の苗字は、どうしても首都圏や大きな都市部に集中するのだから。
リョウは自分が地方の田中であることをそれほど恥じてはいない。両親のおかげで自分はここにいるのだ。両親に胸を張れるような立派な田中となって故郷へ戻り、事業を継ぐのがリョウの夢なのだ。
そのためにも、恥じているような暇があるのであれば、少しでも交友関係を広げるのが未来の偉大なる田中への、小さな一歩なのである。
「なあ、あそこで喋ってる人らって、都会からきたのかな、やっぱり」
一番大声で話をしている、双子であろう二人組を横目に見ながら、後ろの席の田中に対して少し声を抑えるようにして話しかける。彼は少し眉をひそめながら、同じように小声で返した。
「お前、双子のコンタとポンタを知らないのか?」
「……有名人なのか?」
「悪い意味でな。いわゆる七光のボンボンさ。
下手に関わるとロクなことにならない」
「そっか。教えてくれてありがとう。
俺はリョウ。ネオ・キンキから来た。君は?」
「ルイ。ネオ・カントーの出身だ。
……気をつけろよ」
最後の一言だけ、やけに声を低くしてルイは言った。どういうことだと聞き返そうとしたが、タイミング悪く教師が教室に入ってきたので、リョウは前を向かざるを得なかった。
そして入ってきた男性教師を見て思わず顔をしかめる。クラスのあちこちでざわつきが起こった。
教師がクラスを見回せば、一応静かになった。それでも、不信感を表した空気は消えることがない。
無精ひげを遠慮なく伸ばした顔。目の下の濃いクマ。しかしスーツだけは妙に新しく、短く揃えられた髪型は不気味なほど似合っていなかった。
「あー。その、アレだ。担任のだな。
サイエンス・モンタだ。サイモンでいいぞ」
まるで教師に見えない。そう、クラス中が思ったが、状況は確実に彼がクラスの担任であることを示していた。
さらに、田中学園では教師もみな田中姓であり、混乱を避けるために教師陣は自らの担当する科目を合わせて名乗るのが決まりだと、そうパンフレットに書いてあったなとリョウは思い出していた。
「まあなんだ、自己紹介でもしていけ。
ほれ、そっちの端から」
やる気なさそうに顎で指し示し、言うなり彼は教室の隅の椅子に座り込んでしまった。
リョウは怒りを覚えていた。ここは、田中にとって最高の学び舎ではないのか。どこに出ても恥ずべき点のない田中になるための場所ではないのか。
その教育が、あんなだらしのない田中に務まるのか。何がサイモンだ。完全に名前負けしているじゃないか。
それでもグッと堪えてクラスメイトが自己紹介をしていくのを見る。
あろうことかサイモンは目を閉じて深く呼吸を繰り返している。怒りを抑えるのに気を回しすぎたためか、クラスメイト達の紹介が頭に入っていかなかった。
リョウの番だ。
大きく息を吐き、ゆっくりとみんなの前へと歩み出る。サイモンの方は、あえて見なかった。
「ネオ・キンキから来ました。リョウです。
趣味は――」
言いかけた瞬間、クラスの中央から野次が飛んだ。
「おいおい! ネオ・キンキだって。ネオ・キンキだって!
あんな田舎に、ここに通えるような田中がいたかなあ!?」
下卑た笑いを浮かべてそう言い放ったのは、コンタだった。その隣で、ポンタが腹を抱えて笑う。
確かに、首都圏であるネオ・カントーから離れていけば行くほど、田中や鈴木といった大派閥の姓は少なくなっていく。そして、いたとしても何かしらの理由があって都落ちしたような者や、能力が無いとみられている者がほとんどだった。
「かなり無理して入学したのかな?
今時流行らないね、苦学生なんて」
「ついてこれずに退学なんてやめろよな。
田中の名前に傷がつくからさ」
大声で囃したてるコンタとポンタに、リョウは心の底から失望した。これが、こんな奴らが優秀な田中の姿だと言うのか。動物園の猿の方がまだ利口に見える。ぎりぎりと固めた拳はしかし、失望の吐息と共に力なく開かれた。
何も言い返さないリョウを見て、さらに二人の罵倒はエスカレートしてゆく。
「おいおい、意気地なしかよ」
「ネオ・キンキじゃあ泣き寝入りをまず習うのかい?」
クラスメイト達はハラハラとした視線で彼らを交互に見ている。誰も何も言わないのは、それだけ、この馬鹿二人の影響力が高いという事なのだろう。
「暗い! クラいねー。
これだから地方の田中ってのは」
「親の教育がなってないんだね、きっと」
リョウの表情が一気に険しくなる。
――言ってはならないことを!
顔を伏せていたリョウが、キッと目を吊り上げる。お前ら、親を馬鹿にしやがって――と叫ぼうとする直前に、がたんと音を立てて担任であるサイモンが立ち上がっていた。
ポケットに両手を突っ込んだまま、ひどくゆっくりとコンタとポンタに向かって歩いていく。クマの酷い、見るからに不健康そうな顔が無表情で近づいてくるのだ。二人は思わず息を呑んだ。
「な、なんだよ」
「俺らに文句あんのかよ」
二人の目前まで迫り、素早く両手を抜くサイモン。教室はざわめき、ポンタとコンタは思わず目を閉じる。そしてリョウは教壇から見たのだ。サイモンの手にあった赤と緑、二枚のスカーフが淀みのない仕草で馬鹿二人に巻かれる様を。
「お前ら、アレだ。今日からそれつけてろ」
リョウの頭に浮かんだのは、"赤いコンタに緑のポンタ" というフレーズだった。ああ、なんだかしっくりくる。そう考えると、なんだか可笑しくなってつい吹き出してしまった。
それを皮切りに教室内にくすくすと笑いが起こる。どうやらリョウと同じことを考えている者がいるのだろう。
トドメに、とでもいった様子でサイモンが言った。
「こうしてみると、お前ら、本当に狐と狸みたいだな」
巻き起こる笑い。二人がスカーフを外そうとしても、何かで接着されているようで全く取れず、その様がさらに教室内の笑いを誘う。
「くそ! 笑うな! 笑うなってば!」
「俺らは偉いんだぞ!
笑った奴ら、絶対に覚えてるからな!」
サイモンは再び教室の隅に戻り、椅子に座って足を組んだ。コンタとポンタを交互に見て、にへらっと笑う。
「その、何だ。じゃあ赤い狐と緑の狸も代わりに覚えとけ。
コイツ、アレだ。"特待生枠" だから」
サイモンの指は、確かにリョウを指している。それを見て、クラスのざわめきは性質を変えた。
「ほ、ほんとかよ」
「数年に一人しかいない、あの……?」
「卒業後は皆もれなく世界で活躍する田中になっている、あの……!」
「嘘だッ! ネオ・キンキなんかの田舎者が特待生のはずがない!」
「そうとも! そうとも!」
騒然とする教室。
狐と狸が何か叫んでいたが、特待生であることは事実なのだから仕方がない。落ち着いた様子で、リョウは自分が特待生であることを肯定した。そして自己紹介の続きをと口を開く。
「特待生ってのがどれほどのものか分かりませんが……。
その名に恥じないような田中を目指します」
パチパチと拍手が起こる。コンタとポンタが鋭く睨みつけてくる中を、平然と席まで戻った。その後は何事も無く自己紹介が終わり、その日は学園についての簡単な説明をいくつか受けて終わりだった。
○ ○ ○
田中学園には寮がある。遠方から学園にきた生徒が優先的に入寮でき、冷暖房やインターネット環境も整った所だ。
外見も、白を基調としたシンプルなデザインである。
その寮の入り口に、一人の女子生徒。彼女は人を待っていた。顔も知らない一人の男子生徒を待っているのだ。知っているのは、リョウという名前と、特待生であるという情報だけ。
そわそわと服装の乱れを直してみたり、どこを見ていれば良いか分からないといった感じでキョロキョロと辺りを見回してみたり。
やがて、二人の男子生徒が寮に向かってきて、彼女の姿を認めた。胸の前できゅっと手を組み、意を決して彼女は声を発する。
「あのう、一年生の方でしょうか」
「あ、はい、そうです」
「では、リョウさん、という方をご存知でしょうか。
今期の特待生の方だと伺ったのですが」
男子生徒二人が、驚いたように顔を見合わせる。
「コイツです」
「俺です」
半ば同時に答える。ルイにネオ・カントーでの田中事情を聞きながら歩いてきて、いきなり自らを名指しで呼ばれたのである。驚いても仕方のないことだろう。一体何事かと目を丸くしながらも、リョウは相手の女子生徒を見た。
とても、整った容姿である。ルイに「知り合いか?」と聞かれ、即座に否定した。
「わたくし、サユリと申します。
学園の生徒代表として、ご挨拶に参りました」
「お、俺はそんな大層なもんじゃ……」
彼女は、自らを生徒代表であり、学園長の娘だと言った。そして、特待生が今年はいるのだと父に聞いたのだと。
「とても珍しいことのようで、なんだか興味が湧きましたので。
父から言わせれば、かなり有望な人材であると」
「そりゃあ、買いかぶりすぎでしょう。
去年まで、ネオ・キンキの一介の田中だったのですよ」
それを聞いて、彼女は笑った。鈴の音のようなころころとした笑い声は、リョウが今まで聞いたこともないような可憐なものだった。
「何だか、俺は邪魔みたいだな。
それじゃあな、リョウ」
「おい、何言ってんだよ」
ルイはそそくさとその場を去った。一人残されて何だかバツが悪くなったような感じがして、何を言えばいいのかとリョウは頭を掻く。
挨拶だと言われても、何の心構えもない上に、初めて見るレベルで見目麗しい女性である。このような時に何をどう話せばよいものか、何も分からなかった。
「ここ、田中学園には実に600人を越える田中がおります。
その中で、現在在籍している特待生は、あなただけなのです」
「あの、特待生の条件って何ですか?
俺、特に成績が良いわけでもないですよ」
「私も詳しくは存じません。
父は、そういった部分はあまり話してくれなくて」
申し訳なさそうに目を伏せる彼女を見て、リョウは自分が悪いことをしたような気になった。ああ、誰かこの空気をなんとかして欲しい。ルイが戻ってこないものかと、祈るように天を仰ぐ。
すると向こうの方から、どたどたと賑やかにやってくる人影があった。その姿を見てかなり複雑な気分になったが、この空気を何とかしてくれるなら、この際目をつぶろうと、実際にリョウは目をきつく閉じた。
「やいやいやい、さっきはよくも恥をかかせてくれたな!」
「そうだぞ! ネオ・カントーで一番偉い田中に向かって!」
赤いコンタと緑のポンタである。彼らはまだ、スカーフをつけたままだった。
「だいたい、このスカーフなんだよ!
全然取れないんだぞ!」
「しかも切ろうとしても切れないんだ!
どうしてくれる!」
わめきたてる二人を見て驚いた表情を浮かべる女子生徒。にこやかな笑みを崩さずに賑やかなその様子を見て、
「あらあら、リョウさんのお知り合いでしょうか。
そのスカーフ、とても良くお似合いですよ」
と穏やかに言った。
「え!? そ、そう、かな」
「や、やっぱり分かる人には良さが分かるんだよね」
その言葉を真に受けた二人はデレついた感じで去っていった。何をしに来たんだあの二人はと心の中で悪態をつくリョウだったが、一応、場の雰囲気が変わった点だけは礼を言わなければいけないなと律儀にそう考えた。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたします」
深々と頭を下げる彼女。その礼も、とても様になっていた。流石は学園長の娘なだけあると、リョウもつられて頭を下げた。
「特待生だということで、やっかみを受ける事もあるでしょう。
何かお困りになれば、生徒会室までお越しくださいね」
「あ、ありがとうございます」
「いえ、これもわたくしの務めですから。
あなたの田中としての活躍に期待しております」
「……期待にそえるよう、頑張ります」
満足そうに頷いて、彼女は歩き去った。一度もこちらを振り返ることなく、ただ堂々と去っていくその後ろ姿は、どこか威厳に満ちていた。
○ ○ ○
そして田中学園での生活は始まったのだが、田中のための教育機関という名は伊達ではなく、授業の質の高さはもちろんのこと、卒業後の田中としての処世術や社会に影響力の高い田中とのコネクションの有用性などが盛り込まれた教育内容に、リョウはしきりに感心していた。
意外だったのは、サイモンの授業が最も分かりやすかった事だ。
彼は入学式の翌日から研究着を着用していた。目の下のクマは相変わらず濃く、研究着はよれよれである。どうやら、入学式の日はかなりめかしこんでいたらしい。
その日の昼休み、リョウはいつものようにルイを誘って学生食堂に行こうとしていた。
席が近い事もあり、彼らはよく行動を共にしている。
「悪いな、リョウ。ちょっとサイモンの所に行かないと」
「なんだ、質問か? さっきの授業の内容なら教えようか?」
「ありがたいが、別件でな」
「そうか」
それじゃあ、と手を上げてリョウは友人を見送った。どこか悩んでいるような顔をしていた気もするが、あまりやたらとこちらから踏み込むものでもないだろう。
一人で食べるかと席を立ち、食堂に向かう。
決して他に友人がいない訳ではない。そう、リョウは信じたい。
どうも、自分が特待生だということが知られて以来、クラスメイト達は遠慮がちに距離を測ってこちらと接しているように感じる。
今日は、エビフライにしよう。そう決めて注文をし、受け取ったトレイを持って席に着く。
その数秒後、リョウの前の席にがちゃんと乱暴にトレイが置かれる。
「おいおいおーい。一人? なあ一人?
さみしいヤツだなあ、お前」
「仕方がないから俺らが一緒に食べてやるよ」
「うるさい、帰れ」
視界にちらつく赤と緑のスカーフ。コンタとポンタは事あるごとにリョウに突っかかってくる。
「やだねー、田舎者は。エビフライなんか頼んじゃって」
「お前らこそ、うどんだろう。
お偉い田中はそんなものしか食えないのか」
リョウがエビフライを食べながら応酬する。いつもなら、ここでさらに一つや二つ、嫌味が返ってくるのだが、彼らは何も言わない。不思議に思って顔をあげてみれば、彼らはにやついた表情でゆっくりと割り箸を割った。
「これがただのうどんだと思うなよ」
「そうとも、よく見ろよ。
カレーうどんだぜ」
「……それがどうした?」
「そして、俺らは今から遠慮なくこれを食べる!」
「リョウ、お前の目の前でな!」
「なっ……! この馬鹿ども! やめろ!
ダシが跳ねるだろうが!」
もちろん、自分たちにも被害は出るのだろうが、それよりもリョウに対して嫌がらせをすることへの優先度が高いようだった。
素早く、食べ終わったエビフライの尻尾を箸先で掴み、コンタ目がけて投げつける。
「あいたあっ! 何だよお前!
エビフライの尻尾を飛ばしたな!」
「食べ物を粗末にするなんて田舎者のすることじゃないぞ!」
「尻尾は食べない派なんだよ」
「なんてヤツだ! 許せない!
断固、カレーうどんの汁を飛ばしてやるからな!」
そこへ、凛とした声が降り落ちる。
「みなさん、ごきげんよう。わたくしもご一緒してもよろしいですか?」
「ああ、先輩。どうぞ」
「サユリ様!」
「お前、サユリ様にもっと敬意を払えよ!
サユリ様は、サコンジロウ学園長の娘なんだぞ!」
学園長の娘である彼女は、あれからもこうして何度となく気さくに話しかけてくれている。彼女が最高学年であるという事と、権力者の娘であるということもあってか、コンタとポンタは彼女に対してはかなり、いや考え得る限り最大限にへつらっている。
「いいのですよ、コンタさん。ポンタさん。
わたくしも、賑やかにお食事がしたいと思っただけですから」
「だ、そうだ。それで、二人とも。
断固、何をどうするんだって?」
ぐぬぬと悔しそうな顔をしながら、ポンタとコンタは身を乗り出すようにしてカレーうどんを啜りはじめた。「ああ、スカーフが汁についた!」と泣きそうな声をあげるポンタを見て、リョウと彼女は笑った。
○ ○ ○
憎らしいが、どこか憎めない。それが、リョウから見たコンタとポンタの印象だった。家が影響力の強い田中であるという事は知っていたので、それもあって多少のワガママは許されてきたのだろう。
それが、どうやら洒落にならないものへと変わってきていると気づいたのは入学から数ヶ月経った頃だった。
最初のような、地味な嫌がらせではない。
物が紛失したり、制服にペンキが塗られたりとやり方もかなり陰湿である。決定的な証拠はないが、他の誰かに恨まれているといったことも考えにくい。「俺らは何もしていないよなあ」と厭らしい笑みを浮かべながら、コンタとポンタは笑いあうのだ。
相変わらずクラスメイト達は何も口を出さず、ルイでさえも「あいつら、家の力を利用してきやがる。助けになれず、すまん」と悔しそうに言うのだった。
しかし、物質的な損害であれば、手間ではあるが害はかからないのだ。代わりの物がちゃんと支給されるのだから。
――あいつら、そこまで馬鹿ではないと思うのだが……。
コンタとポンタのやっていることは、結局、学園の備品を壊しているということになるのだ。いくらネオ・カントー有数の田中であると言えども、学園側の印象が悪くなるのは目に見えているはずなのに。
そして幾度目かの嫌がらせの時に、それは起きた。
朝、教室に入った時に、リョウの机が無かったのだ。それだけならば、生徒会室に行って申請をすればいい。事実、何度かそうやって足を運んでいるのだから。
しかしこの日は、それを見ていたルイの堪忍袋の緒が切れたのである。
「お前ら、いい加減にしろよ!」
力任せに机を叩き、勢いをつけて立ち上がる。
「どうしてそんなに卑怯なんだ!
だいたい、リョウはお前らに何もしていないだろうが!」
「おいおいおい。なんだよ。
リョウの机が無くなったって、お前には関係ないだろう」
「それに、俺らにたて突くと、お前の家がどうにかなっちゃうよ」
拳を固めるルイ。
「親の力を利用しきりで、恥ずかしくないのかっ!」
それを聞いて、やれやれといった風にコンタとポンタは首を横に振った。彼らにとってそれは聞き飽きたセリフであり、幾度となく答えを返してきた問いでもあった。二人は交互に言う。
「馬鹿だなあ。あるものをちゃんと利用するのが賢さだろ。
ガスコンロを持ってるのに使わないヤツがいたらどう思う?」
「そいつはただの馬鹿さ。大馬鹿さ。
そして、ガスコンロを持ってないヤツほど言う。
"僕らは持ってないからお前も使うな" ってね」
ルイを指さして、コンタが語調を強めて言った。
「そんな甘い考えで田中をやっていけると思うなよ!
田中なんだぞ! 俺らは! 田中は偉いんだ!
偉くなきゃ、田中じゃないんだよ!」
「お前ら……減らず口を……ッ!」
怒りに震えるルイを手で制して、リョウは二人の前へと歩いていく。
「お、どうした。ついにやる気になったか?」
「それともやめてくれって泣きつくかい」
せせら笑う二人に対して、リョウは静かに言った。
「すまない。誤解していた」
「な、なんだよお前、いきなり」
リョウは真剣に二人を見た。
二人の田中に対する考え方は一理ある。生き馬の目を抜くような苗字派閥の奪い合いの中で、少しでも気を抜けば鈴木や伊藤に取りこまれてしまうのが今の世の中なのだから。
「親の七光りであろうが、使える物は徹底して使う。
その姿勢は尊敬する。しかし一つだけ言わせてくれ」
「な、なんだよ……」
「コンタ、ポンタ。お前たち自身はまだ何者でもないだろう。
俺だってそうだ。親のおかげでこの学園に入れたのだから」
「何言ってんだよ、俺らは田中だぞ」
「それは認めよう。
だが、まだ偉大な田中ではなく、一介の田中だ」
そう言うと、リョウは手を差し出した。
「仲間だろう。俺たちは。田中同士でいがみ合う。
こんな馬鹿な話があるか。そうだろう」
ポンタが、ちらりとコンタを見る。コンタは少しばかり驚いた表情をした後に、口を硬く結んで何かを堪えるように頬を赤くしている。
誰からも、認められたことなど無かった。
ただ遠巻きに、嫌なヤツだと言われ続けてきた。そんなやつらを黙らせるだけの力が、コンタの家にはあった。だから、それでよかった。
なのに、コイツは。リョウは、そんな部分も含めて、仲間だと言ってくれる。
目の奥が熱くなり、たまらずコンタは教室を飛び出そうとした。
しかし、リョウがその腕を掴む。
「離せよ! ネオ・キンキ如きの田舎者のクセに!」
「最後に一つだけ聞かせろ。
……最近の嫌がらせ。誰の差し金だ」
嫌がらせの質が変わった事、コンタ、ポンタにとっても利益のある行為ではないこと。そして、やはり二人は田中という名にプライドを持っている事。
ならば、こんな事をするはずがないのだ。自らの地位を貶めるだけの行為は、しないに決まっている。
「離せって言ってるだろう!」
大声で叫び、腕を振りほどく。そして小さく、リョウにだけ聞こえるような声で「サユリ様だ」とコンタは言った。ぶっきらぼうにスカーフの歪みを整えて、彼は教室を去った。ポンタも、それを追うようにして、何度かこちらを振り返りながらコンタの後をついていく。
――どうして、あの人が?
困惑に囚われたリョウはしかし、確かめる必要があると生徒会室に向かう。
○ ○ ○
生徒会室の扉は重厚で、何度見ても慣れない。
そしていつ来ても、部屋の中には彼女がいるのだ。
軽くノックをして、やはり返ってきた声を受けて、リョウは中へ入る。
「あら、リョウさん、ごきげんよう。
今日はいかがなさいましたの?」
「……聞きたいことが、あるのです」
ここは、田中学園。社会にとって有用な田中になるための教育機関。そのはずなのだ。
ならば、なぜ彼女はコンタとポンタをけしかけた。なぜ、田中の格を落とさせるようなことをした。
「あなたは、何を考えているのですか」
「わたくしの考えですか。それを聞いてどうなさるの?」
「分かりませんが、聞かなければいけない気がするのです」
正直、分からない。ただ、何か恐ろしいものが目の前に立っているような、そんな感覚にリョウは襲われた。柔和なはずの彼女の微笑みは、獲物を仕留める前の捕食者のそれに見えた。
「ふふ、ではこちらからご提案いたします。
わたくしと、夫婦になっていただけませんか」
言葉を失う。なんだ、いったい何を言っているのだ。どうして、今そんな話になる。リョウは酷く喉の渇きを覚えた。得体の知れないものを相手にしている、恐怖。
「特待生枠の事、教えて差し上げます。
あれは、わたくしの婿になる者を選ぶものです」
「婿……だって?」
「将来有望な田中を、いち早く認めて、引き入れる。
それが、わたくしたち未来のためなのです。
あなたのご両親の新事業。あれは、近いうちに必ず大きくなります」
つまり、青田買いのようなものだというのか。
「そ、それは光栄ですが……」
コンタとポンタをけしかけた理由の糸口がまるで見えない。
彼女はすらりと席から立ち上がり、ゆっくりとリョウに近づいてくる。その笑みは妖艶。動けないリョウの首に、ゆっくりと手が回され、しなだれかかるように彼女は息を吹きかける。
「田中の繁栄のためですもの。ねえ、構わないでしょう?」
思考が、しびれていくようだった。何も考えられない。ただ二言、三言、声にならない言葉を漏らす。
確かに、俺がこの学園と関わりを持てば両親も喜ぶかも知れない、とそう思った瞬間――
「はい、そこまでにしとけよ。
その、アレだ、そういうの、良くないから」
開け放たれた扉の音に、ハッと我に返る。振り返れば、そこには不健康そうな顔をした研究着の男。目の下のクマはいつも通り酷い。そしてその傍らには、友人であるルイの姿。
「サイ……モン? それに、ルイも……」
「遅くなったな、リョウ」
「何の御用かしら」
その声は不機嫌を隠そうともしないほど鋭いものだった。射られるように鋭いその声をものともせず、サイモンは頭をがしがしと掻いた。
「アレだ、やっと尻尾を掴めたんだから、そう邪険にしなさんな」
そう言って研究着のポケットに手を突っ込んだまま歩いてくるサイモン。近くまで来たところで、いつかスカーフを取り出した時のように腕を抜いた。
そこに握られていたのは、一枚の書類だった。そして、それを見た彼女の表情が強張る。
「よくもまあここまで上手くやったもんだよ。
なあ、ユリさん」
「わ、わたくしはサユリです!」
リョウから離れて、数歩後ずさる。サイモンは変わらずにへらっと笑ったまま、言葉を続けた。
「いや、違う。アレだ、君は、田中じゃない。
そうだろう。棚笠 ユリ」
手に持った書類をひらひらとさせながらサイモンは言う。おそらく、あれが証拠なのだろうと、傍観者の側に回ったリョウは考えていた。
その後、学園は物々しい様子で多くの人が行き交っていた。
田中学園は、田中のための学び舎ではなかったのだ。
学園長である、棚笠コンジロウと、その娘である棚笠ユリは、全国に秘密裏に存在している反田中結社のメンバーであり、優秀な田中を無理やり婿入れさせては、その業績を田中から奪う非人道的な行いをしている人物であった。
棚笠コンジロウと棚笠ユリは、苗字の偽装、および故意による田中姓の阻害を理由に逮捕されたのだった。
リョウが目を付けられた理由は、ユリが言ったように、成長の見込みのある事業であったこと、そしてネオ・カントーから離れた、小さな田中であったことだと、サイモンが後日リョウに教えてくれた。
サイモンとルイは田中特別警察、略称、田中特警の潜入捜査官だったのだと、これも後日になって知らされた情報だ。
連日、多くのメディアでこのことが報じられ、田中学園の名を知らぬものは全国にいないのではないかと思えるほど、時の話題を作ったのだった。
○ ○ ○
それから数ヶ月。
学園長の逮捕により、存続の危機にあった田中学園。
しかし学園がなくなることは無かった。
現在、校舎の時計塔の上には、赤い旗と緑の旗が、金の縁取りを施されて揺れている。
それを眺めながら、リョウはぽつりと「悪趣味だな」と呟いた。
「おいおいおーい。聞き捨てならないなそれは!」
「この学園を救ったのは誰だと思っているんだい」
ネオ・カントー有数の田中の中でも、最も影響力の強い田中。その二人が肩で風を切りながら歩いてくる。その首には、赤と緑のスカーフ。
「ん? ん? 言ってみろよ、ほら。
学園再興に力を尽くしたのは誰の親だったかな?」
「新しい学園長の息子は、どこの田中だったかな? ん?」
「分かった分かった。
コンタ、ポンタ。お前らは偉い」
その言葉に、二人は満足そうに頷く。
「分かればいいんだよ、分かれば。
お前にも、頑張ってもらうからな」
「そうだぞ、新代表」
「俺じゃなくてもよかっただろう」
在籍していた唯一の特待生だということで、新たな生徒代表に選ばれたリョウは、複雑な気持ちだった。そもそも、特待生制度が、婿探しのためのものだったのだ。今となっては何の意味も持たないのに。
現状、この肩書は何の役にも立っていない。
「ほら、代表、荷物持てよ」
「遠慮するなよ、持たせてやるよ」
「はは、馬鹿かお前ら」
爽やかな風が吹く中、リョウは足早に校舎に向かう。
今は、何の役に立たない田中でもいい。きっとこれから多くの事を学び、価値ある田中になれれば、それでいいのだから。
そのための、田中学園なのだから。