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さて、一ヶ月もすれば、気温もぐっと下がって冬らしくなるものだ。
前は居間に置きっぱなしだったコートと別の上着と、マフラーとなど様々着込んで出て行く僕を、少女は不安そうな顔をして見送った。
まあ、もうすぐ雪が降ってくる可能性を考えれば、それも当然の反応だろう。しかし、彼女にはどうしても行かなければならないのだと、戦争のことは教えても分かるかどうかが不明瞭だった為に告げず、なんとか説得した。
正直、彼が持ってくるだろう情報によっては、吹雪の中歩く価値はある。
念のため、雪が降って僕の帰りが遅くなっても大丈夫なように、薪を全て運び込み、その他諸々の準備は整えて出てきた。
冬の間どうすればいいのかを少女はきちんと理解しているはずだから、それについては問題は無いだろう。
がたがたと震えながら冬空の下で彼を待ち、開口一番「それで」と問うた。僕の質問に彼は一瞬だけ眉を顰めたようだったが、すぐに、ああ、と返答してきた。
「予想通り、動いた。この冬が勝負だ」
「じゃあ」
「こっちも大分落ち込んできていたからな。向こうに援助が来て、この冬の寒さだろ。全部向こうに傾くだろ」
軽く肩をすくめながらそう説明する彼は、全く関係ない人間のようにも見えるが、当事者の一人である。
そう平然と自国が負けることを話す様子は奇異であったが、僕にとっては、喜びの方が大きかった。
「もう、終わるんだな」
呟くように言えば、彼はそうだな、と軽く同意した。
そして、だからな、と続けながら苦笑するような笑みを浮かべて僕のことを見返してくる。
「俺、殺されるかもしれねぇから」
「……ああ」
僕達が戦争の相手としていた奴らは、少なくとも僕らが聞いた限りでは、惨忍で容赦などしないと聞いていた。
事実だ、とはいえないが嘘だともいえない。
向こうが勝者となれば、敗者に全ての罪を被せるのが当然。
長い間そちらの世界から離れていたから失念していたが、今その世界に住んでいる彼は、この戦いが終われば犯罪者として裁かれる可能性は十分にあるのだ。
「そう、だな」
戸惑いながらも言葉を返せば、「あほぅ」とニヤリと笑われた。
「喜んでおけよ。戦争が終わるんだ。お前も、逃げ隠れしなくてすむ。俺だって、死ぬつもりはないからな」
そう言われれば、そうだな、と笑い返すしかなかった。
僕は彼と同じように笑ってやって、昔やったようにパシンと手を打ち合わせた。
昔、そう、今度こそ死地に赴く結果になるのではないかと、そう思った時にはこうやって手を打ち合わせたのだ。
仲間内でやっていた、言葉にできなかった、さよならの挨拶だった。
「達者でな」
「ああ、お前もな」
言葉を交し合って、背を向けて歩き出す。
彼が去っていく気配を感じながら、僕は吐息を吐いた。
どうしようもないほどの虚無感が、あった。
僕は、彼らに対してひどいことをしたのかもしれない。
自分の少女に対する罪悪感の為に、彼らを置き去りにして逃げてきたのだ。
これは、ただの結果論でしかないかもしれない。それでも僕が、誰に対しても裏切り者であることに、代わりは無かった。
表通りにでると、冬の冷たい風が通り過ぎていった。思わず首を縮めて、マフラーに顔をうずめる。早く帰ろう、と思った。いつ雪が降り出すともしれないこの状況で、長く町に滞在するわけにはいかないだろう。
少女をひとり、あの山小屋に残していることが、この時ばかりは、何故か気になって仕方が無かった。
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ずっとやっていた裁縫にも疲れて、少女は大きく伸びをした。
”彼”が一緒に居るからといって会話をするわけでもなし、結局は其々の時間を過ごしているのだけれども、一人だと「ヒマだ」と思う。
裁縫に疲れて顔を上げれば真面目な表情で新聞や本を読んでいる”彼”が居て、気付いてくれないかなと思いながら見ていれば、”彼”は少女をみて笑ってくれた。
どうしたの、と声を掛けてくれることもある。
それだけでも十分気分転換になるし、なんでもないと首を振るか、裁縫に飽きたら”彼”の傍に行く。そうすると”彼”は、文字の読めない少女に代わってその本の内容を教えてくれるのだ。
会話はない。それでも、全く違うのだ。
”彼”が読んでくれた話の中で、印象に残っているものがある。
竪琴弾きが亡き妻を取り戻す為に冥界へと下る、というものだ。幾つかの試練を乗り越えた夫は、妻をつれて地上に戻ることを許される。
「地上に出るまでは、決して妻の方を振り返ってはならぬ」
そういわれた夫だったが、地上の光が明るくなり喜びに胸打ち震えた夫は、つい妻の方を振り返ってしまう。姿を見られた妻は、悲しそうな顔をして、霞となって消え去っていった。
何故振り返ってしまったのだろう。
そして、何故振り返ってはいけなかったのだろう。
自分は、自分なら……。
思いながら、ふと、いつも”彼”が座っている椅子を見る。
そう、今”彼”はいないのだ、と思い直した。
「俺の部屋には、入っちゃダメだからな?」
いつもの優しい雰囲気を忘れそうになるぐらいに厳しい顔でそう言った”彼”は、何かを隠しているのだろうか。
わざわざ居間の奥、倉庫の更に奥にある狭い部屋を自分の部屋として、少女には決して入れさせなかった。
でも、今なら入れる。
急に、暇で淋しくて仕方が無かった気持ちが浮上した。
探険というには少し違うけれど、でも、ソレに近い気分で、うきうきと立ち上がる。
”彼”はまだ帰ってくるわけがないのだけれど、一応扉の方を確認して、居間の奥へと向かう。暗い倉庫を通り過ぎて、狭い隙間から”彼”の部屋へ。
ぎぃっと、扉が開いた。
光がほとんど入ってこない為薄暗い”彼”の部屋の中に足を踏み入れて、目を瞬かせる。何度かそうやって、ようやく暗さに慣れた目で周囲を見渡した。
壁に幾つかの服……そのうちの一つは最初に”彼”を見た時と同じ服だったから、軍服、という奴だろう。
あそこを出てからは”彼”は絶対にそれを着ないのに、何故壁にかけてあるのか。首を傾げながら部屋の中にあるベッドに乗る。
特に、何かあるわけでも無い。普通の……ギシギシと音が鳴るベッドが普通なのかどうか疑問は残るが、少なくとも今の少女の基準からすれば普通のベッドだ。
しばらくそこでパタパタと脚を動かして、ふと、近接する古い机が気になった。ココに住むことに決めた時、”彼”が居心地良く住めるようにと、作ったり拾って来たりしたものの一つだろう。立ち上がりその机の前に立って、表面を撫でる。
椅子を引いて、勝手にそこに座った。
どうしようかな、と辺りを見回してから、引き出しの一つに手をかける。重かったそれの中には、本が何冊か入っていて、その次に開けたものの中には、鈍く光り輝く小さな筒状の何かが入っていて首を傾げた。
そして、一番上の引き出しを開ける。
「……」
黒い、ケンジュウが、一丁。
やめて、と誰かが叫んでいた。
お願いします、と懇願している誰かが。
タスケテクダサイ、と悲鳴を上げる人が、居て。
わたしは、クローゼットの中から、出ることもできず、逃げることも目をそらすこともできず、彼らを見ていた。
おもいださないで、と誰かが言ってる。
振り返ってはいけないと見てはいけないと言ったのは、誰だったか。
わたしは、
「――あ……はは、」
久しぶりに聞いた自分の声は、低く擦れた、笑い声だった。
「ははは、あは……はは」
どうして忘れていたのか。何で疑問に思わなかった?
わたしが”彼”に見覚えがあったのは、覚えていたからだ。
両親を、兄弟を殺した”彼”が憎くて憎くてたまらなかったから、だから覚えていたのだ。
他の何を忘れても、”彼”の顔だけは覚えていようとしたから。
だから、
わたしを殺した、ぱんという長い銃声が耳元で甦る。
母親が倒れ、赤い血が広がった様子が思い出される。
それで、わたしは――。
黒くて重い一丁の拳銃を手に取り、目を瞑る。
無表情に死んだ家族を見回した”彼”のことを思い出して、唇を噛んだ。
今更、本当に今更になって、涙が流れてきた。
拳銃を抱えて蹲り、声を押し殺して泣いた。泣き続けた。
ねえ、みんな。
わたしは、どうすればいいの?