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一人で住むには、この山小屋は広すぎるのだ。
と少女は思った。
一人で食事をするには視界に入る影が多すぎるし、空間も広い。寒いのだ。そういった何も無い空間とか、黒い影とか、沈黙の時間が、寒い。
居間に置いてあった”彼”のコートを手に取り、着込む。
少女は、口には出さなくてもあの男性のことを”彼”としか呼んでいなかった。彼女にとって、他に人はいなかったのだから、それは当然のことかもしれない。
家族のことはもとより自分の名前すら覚えていない少女のことを、”彼”がどう思っているのか、そのことが無性に気になる時がある。
特に、一人で居る時。
冷たい空気が滑り込んできて、闇からそっと支配してくる時。
自分という存在が消え入りそうになる時などは、気になって仕方が無い。
何の記憶も無い少女を生かしてくれたのも、今ここに存在しているのも、”彼”がいるからなのだ。
気が付いた時、少女の傍に居たのは”彼”と、名前も知らないもう一人の男性だった。彼らはどこか驚いた表情で自分の事を見ていて、知り合いなのだろうか、と訝った。
しかし、彼らのうち一人の男性には見覚えがなく、怖かった。
自分がいる状況も自分自身も理解できなくて、そのことに恐怖を覚えた。
彼らは、自分がしゃべれなくなっていることにすぐに気が付いた。どこかの硬いベッドに寝かされていた少女が、目覚めてから何もしゃべらなければ当然、疑問にも思うだろう。
医者らしい人を男の人が慌てて連れてきて、少女を見せたが、声が出ない原因は分からなかった。
「口、開けてみて。あーって言ってごらん」
言われて、少女は戸惑いながらも言われたとおりに口をあけて、声を出そうとした。
医者に促されて、こうやってみてと言われた通りに真似してみても、繰り返し繰り返し試してみても、声は出なかった。泣きそうに為るまで繰り返してみても、ダメだった。ぐっと手を握り締めて、泣くのだけは耐えた。
”彼”が少し眉をひそめて、伺うようにこちらを見たことは、何故か鮮明に記憶に残っている。
「精神的なものだろうな」
いくつかの質問をして少女の記憶がなくなっていることを確かめた医者は、そう結論づけた。そして、何かを相談する為なのだろう、二人に目配せをして外へ出るように促した。背を向けて暗いテントから出る医者について、男が出て行くのを見送る。
その後について”彼”も出て行こうとして、ふと、少女の方を振り返った。
「それ、止めた方がいい」
言いながら、とんとんと軽く自分の唇を叩く。
ソレを見て、少女はようやく自分が強く唇をかみ締めていることに気が付いた。慌てて唇を緩めて、血の滲んだその部分をちろりと嘗める。様子を伺うようにじっとこちらを見ていた”彼”に慌てて笑って見せれば、”彼”は目を細めるようにして笑って、外へ出て行った。
”彼”のコートを着込んだまま、ころんと横になる。
最初に見た、あの目を細めるだけの笑顔も、いつも少女を安心させようとして浮かべる笑顔も、スキだった。何か懐かしいものを見たようで、すごく落ち着く。
それと同時に、何かを警告するようにズキリと胸が痛くなった。
それが、不思議だった。
火照った頬を冷やすように床に押し付けて、小さく息を付く。
”彼”に付いて行こうと思った理由は、単純だ。”彼”のことは怖くなかった。
最初見た時に、そんなことはありえないと分かっているのだが、見覚えがあるように思ったからだ。もしかしたら、知り合いに”彼”と似た人が居たのかもしれない。
そう思い、”彼”には迷惑かもしれないと思いながらも、医者と共に戻って来た”彼”の手をずっと放さないでいた。
もしかしたら、最初はどこかに捨てていこうという話をしていたのかもしれないし、もっと違う話をしていたのかもしれない。
どちらにしろ、少女は”彼”から離れるつもりはなかったし、離れてはいけないとも思ったのだ。
「やけに好かれたな」
「……参ったな」
にやにやと笑う男に困ったように”彼”が返答するので、離れた方がいいのかと不安に思い見上げると、”彼”に苦笑された。どうすればいいのか分からずに首を捻る少女の背を軽く叩いて、それで、と”彼”は声を上げた。
難しい顔をして腕を組んでいる医者と、対照的にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべたままの男を順に見回し、どうする、と言葉を続ける。
「こりゃ、お前の役目だな」
「拾ってきたのも、お前だろう」
男と医者に順々に言われて、”彼”はやっぱりそうなるのか、と小さな声で呟いた。そして、疲れたように続いたため息に、ピクリと震える。
それに気付いたのか、”彼”はしばし沈黙した後に少女の方を向きしゃがみ込んで、少女と視線を合わせた。
そして、真面目な声で「いきたいか?」と聞いてきたのだ。
「生きたいなら、生かしてあげるよ。俺たちが協力するから」
彼らが何故私にそう聞いたのか、わからない。
ただ、死にたくは無かった。
自分が誰かも分からず、何故こんな状況になったのかも分からず、生きていた記憶もなにも持たずに死ぬのは、嫌だった。
だから、大きく頷いたのだ。”彼”の腕にしがみ付くようにして、何度も何度も頷いて見せた。
”彼”が、辛そうに目を細めて「そうか」と答えた。
その視線が、不思議だった。
ふあ、と欠伸を洩らす。
小さな暖炉の前で”彼”のコートに包まり、丸まって横になった状態のまま、少女はそっと目を閉じた。
目が覚めたら、”彼”が帰ってきて居ればいい。
そんなことを思いながら、そっと息を吐きコートの中に潜り込む。
一人は、どうしても淋しかった。
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「……ええっと」
荷物を床に置き、しゃがみ込んで眠り込む少女を覗き込む。
僕のコートを着込んで、幸せそうにすやすやと眠り込んでいる少女を起こす気にはとてもではないがなれなくて、どうしようか、と息を吐いた。
このコートだけでは寒いだろうし、ベッドまで運んであげた方がいいか。そう思い、僅かな躊躇の後に少女を抱き上げた。
少女は、すごく軽い。
僕が最初に彼女を見つけた時も軽いと思ったけれど、それが小柄だからなのか痩せすぎなのかは、イマイチ分からなかった。もっと何か食べさせた方が良いのだろうか。
僕のコートはそのまま、少女をベッドに寝かせて蒲団をかける。気付く様子もなく眠り続ける少女に笑みを浮かべ、部屋から出ようとそっと立ち上がろうとしたところで、ふと、少女が軽く僕の服を掴んでいることに気が付いた。
一緒に居て、と口だけでしゃべっていた少女の様子を思い出す。何も分からないあの状況の中で、彼女が何故僕を頼ろうと思ったのか、それは分からない。けれど、僕だけを頼ってきた以上、見捨ててはならないと思ったのだ。
だけど。
「……ごめん」
聞いてはいないと分かっていながらも小さな声で謝って、少女の手を外す。
僅かに顰められた少女の眉に気付かないフリをして、蒲団の中にその手を収めさせた。
「ごめんな」
僕には、そんな資格はない。
あの時、気を失っていた少女を見つけて、誰にも見つからないように僕らのテントに連れてきたのは、紛れも無い僕自身だ。
それが命令違反であり、許されない行為だとは知っていた。
それでも、見捨てておくことはできなかった。
彼は、僕のことを馬鹿だと罵った。
「捨てて来い。ばれないうちに、殺して来い。俺まで巻き込まれるのはゴメンだからな」
彼がそうやって声を荒げるのは、珍しいことだった。
しかし、その気持ちもわからなく無い。
だから僕は声を荒げることはせずに、放っておくことはできない、と反論した。
それに対し、彼が何を言おうとしたのかは、知らない。僕らの騒ぎが五月蝿かったのか、少女が目を開いたからだ。
起き上がり不思議そうに僕らを見る少女を前にして、さすがにもうこれ以上騒ぐことは、彼にもできなかったらしい。軍医を含め三人で話し合い、僕が全責任を負うという条件の下で、二人の協力を得ることにした。
彼らも、一度助かり目を覚ました少女を目の前に、見殺しにしろ、とは言えないようだった。
「協力はする。だが、危険だと判断したら、それ以上は協力しないからな」
言われて、分かってる、と答えた。
彼らの協力もなく、少女を連れて脱兵することはできない、と思っていた。だから、そういってもらえることはありがたかったし、今でも協力をしてくれる彼には、感謝もしている。
「生きたいか」
そう聞いたのは、たんなる理由付けで、逃げ道だった。
何も分からない少女が、死にたいというはずが無い。
そう踏んで聞いた卑怯な言葉で、それを根拠に僕は自分の行動を正当化することにした。防衛線でもあった。
僕は、少女の望みをかなえたのだと、そう思わせること。
彼女が僕を恨む結果になった時に、恩人となった僕を、どう思うのか。
僕なら――……。
軽く首を振り、息を吐く。
少女を連れて脱兵した僕は、幾つかの町を転々としながら、戦火の届かないところとして軍医に教えられていた、この麓の町に辿り着いた。
しかし、そこにも戦争の手は伸び始めていた。
恐ろしいのは、人間だ。
誰かに、僕がココに逃げているとばれてしまうこと。そうすれば、脱走兵として殺されるのは確実だった。
死ぬことは、構わない。
どうせいつかは殺されるのだろうと、そう思いながら過ごしてきた。
どうせなら、早く殺してくれと思ったこともあった。
けれど、今の僕は、少女を置いて死ぬわけにはいかない。
彼女を放って死ぬことは、少女を見殺しにすることと同じだ。
だから、この山小屋に逃げた。
慣れない生活に、少女はかなり戸惑っていたし苦労もさせただろうと思う。しかし、少女は文句も言わず(言えないだけだろうが)、ここでの生活に順応していった。
最初の冬の冷たさにも、彼女は文句は言わなかった。
町に下りたいといわれるのではないかと危惧していたのだが、それも無用だったらしい。少女は寒さに震えながらも、大丈夫だというように微笑んでくれた。
救ったと思った少女に、救われた。
「……一ヶ月、か」
居間に有る椅子に座り背を預けて、低い天井を見上げる。
本当にこれで戦況が変われば、少女との生活も終りを迎えることになる。
当然だ。
僕は元々、彼女の傍に居るべき人間ではない。
少女が一人で生活できるように手伝う程度はしても、その後、彼女の人生に介入することは許されないだろう。
そもそも、彼女を助けようと思ったのは懺悔の気持ちからだ。そんな理由でずっと付いてこられても、彼女だって迷惑なだけだろう。
戦争が終われば、平和になる。
平和な町というものを、少女は見たことがあるだろうか。
冬が終り春がやってくるように、町にも活気が戻ってくる。
少女と共に、そこへ降りていきたい。
人々の笑いあうその空間へ、彼女を連れて行ってやりたい。
そうしたら、僕は……――。
きぃと音がして扉が開き、相変わらず僕のコートを着込んだままの少女が、居間に現れた。驚いた顔をして僕を見てから、嬉しそうな顔になり、勢い良く飛びついてきた。
椅子ごとひっくり返りそうになるのを何とか止めて、苦笑する。
「ただいま」
僕の首にすがり付いて嬉しそうに飛び跳ねる少女を支えながらそういえば、彼女は少し離れて僕を見てから、それに答えるようににっこりと笑みを浮かべた。
ようやく落ち着いた少女に一ヶ月後に再び町に下りるといえば、不満そうな顔で腕を叩かれた。
何でと問いたそうな表情で僕のことを見る彼女に、ごめんな、とだけ言って軽く頭を撫でた。すると少女は目をすぼめて僕のことを見上げた後に、小さく頷いた。
どういう意味なのかは、イマイチ図りかねたけれども。
町で買って来た幾つかの新しい服や手に入れた食料を見ると、現金にも、少女の機嫌はすぐに直った。
新しい服を自分に当ててみたり、僕に押し当ててなにやら真剣な表情で考え込んでみたりと、見ていてこちらが飽きないぐらいに色々とやり始める。僕が町から帰ってくるといつもそうなのだけれど、彼女にとって、これは仕事みたいなものなのだろう。
楽しそうに動く少女を見ながら、ああ、と息を吐き出す。
我ながら矛盾している、と思う。
早く戦争が終わってこの少女が僕から離れていくことを望む一方で、この閉じた世界が永遠に続くことを望んでいる。
本当に、矛盾している。
おかしいんじゃないか、と思う。
彼女を解放してやりたい、というのなら分かる。
その一方で、歪んで冷えたこの空間を、二人でずっと分かち合って行きたいなんて、どこかおかしいとしか思えない。
僕はーー、
ご機嫌取りに僕が何とか探し出した服を着て、どう、というようにくるりと一回転する少女に微笑んで答える。
僕は、どうしようもなく愚かなのだと、心の中で嘲笑した。